第154話:簡単な奇跡の起こし方
水族館から出る前に怜は、館内にある総合案内所に行って、近くで昼食を取れる店を訊いた。
以前に親と来た時のおかげで海鮮が美味しい店は知っていた。しかし、魚を見たあとに海鮮を食べるのは、自分ひとりであったり、無神経が服を着て歩いているような我が家族と一緒であったりすれば問題はないが、普通は良識を疑われる行為……かどうかまでは知らないけれど、礼儀にもとる可能性はあり、その可能性があるのであれば、しないだけの分別があるのが怜という少年だった。
直接水族館に関係がないことでも、訊けば教えてくれるものである。案内所のお姉さんから、この辺りの食べ歩きの地図をもらって、少し離れたところに立っているカノジョの元へと戻る。口元を笑みの形にしている彼女に向かって、
「前々から、人生を計画することは味気ないことだと思ってたんだけど、タマキはどう思う?」
言うと、
「わたしもあんまり計画をすることには興味がありません。計画を立てると、その通りにしか進まないから。奇跡は、計画からは生まれないでしょう?」
そんな答えが返されたので、怜は、今から環を連れて行くお店が奇跡的に美味しいことを祈った。
水族館を出ると、好天が続いている。
怜は片手で日傘を持って、片手で地図を持ちながら、他に持たなければいけないものがないことの幸運を噛みしめながら、歩道のアスファルトを踏みしめた。そうして、全く勝手が分からない街をさまようこと15分ほどして、目的の店へと到着した。無事到着できて、怜はホッとした。
「もしもレイくんが地図が読めなかったとしても、全然その価値は下がらないよ」
「お腹が空いてくればその気持ちも変わるんじゃないか」
「そんなことありません。だって、もう空いてるから」
「まあ、迷ってもタマキがいるからそれほど心配はしてなかったけどな」
「わたしは地図をたどってどこかに行ったことなんて、数えるほどしかないよ」
「じゃあ、もっとやってみた方がいい。いい頭の体操になる。間違えても体の運動になるしな」
そう言って、怜は、環を店先へと連れていった。
駐車スペースが広く取られており、店舗自体も大きめだった。
歩行者用の踏み石を渡って、ドアへと着くと、怜は日傘を閉じて、ドアを開き、レディファーストを行った。
中に入ると、焼き立てのパンの匂いがかぐわしく、心地よく食欲を刺激した。半分のスペースが売り場となっていて、もう半分が飲食スペースとなっている。
「端から一つずつ取っていきたいくらいね」
「そんなには食べられないだろうから、特別気に入ったやつだけにしよう。もちろん、帰りのバスや電車の中で食べる分を買ってもかまわないよ。幸い、リュックには空きがある」
トレイを構えた環と一緒に、怜は特に美味しそうなパンを選んだ。
売り場を一周したあとに、
「それだけでいいのか?」
トレイを覗いて、環の食べる分を確かめた。
「四個は『それだけ』じゃないと思います。貪欲な女の子だってカレシに思われるんじゃないかって心配」
「彼はそんなことは思わないと思うな。たくさん食べる子の方が好きらしい」
「彼とは親しいの?」
「たった十四年の付き合いだけどな」
「わたしはまだ数年の付き合いだから、じゃあ、ご意見をお聞きすることにします」
そう言って、環は、もう一つパンを、取り皿に入れた。
山盛りになったトレイをカウンターに差し出すと、レジのお姉さんが、見事な手際で一つ一つのパンを素早く、袋やプラスチックのケースに入れてくれた。怜は、ポイントカード発行のお誘いを丁重に断ってから、二人分の紅茶を頼んだ。買ったパンと紅茶を持って、店内の一角に行き、そこにあった丸テーブルの上に置いたあと、椅子を引いて淑女を迎えると、「ありがとう」というお言葉を頂いてから、自分の席につく。
「スープやサラダは良かったのか? タマキ」
「わたしを太らせようと思ってる?」
「そんなこと考えたこともないよ」
「レイくん、ちょっとタイム」
その声で怜は、パンの包みの一つに向かおうとしていた手を、宙で止めた。
「わたしが今買ってもらったこの5個のパンを、今食べたいって言ったら、どうする?」
「……タマキ、別にそれでお前のことを、貪欲だとか、大食いだとか、自分自身が太りたいと思ってるんじゃないか、とか、そんなことは思わないよ」
「レイくん、5個なんて食べられるわけないでしょう」
わけないなら、なんでそんなことを訊くのか、訳が分からないままでいると、環は、まず自分の一つ目のパンに手を向けて、真ん中のあたりから半分にちぎった。そうして、片割れを我がカレシに手渡した。
「……タマキ、オレも3つ買ってるんだけど」
「帰りのバスと電車の中でお腹が空く予定でしょ?」
「予定を立てるのは嫌いじゃなかったのか?」
「時と場合によりけりです」
怜は自分のパンをあきらめると、
「いただきます」
環と声を合わせてから、彼女が選んだパンを食べ始めた。それぞれ、チーズが入っていたり、チョコが練り込まれてあったり、クリームが上に乗っていたり、硬かったり柔らかかったりするパンを食べていくと、まずもって生地が美味しいので、いくらでも食べられそうな気持ちになったが、さすがに、二個半ずつ食べると、お腹も膨れたようだった。
「紅茶のお代わりは?」
「いただきます」
怜は席を立つと、お代わりフリーになっている紅茶を入れてから、戻ってきた。
「お腹いっぱいになりました」
「自分の分がなくなったからって遠慮することないぞ。まだオレのがある」
「レイくん」
険のある目で見られた怜は、自分の目を窓外に転じた。
窓からは、海が見えた。
食べ終わってしばらくしてから、そろそろ出ようかと思っていると、環が立ち上がって、「失礼します」と断ってから、化粧室へと行った。
ほんの気まぐれから海を見ようと思ってここまで来たのだけれど、来てみたら中々に面白い。一つの行動が、思いがけない結果を生む。それを奇跡と呼ぶとしたら、案外に奇跡というのは簡単に起こせるものなのかもしれない。
怜は、環が戻ってくる前に、テーブルを片付けて、残ったパンをリュックに入れた。
そうして帰ってきた環と店を出ると、また日傘を差して、少し海岸沿いを歩くことにした。
パン屋の前にバス停があって、それは駅まで通じているようである。
次のバスが来るまでもう少し時間があった。
海から吹く風が、少女の黒髪を揺らしている。
髪を押さえるために手を添える仕草が、絵になるような子である。
美の女神はこの少女を惜しみなく祝福したようだった。
「この海を越えてみたいという気持ちがあるけど、こうして海を見るだけでも、もう幸せなんです」
「安上がりだな」
「それはわたしに高値をつけてくれているからそう思うんじゃないかな」
「誰だってつけるよ」
「他の人の評価には興味ありません」
「自分自身でも評価してあげてもいいと思うけどな」
「自分の評価にも興味ないんです」
「何にも興味がない子だな」
「そんなこともないよ。色々と興味があることはあります」
「たとえば?」
「次はいつデートに誘ってくれるのかな、とか」
「次のことを考えるのは、今に集中してないってことだ。品がない行いだぞ」
「品がないんです、わたし。今日でよく分かったでしょう? レイくんにしつけてもらおうかな」
「しつけるって、子どもじゃないだろう」
「でも、『じゃじゃ馬ならし』っていう作品もありますよね」
「自分がじゃじゃ馬だっていうことが分かっているのか」
「いいえ。でも、レイくんがわたしのことをじゃじゃ馬だと思っているということは分かりました」
たとえ、じゃじゃ馬だとしても、馬には一日千里を行くものや、翼を生やしたものだっている。
「遠くに行かれたらかなわない」
「どこにも行かないけれど、心配なら、木綱を結んでおいてください」
「友情の絆でいいかな?」
「もっと強いものがいいです」
「じゃあ、運命のきづな?」
「綱だったら、運命の糸よりも強そうですね。ロマンチックさには欠けるけど」
「色は青でいいかな。この海みたいに」
「今のわたしの心みたいに?」
「ブルーだとは知らなかった。その憂鬱を晴らすことができるといいんだけど」
「その気になればいつだって晴らせます、お天気屋なので」
「天気を売ってるなら、今度は雨を降らせてもらおうかな」
「暑いとき?」
「いや、カノジョに泣かされたとき。涙が雨で隠れるように」
少し歩いたあとに、Uターンして、バス停へと向かう。
ぬいぐるみみたいな犬を連れた老人とすれ違い、奇声を上げて走ってきた子どもを避けた。
時間どおり現れたバスに環を乗せて、怜は彼女と隣同士の席に座った。
環は、ふう、と息をついた。
「楽しいときって、楽しい分だけ終わるのが寂しくなるね」
「だからこそ、楽しい時をめいっぱい楽しむんだろう?」
「わたし、欲張りなんですね」
「でも、だから、またタマキとデートできる」
「あら、わたしから言わないとしてくれないんですか?」
「こっちの都合でタマキの時間を奪うのが忍びない」
「わたし、時間だけはあるんですよ。だから、どんどんと差し上げます。『与えよ、さらば与えられん』という言葉もありますし」
時間というのはすなわち命である。そんなものをただほいほいもらうわけにはいかない。せめては、環に楽しんでもらいたいと思うのだが、そのうちに怜は楽しんでいる自分に気がついてしまうのである。このカラクリはどうなっているのか。しかし、この件について、彼女に話すのは何か危険な気がするので、怜は言葉には出さなかった。
駅に行くと、我が旅の道連れたちと、帰る時間がずれたのか、行きよりは混んでいない。
来た時と同じように彼女を窓際に座らせると、
「今日は一日ありがとうございました。わたしの我がままに付き合ってくれて」
環が言った。
「むしろオレの我がままに付き合わせた格好だけどな」
「デートをお願いしたの、わたしだから。ところで、レイくん、いただいたものは返さないといけないよね?」
「そういうことになってるな」
「今日は全部レイくんに負担してもらったから、今度はわたしが負担したいんだけど、どう思う?」
「お金のことは別に気にしなくていいよ。あったから使っただけだから」
「じゃあ、わたしもあるときは使っていいですね?」
「オレに断るまでもないよ」
「それと、もしもお金がない時でも、わたしのこと誘ってくれる?」
「町内の散策旅行とかになるけど」
「わたし自分の住んでいる町がすごく好きだってこと、前に言ったことあったっけ?」
「聞いたことないな」
「じゃあ、よかった。実は好きだったんですよ」
「海は見れないけどいいのか?」
「海が見れなかったら、空を見ればいいでしょう?」
その空はまだまだ青い。
電車の中で、残っていたパンを1つだけ、半分こして食べた。
我が町の駅に戻って来ても、夏の日は暮れていない。
「散々歩いたけど、まだ歩けるか?」
「どこまででも歩けます」
怜は、閉じた日傘を片手にして、もう片手に環の手をとって、暮れなずむ街を、彼女の家に向かって歩き始めた。