第150話:みたびの川名家
明るい日の光の下を玄関まで歩いて、円がドアを開く。
「ただいま」
彼女が声を上げるのと同時に、タッタッタッと陽気な音を響かせながら、小学一年生の少女が姿を現した。「お帰り、お姉ちゃんっ」と、姉を迎えて喜びに輝く笑顔が、こちらを見ていっそう大きくなるのを認めた怜は、生きていると存外にいいことがあるものだと再確認した。ちなみに、以前確認したのは、以前彼女に会ったときである。
「レイっ!」
一段高くなった床の上から抱きついてきた旭は、両手を伸ばしてきた。
怜は旭を抱き上げてやった。彼女からは日なたの匂いがした。
「今日レイが来てくれたら、いい子にしますからって、神様にお願いしてたのっ!」
思わず落涙しそうなことを言ってくれる少女のその重みを感じていると、二人の女の子の母親が現れて、玄関先に膝をついた。
怜が旭をおろしてから挨拶すると、
「娘たちがお世話になっています」
そんなことを言って軽く頭を下げてくるものだから、怜は大いに恐縮した。
円が靴を脱いで玄関に上がる。
「先輩にお昼をご馳走するけど、みんなご飯食べちゃった?」
「お母さんはね。でも、環お姉ちゃんと旭は、円が帰ってくるまで待ってるって」
うなずいた円は、妹に、先輩をリビングにご案内して、と声をかけた。
「マドカお姉ちゃん、タマキお姉ちゃんみたい」
旭がにっこりと他意なく言うと、円はわずかに顔をしかめるようにしたが、すぐに奥へと歩いて行き、階段を登る音を立てた。
「行こっ、レイ」
旭の手に引かれる形で玄関を上がり、リビングに入ると、一人の少女が立っていて、迎えてくれた。
たださえ明るい室内をいっそう輝かせるような容姿の子である。
環は、ようこそ、と言って、頭を下げ、軽く黒髪を揺らした。
「ご飯できるまで、カルタやろうっ!」
旭が、足の短いテーブルの下から小さな箱を取り出して、テーブルの上にどんと置いた。
環が両手を差し出している。
怜は環に肩掛けカバンを手渡した。
それから、テーブルに着くと、早速旭が、テーブルの上にカルタを散らばらせている。
「タマキお姉ちゃんが詠み手ねっ!」
どうやら百人一首カルタらしい。
詠み手が上の句を読んで、対応する下の句を取る遊びである。
怜は受けて立った。
驚いたことに、旭はさっさとカルタを取っていく。
「凄いな、アサちゃん」
怜は素直に感動した。
旭は満面の笑みで、練習したんだ、とのこと。
「加藤くんに褒めてもらいたくて頑張ったんですよ」
近くのソファに座っていた母親が言うと、旭は、ムッとした顔をして、
「お母さん、そういうのは言ったらダメなの!」
可愛い声を荒げた。
秘すれば花である。
少女の母は、ごめんなさい、と素直に謝って、ソファを立つと、
「ごゆっくり」
と怜に言って、ホステスを娘に任せ、リビングを出た。
キッチンでは、円が準備を始めているようである。
カルタは旭の圧勝に終わった。
「百人一首を覚え直さないといけないな」
怜が落とした肩に、ぽんぽんと小さな手が打ちつけられて、
「がんばってね、レイ」
旭は言うと、ちょっとしつれいします、と礼儀正しく続けて、その場を離れた。
「ありがとう、レイくん」
近くに座っているカノジョが言う。
「妹に付き合ってくれて」
「アサちゃんの願いなら、自分で和歌を書いたっていいよ」
「和歌を書けるなんて、初めて知りました」
「やる気になればなんだってできるもんだ」
「それ、覚えておこう」
「でも、タマキは言わないよな」
「言いません」
「よかった」
「だって、三十一文字じゃ、寂しいもの」
そう言って、目をパチパチとさせる彼女に、怜は男らしく答えた。
「帰りに原稿用紙を買っていくよ」
「重厚な装丁のノートの方がいいかも」
「どのくらい書けば満足なんだ?」
「多々益々弁ず、です」
多ければ多いほどいい、とは何と強欲な子だろうか。怜は、それをちゃんと詰ってやった。すると、
「他に何も要りませんので」
なんて言葉が返って来たので、非難を取り下げた。
「タイトルはどうする? 『愛の言葉』?」
「ちゃんとそれを贈る人の名前もわきに書いておいてくださいね」
旭が帰ってくると、二人に向かって、
「レイ、タマキお姉ちゃん、ラブラブしてた?」
言ってくるものだから、怜は、環を見た。
環はそのほっそりとした首を横に振ると、
「学校で流行っているみたいです」
と抗弁した。
昼食の席になった。
「ここ座って、レイ」
ダイニングテーブルに着かせてもらった怜は、旭の隣に導かれた。
お昼のメニューは、そうめんであるそうである。
夏の風物詩である白く細い麺の平たい皿のそばに、また別の器があって、ほわほわと湯気が出ている。どうやら温かいつけ汁で食べるそうめんらしい。つけ汁の中には豚肉と夏野菜が刻んであった。
「夏場は冷たいものを取りがちなので」
なるほど、と思った怜は、円の心遣いに感謝しながら、おっかなびっくりいただいてみた。
美味である。
「こんなおいしいそうめん初めて食べたよ、マドカちゃん」
怜は感嘆の声を出した。
テーブルを挟んではす向かいに座っている我がカノジョから含みのある目を向けられているような気がするがきっと気のせいだろう。もしもこれが環が作ったものだとしても同じ反応をしたという自信が怜にはある。
円は表情を変えずに、大げさです、と静かに答えた。
旭はもくもくと食べている。
食べ終わった怜は、さすがに今日はいつかのようにお皿洗いを手伝わせてはもらえなかった。自分が招待した客なのである。円からしたら当然だろう。
「少ししたらお茶を淹れますから」
いたれりつくせりの歓迎に、怜は帰る機を逸した。
そもそもが、旭が離してくれそうにもない。
旭がまた席を外したときに、環が言った。
「勉強の時間を無駄にしてしまいました」
「アサちゃんと遊ぶ時間は全然無駄じゃない」
「妹に嫉妬する女の子ってどう思いますか?」
「一般論?」
「はい、一般論です。どこか遠くの国のわたしによく似た子です」
「その子もタマキみたいに美人なのかな?」
「その子はそういう風に言われると喜ぶようです。嫉妬の気持ちも消えるかも」
「じゃあ、さっきの質問はなかったことにしてもいいな?」
怜は、旭とまた百人一首カルタをして敗北を喫したあと、お茶をいただいて、そのあと円を含めた四人でボードゲームを楽しんだ。
遊んでいる時間はするすると過ぎて、三時になった。
そろそろお暇しなければいけない。
立ち上がった怜は、旭に抱きつかれた。
「やだ、まだ、レイといる。レイ、たまには泊まっていってよ」
円がぎょっとした顔をして、環が微笑んでいるのが見えた。
それは、たまにはなんていう軽いノリでできることではない。
関係各所に許しを得なければいけない上、怜にも相応の覚悟がいる。
「それか、レイのところにお泊りに行きたいっ!」
まだしもその方が可能性があるかもしれないが、それも中々難しいだろう。
「旭、もう少し大きくなったら、お願いしてみたら?」
見送りに来ていた母親が声をかけた。もうちょっと大きくなったらそれだけ可能性は低くなると思うが、とはいえもちろんそう言う他ないところではある。
旭は、はあっ、とため息をつくと露骨に肩を落として、
「わたしって、はっこうのびしょうじょ、なんだ」
と怜に向かって言った。
その声が真に迫っているので、返って怜はおかしみを感じて、つい笑ってしまった。
すると、旭はじろっと白い目を向けてきた。
「何がおかしいの? レイ?」
「え、いや、何でもないよ」
「何でもあるでしょ! わたしのこと、笑ったんだから!」
怜は謝った。
「わたし、傷ついたから……でも、何かまたプレゼントしてくれたら、治るかも」
怜は、膝を折るとすぐにプレゼントを約束した。
やった、と旭が声を上げる。
「じゃあ、失礼します」
怜は、母親に挨拶して、その娘たち三人に見送られる格好で外に出た。
環だけが門の外までついてきた。
夏の日はエネルギー全開である。思うさま暑い。
「ここまででいいよ。熱射病になるぞ」
「日傘が要りますね」
「タマキがすぐに中に入れば要らないだろ」
「そういう選択肢もありますね。あんまり気に入らないけれど」
「人生、気に入らないこともたまにはしなくちゃいけないんだ」
怜は分別くさいことを言ったあとに、
「またアサちゃんのプレゼント買うのに付き合ってもらえるか?」
と尋ねた。
「それ、あんまりロマンチックなデートの誘い文句じゃありませんね」
「ロマンスには縁遠いんだ」
「責められてるみたい」
「責めてるって、オレが?」
「ええ。簡単にリビングなんかで待ってるのが悪いのかな。塔の上にでも幽閉されようかしら」
「それで、長く伸ばしたお前の髪をつかんで塔の上まで登っていくのか?」
「その方がありがたみがでるでしょう」
「それはゾッとしないな。ロッククライミングをしてもいいけど、せっかくの綺麗な髪が傷むだろ」
「あら、じゃあ塔には行かないことにします」
「どこにも行かないでくれ」
「ちょっとロマンチックになりました、今の」
「探しに行くのが面倒だからさ」
「減点1ね」
「何点引かれたら、タマキにもプレゼントできるんだ?」
「そういうことなら、いくらでも引きますよ。心苦しいけれど」
心苦しい割には、やけに環は綺麗な笑みを漏らした。
怜は、環にもう家の中に入るように言った。
「嫌だって言っても、わたしのこと嫌にならないでしょう?」
「嫌にはならないけど、それだけ好きになるわけでもない」
「難しいな。どこかにレイくんの手引書でも売ってないかな」
「そんな本ならオレの方が欲しいよ。オレをやる気にさせる方法とか知りたいね」
「やる気がないのはやるべきことではないからかもしれないよ」
「タマキと一緒の高校に行こうと思って勉強してるんだけど」
「前言撤回します」
怜は、もう一度、家の中に入るように言った。
「レイくんの背中が、地平線の向こうに行くまで見送るくらいの間なら、いいでしょう?」
そう言って頑として譲らないので、怜は、背を向けることにした。
歩いて少ししてから振り返ると、環が立って手を振っている。
地平線は随分と遠くにあるので、怜は、曲がり角を曲がって自分の背を彼女から隠すことにした。