第149話:文化祭の練習におもむく半日
ある日の夏休みの朝、怜は自室で制服を身につけて、階下に降りた。
リビングのソファで、パジャマ姿の妹が寝っ転がりながら朝のニュースを見ている。麦茶を飲むために冷蔵庫を開けた兄の気配に気がついたのか、むっくりとその身を起こした妹は、
「お兄ちゃん、何で制服なんて来てるの? 今が夏休みだってこと忘れたの? 勉強のしすぎで頭悪くなったんじゃない?」
清々しい朝の挨拶をしてくれたので、怜は、今日は部活があって今から学校に行くところだ、と釈明した。
「部活って……何だっけ、お兄ちゃんの部活?」
我が兄の部活も知らないとは、さすが都である、と怜は感心した。そうして、「文化研究部」という、古今東西の文化を研究する大変立派な部活だということを、無知な妹に教えてやった。
「ふーん……地味なお兄ちゃんにぴったりの部活だなあ」
そう言うと、彼女はまたテレビニュースに戻った。妹と話して時間と労力を無駄にした怜は、彼女にはもう本当に必要があるときしか話しかけないように切に頼もうかと思ったけれど――ちなみに、怜の方はもちろん必要ある時しか妹には話しかけない――そんなことをすれば妹からはまだしも、必ず母から小言を受けるであろうということに思い至って、考えを改めた。ある意味では、妹と一緒にいるのだって高校卒業までのあと3年ちょっとくらいのもの、貴重な経験なんだ。
――貴重、きちょう、きちょう、几帳……。
マインドコントロールはうまく行かず、頭の中で、同音異義語が変換されてしまった。ちなみに、几帳とは室内を仕切るための道具である。嫌な妹の顔を見たくないときなどに、彼女との間に立てるのがよい。
怜は、洗濯カゴを持って二階に上がろうとしていた母親に一声かけると、外に出た。いい天気である。いい天気すぎて、若干気持ちが悪くなりそうなほどだった。こんな日は、家で涼むのが吉である。何を好きこのんで、家を出て学校になど行かなければいけないのか。そんなことも分からないのだから、怜は、妹の言う通り、自分の頭がさして良くなってはいないことに気がついた。
歩いて行くと、世は夏休み、私服姿の中高生をたくさん見かけた。これから、海やプールに行ったり、かき氷やアイスを食べたりするのだろう。そんなことを思えば、余計に暑くなってきた。そうして汗をたらたらと垂らしながらダラダラ歩いて行くと、学校につく頃にはすでに部活動に使うエネルギーを消費しきっていることに気がついた。大変有意義な部活動になりそうである。
夏休み中でも、生徒の求めに応じて教室を貸してくれるのが我が学校の心憎いところだと、もしもそんなことをしてくれなかったら休み中に部活をやることもないのにと思って、憎たらしく思った。グラウンドで駆け回っているサッカー部員や野球部員を横目にしながら校舎内に入ると、もわんとした空気が歓迎してくれた。外は外で暑いけれど、校舎内も涼しいわけでもない。すれ違った教師に挨拶しながら、階段を昇って、視聴覚教室に着く。部員数が増えたことで、部長は、こんな間に合わせではなくて、正式な部室を用意するよう学校に談判したようだけれども、増えたといってもそのほとんどが三年生で彼らはこれからまた去って行く身の上であり、実質的に増えたのは一年生一人だけであり、このままだと来年は二人に減るのであり、そんな状況では、ちゃんとした部室はもらえるわけもなかった。
窓からギラギラとした光が差し込む廊下を歩いて、視聴覚教室に到着すると、ドアの前にたたずむ女の子の姿がある。「ものがたり部」の部長、上村仁奈である。怜が挨拶すると、
「おはよ。今、アンコが視聴覚教室の鍵をもらいに行ってるとこよ」
そう言って微笑んだ。細身の肢体に、肩先までの黒髪はストレート、すっきりとした容姿の少女である。今日の部活動は、来たる文化祭の出し物の練習であり、その出し物である劇の台本を書いてくれたのが彼女だった。その台本にさらなる改良を加えられないかと、練習風景を見に来ているのである。
「この部って本当に楽しそうだよね」
仁奈が言った。彼女は中々社交性があって、こちらから何も話さなくても話しかけてくる。
怜は、部長の仁徳だよ、と答えた。
「アンコにそんな力あるかな。これは別にあの子を悪く言ってるわけじゃないのよ。でも、アンコは人を惹くような子じゃないな」
「そんなことはないと思うけど」
怜が反論したのは、部長への義理ではない。現に怜は彼女から不快な仕打ちを受けたことがない。それだけで十分に好意に値するし、それだけ惹きつけられると言ってもいい。
「橋田さんにしても、川名さんにしても、塩崎くんにしても、加藤くんがいるから入って来たんじゃないかな」
そんなことはないだろう、と怜は思ったが、他人が考えることに口を挟む気はない。
「あ、ちょっとゴメンね」
学校指定の肩掛けカバンから、仁奈はメモ帳を取りだすと、何事かを書きつけ始めた。それを終えてから、
「思いついたことがあったから、書きつけたの。こうしないと、少しすると忘れちゃうからさ」
そう言って、メモ帳をしまった。
「物語の筋とかか?」
「そそ。加藤くんはそういうことする? 思いついたアイデアを書き留めたりとか」
「したことないな。そもそも、大したことを思いつく頭じゃない」
「それはあなたの頭を作ってくださったご両親に失礼じゃないかな」
怜は一本取られた。
「加藤くんは物語を書いたことは?」
「無いよ」
「書きたいと思ったことはある?」
「それもないけど、書ける人のことは尊敬してる」
そう言ったあと怜は、
「上村は、物語を象牙の塔から解放したいのか?」
いきなり言ってみた。
仁奈は、その涼しげな瞳を大きくした。しかし、すぐに不敵な笑みを浮かべて、
「うん、その通りよ。わたしはね、物語を書くということの素晴らしさを広く伝えたいの、言葉を所有する全ての人にね」
答えた。
「そのために前の部活をやめて、新しく部活を立ち上げた?」
「その通りよ、名探偵くん」
「市井に出たソクラテスだな」
「ソクラテス? あんな偉い人とは違うよ。だから、毒杯を仰がされる恐れはないわけ……面白いと思ってたけど、相当面白い人だね、加藤くんは」
「自分ではそうは思わないけどな」
「わたしは好きだよ」
ちょうどそのとき足音がして、振り返ると、部長の田辺杏子である。
杏子は、驚いたような顔をして、立ちすくんでいた。
怜が挨拶しても、反応がない。
杏子は恐い顔をして仁奈のそばに近寄ると、「ちょっとこっち来て!」と小声ではあるが鋭く言って、彼女を脇に連れていった。そうして、「……カノジョ持ちの人……学校で告白……どうかしちゃったの?」と漏れ出でた声を聞きとると、なにやら剣呑な勘違いをしているようである。
仁奈は肩をすくめるようにすると、「恋愛は自由でしょ」と、部長をからかうことに決めたようだ。杏子はショックを受けた顔をすると、今度は、つかつかと怜の元に寄って来て、
「川名さんを悲しませるようなことしたらダメだからね、加藤くん!」
と矛先を変えた。
怜は、重々しくうなずいた。
その後、杏子は、「信じらんない」という言葉を連発しながら、視聴覚教室のドアを開いて中に入った。
怜が仁奈を見ると、仁奈は、「からかい甲斐のある子だね」と悪びれもせず舌を出して、「お先に」と言って、教室の中に入った。
杏子は、自分よりも先に来て視聴覚教室を開けておくことを、次期部長候補の蒼に頼んでおいたので当然すでに教室は開いているものと期待して来てみたら、期待を裏切られた、と憤懣やるかたない口調で説明した。
しばらく待つと部員がみな姿を表した。
そうして、練習が始まった。
仁奈が書いた物語は文化研究部の日常を描いたものである。しかし、多少コミカルな味付けがされている。中々に面白い、と怜は思っていた。それぞれのキャラクターを立たせながら、不自然なほど立たせすぎはしない。その目的を文化研究部の紹介に当てながらも、筋が一本通っている。
練習は今日だけではなかった。上演はたった30分。そのために、何時間も稽古をしなければいけないとは、これは舞台俳優は大変だと、怜は汗を拭った。開いた窓からは生ぬるい風しか流れて来ない。
9時半から始めて終わったのは、11時半である。
一仕事終えたような疲労を覚えた。
今日はこのあとは何もない。
みんなでお昼を食べていこうということになったけれども、怜は断った。気軽に外食できるほどお小遣いに余裕はない。
外に出ると、日は最も暑い時刻に向かって、さらに勢いを増している。
この日の中を帰らなければいけないのかと思うとうんざりである。
「加藤先輩」
後ろから声がして、振り返ると円だった。
彼女からわざわざ声をかけてくるとは珍しい。
立ち止まると、家でお昼を食べて行きませんか、と来たので更に驚いた。
「妹に頼まれたんです」
怜は、迷わなかった。
たとえ年若い妹ちゃんの願いだとしても、円が誘ってくれることなど無いのだから、これは多少、家の人にはお邪魔であっても行くしかない。
怜は、円を車道から遠ざけるようにして歩いた。
二人で歩いていても特に話すことがない。
環と一緒にいる時は、それが嫌ではないどころか、心地良ささえあったが、今は、緊張を覚えるだけだった。何か話した方がよかろうかと思うのだが、特に何も思いつかない。そう思っていたら、
「先輩は、中一のとき、どんなことに興味がありましたか?」
円が訊いてきてくれたので、会話が始まって助かったけれど、すぐにこれはなかなか厄介な質問だということに気がついた。
どんなことと言っても、特別興味を持っていることなどなかった。しかし、正直にそんなことを言えば、そこで会話は終わりである。答えに窮した怜は、中学校生活全般に関して興味があった、ということにしておいた。そこから突っ込まれるとうまくないので、怜は、反対に円の興味を訊いた。
「人です。興味を引く人がいます」
円は静かに答えた。
しまった、と怜は思った。これは話が不得手な分野に持っていかれるのではないかと思ったからである。しかし、彼女から言い出したことなので、どうにもしようがない。しようがないけれど、さすがに、「好きな人?」などと尋ね返すわけにいかないので、せっかくの会話が始まったのに黙っていると、
「でも、何をすればその人みたいになれるのか、そもそもその人がどういう人なのかも分からなくて、その人みたいになるっていう考え方自体も合っているのか間違っているのか、何も分からないんです」
円が続けた。
誰か憧れる人がいるということだろうか。それは彼女の姉のことかもしれなかった。この間、鈴音が、「この人生から、くまなく謎がなくなってしまったら、そんなつまらない事ってないでしょ?」と言ったけれど、分からないことがあるということの楽しさを知っているということは、それはもう分かっているということでもある。そのセリフを円に言ってやるわけにもいかなかった。
「この時の流れに垂直に立つことができたら、とオレも思うよ」
「時の流れに垂直に立つ?」
言ってしまってから、相手が円だったということに気がついた怜は、
「時間が川の流れのようなものだとしたら、それに乗っているオレたちは、その流れに流されてどこかの岸辺に着くだろう。そのとき、何かが分かるようになるのかもしれない。でも、そうじゃなくて、その川に流されずにいられたら、時の川に流されず好きな岸辺に自分で行けたらってね」
そう言い直した。
「……先輩でもそういう風に考えることがあるんですか?」
先輩「でも」というのはどういう意味だろうか。よっぽど物を考えなさそうな顔をしているのだろう、と怜は思ったが、実際よく物を考えているわけでもないし、円が言ったことなので、抗弁はしなかった。
それから彼女は沈黙の帳をおろした。
怜は、何か円の機嫌を損じてしまったかと思ったけれど、かと言ってかける言葉も見つからず、横断歩道でうっかりと円の手を取ったりしないように気をつけながら、ただ汗をしたたらせた。やがて苦しい時間にも終わりがやってきて、川名邸に着くと、
「どうぞ」
門の脇にある通用口から中に導かれた。