第148話:青春のイチゴショートケーキ
夏休みは淡々と過ぎて行く。
一日が終わり、また次の一日がやってきては終わっていく。
こんなリズムで進んでいたら、あっという間に夏休みは過ぎてしまって、いつの間にか秋になってしまうのではないか。
いや、別にあっという間に過ぎてしまって、秋になってしまったって悪いことはないのだけれど、どこか寂しい。
「なんか青春的なことがしたいよー」
宏人は、友人の一哉に向かって、愚痴をこぼした。
二人がいるのは、彼の団地アパートのすぐ近くの公園である。
夏の日が燦々としている中、小さな子たちが、きゃっきゃっと元気な声を上げながら、走り回っていた。
それを眺めながら、一哉が浅黒い精悍な顔を向けてきた。
「青春ってたとえばどんな?」
「たとえばって、まあ、ほら、海に行ったりさあ」
「行けばいいだろ」
「一人で行ってどうするんだよ。思いつめた人じゃないんだから」
「なるほど、ヒロト君は女の子と遊びたいってわけか」
「いやだなあ、そういう身もふたもない言い方、カズヤ君」
「女なんて面倒くさいだけだけどなあ」
この言い方、カノジョがいたことがある、もしくは今いるのだと、宏人は思ったが、聞かないでおいた。
「カズヤのことを嫌いになりたくないからさ」
「うん、ならそうしてくれ……てかさ、藤沢とか二瓶とか誘って、海にでも山にでも行けばいいだろ」
「気楽なことを言う」
志保や瑛子を誘って出かける。その考えは宏人を緊張させる。いや、誘えば行ってくれるかもしれない。誘って悪いことはない。それなのに、二の足を踏むのは、なぜか。彼女たちとは、そういう期間を過ぎてしまったのかもしれなかった。遊びに行くのはよりよく相手のことを知るためだろうが、すでに二人については多くのことを知っていた。知りすぎたとさえ言うことができるかもしれない。もちろん、それは悪いことではない。
「それにしても、やっぱ、二瓶は見かけどおりじゃなかったわけか」
一哉が言った。
そう言えば、一哉は以前瑛子が外見通りの子じゃなさそうだということを言っていたような気がする。
志保も気がついていたわけだし、すると、自分だけ観察眼がないことになる。
「恋は盲目って言うからな」
一哉がうがったことを言った。
確かに瑛子には憧れていた。淡い気持ちであるけれど。その憧れの気持ちを捨てた瞬間があって、その時瑛子の真相に迫った気がしたけれど、さらに奥があったわけである。人とは計り知れないものだと、宏人は思った。
「裏表がない人がいいよー」
宏人はふと一哉を見た。
「カズヤは裏表無さそうだなあ」
「人をうすっぺらいやつみたいに言うなよ」
「いや、いいやつだってことさ」
「この流れで告白したりしないよな?」
「今日はな。ムードがないから。次の機会に取っておくよ」
そのとき、
「ヒロトー!」
と親しげに名前を呼んでくれる声がしたので、宏人は、
「オレもモテるんだよ、実は。まあ、若干、相手は年下ではあるけどな」
そう言って、一哉の4歳の妹である瑞穂の方を向いた。
そのとき、サッカーボールがコロコロと目の前を通り過ぎていくのが見えた。
瑞穂は、少し離れたところで腰に手を当てて仁王立ちしている。
「もおっ! なにやってんのよっ! ボール、取って来て!」
宏人は、彼女の兄を見た。
一哉は、
「あれが妹の愛情表現なんだ。オレなんかいつも拾いに行かされてる」
素晴らしいフォローをしてくれた。
一哉の家でジュースをご馳走してもらうと、家に帰ることにした。別に用事があって一哉に会いに来たわけではない。ただ顔を見に来ただけである。
「ただ顔を見に来たくなるヤツなんだよなあ、カズヤは」
「そういう風に思える女の子が現れることを祈ってやるよ」
「女なんて面倒くさいんじゃないの?」
「ああ、だからだよ。ヒロトにも面倒な思いをしてもらいたいと思ってな」
友の厚情に感謝しながら自転車で家路を辿ると、この前のように美人の先輩に会うこともなく、何事もなく、帰宅した。そうして、じゃあ、まあ、夏休みの宿題でもやりますか、と気まぐれを起こしかけた絶妙のタイミングで、志保から電話が来た。彼女はたいてい電話をかけてくる。いくらでもSNSのツールがあるにも関わらず、電話である。それを彼女の丁重さと取るか、それとも依頼を断らせないためにしていると取るか、宏人は決めかねていた。
「もしもーし、ヒロトくんでーす」
「酔っぱらってるの?」
「キミに酔ってるかもしれないな」
「じゃあ、わたしが責任をもって引っぱたいて正気に戻してあげるから、今すぐ『シルビア』まで来て」
「おいおい、今帰って来たところなんだけども」
「もう一回玄関を出ればいい話でしょ」
「キミのそういういたわりのないところが好きなんだなあ」
「またケーキ食べさせてあげるから」
「いちごのショートケーキだろうな?」
「それに、モンブランもつけてあげる」
宏人は電話を切って、またぞろ外に出た。
ケーキは好きである。それなのに、先日姉がダイエットするとか何とか言い出したおかげで、中々買って来てもらえなくなってしまった。そんな状況でケーキ食べられてラッキー。しかし、志保がただケーキを食べさせたいだけのわけがないから、また面倒なことを頼まれるに違いない、と宏人は覚悟しておいた。ただでケーキを食べさせてもらえる、そんな甘い話は世の中に転がっていないのだ。
自転車をこぎこぎして喫茶「シルビア」に至り、外から電話で到着を告げると、しばらくして扉が開いて、志保が出てきた。いや、正確には志保らしき人である。というのも、いつかのように、彼女はドレスアップしていたからだ。膝上までのワンピースはふんわりとしたパフ袖のフェミニンなタイプで、それがよく似合っている。
「この方が喜んでもらえるかな、と思って」
髪をまとめることで白い額をあらわにしている。志保が微笑むと、宏人は心臓がドキドキとするのを覚えた。そうして、これはやはりただごとではないぞ、と覚悟した。
「オレもスーツ着てくればよかったよ」
「そんなことしたら、他人のふりするよ」
間接照明でうすぼんやりとした明かりの中をテーブルに着くと、店長である志保の叔母が現れて、
「いらっしゃい、ヒロトくん」
名前を呼ばれたのでびっくりした。
「もちろん、覚えていますよ。シホちゃんのカレシなんだから」
「カレシじゃなくて、婚約者ね」と志保。
「いつ婚約なんかしたの?」
「いまどきの中学生はマセてるから」
「わたしより先に結婚する気なのね?」
「大丈夫、カレが18になるまで結婚できない決まりだから」
「『カレ』ですって!? くやしいっ!」
この二人のやりとりは冗談だとは思われるが、店長にはある種の凄味があり、全くの冗談とも思われない。宏人は、志保の叔母のために、ステキな男性が現れることを祈っておいた。
「ごゆっくりね」
店長が一礼して下がると、宏人は、志保に用件を言うように促した。
「ん、なんのこと?」
「いや、そういうのいいからさ、美味しいものを食べたあとに、ヘビーなことを聞きたくないんだ。胃もたれしちゃうだろ?」
「お金貸して」
「うおっ、びっくりした。思っても見なかったよ……いくらだよ?」
「有り金全部」
「お前は強盗か何かか?」
「そうかも。あなたのハートを奪ったから」
「ハートは奪われてない。目は奪われてるけどな。それで? 本当のところは?」
「悲しいな。ただ、わたしは、ヒロトくんに会いたかっただけなのに……」
そう言って、まともにこちらを見てくる志保の瞳が美しく、宏人は心まで奪われかけた。何とか、ぶんぶんと首を横に振って正気を保つと、何も頼みごとがないのか、念を押した。
「ないよ、今のところは」
「じゃあ、本当にケーキご馳走するのに呼んだだけ?」
「そうよ。わたしのこと何だと思ってるの?」
「可愛い女の子」
「ありがとう」
ケーキと紅茶が現れて、宏人はホッとした。
何かをやらされることそれ自体よりも、そのことが何らか志保にとってマイナスになるのではないかと恐れているのである。
こうなると、隣家の幼なじみである賢は偉いな、と宏人は思った。
彼は、宏人の姉のためだったら、自分の命を捨てることも辞さないという。人と付き合うということはそういうことでなくてはならないのかもしれない。しかし、宏人にはそこまでの覚悟はなかった。もちろん、自分と志保の関係と、賢と姉の関係は違うものであって、それを一緒には考えられないけれど、それにしたって、賢と比べると自分には甘さがあり、その甘さは、年齢によるものだと思いたかった。
「うーん、甘くて美味しいな」
甘いものを食べているときにネガティブなことは考えられないようになっているらしい。
宏人はモンブランに向かった。
「久しぶりに、甘いもの食べたよ」
「ダイエットしてるの?」
「姉貴がな」
「先輩にダイエットとか必要無いと思うけど」
「じゃあ、直接そう言ってやってくれよ」
「後輩は先輩に意見なんかしないの。ただ崇拝するだけ」
「すうはい?」
「そう。倉木先輩みたいになれたらって、思わないの?」
「これまで考えたことないなあ。大体、忘れてるようだから言っとくけど、オレ、男だからな」
「それは出会ってそう経たないうちに気がついたよ」
「いや、一瞬で気がつけよ。何で間が空くの!?」
志保はクスクスと忍び笑いを漏らした。
ケーキの代わりに喜んでもらえれば結構である。
いちごのショートケーキというものは実に厄介な代物で、乗っているいちごを先に食べれば、他のスポンジ部分の見栄えがせず、かといって残しておけば落とさないように食べるのが面倒くさい。
「いちごが先か、ケーキが先か。これは永遠の課題だな」
宏人が言うと、本当にそうだねと言った志保は、イチゴにグサリとフォークを突き刺して、一口で飲み込んだ。
「ひとつ用件があるの」
「ホラ来た!」
「ありがとう」
「……ん?」
「これまでのこと、いろいろと」
そう言って、また志保はまっすぐに見つめてきた。
これは何かしらの冗談なのだろうか、と宏人は思ったが、もうそれならそれでも構わないと思って、
「好きでやったことだから、礼なんかいいよ」
真面目に対応した。
志保は、ありがとう、ともう一度言った。
宏人は、もしか、彼女は明日あたり転校でもするのではないかと考えて、いやいやありえないと思い直し、でも可能性はゼロではなかろうと思って、訊いてみることにした。
「また変なこと考えて。何で転校なんかするのよ」
「それはオレが訊きたいよ。お父さんの仕事の都合か?」
「転校なんかしないって」
「じゃあ、お前、どっか具合が悪いとか?」
「なんでよ」
「……まあ、どっちでもないならいいんだけどな」
宏人はホッとして、ショートケーキとの格闘に戻った。
それから、例の計画について、訊いてみた。
向こうから何も言い出さないのに、こちらから言い出すというのが貧乏性というものである。
「今日はその話はしない」
志保は静かに応えた。
今日は、というところが気になるけれど、まあ、こちらから問いただしたことではあるが、特に聞きたい話でもないのだ。ただ何かするのであれば前もって言ってもらえると、やりやすいはやりやすい。やることにもよるが。
その話をしないとしたら一体何を話せばいいのか、宏人には分からなかった。まるで倦怠期の夫婦ではないか、と一人でツッコンで遊んでいると、
「もう一個食べる? ケーキ」
そんなことを言われたので、
「オレがそんなにケーキ好きに見えるか?」
「見える」
「見えるんかい。いや、2個で十分だよ。オレが太ったら、クラスの女子の半分が悲しむからさ」
「もう半分は?」
「絶望する」
「わたしどっちにもならないと思うけど」
「じゃあ、どうなるんだよ」
「太ってぷくぷくした倉木くんを受け入れてあげる」
「じゃあ、安心してもう一個食べられるわけだ」
「一個でも二個でもいいよ」
「いや、もういいよ、サンキュー」
紙ナプキンで口周りを拭うと、じゃあそろそろということで、席を立つ。
てっきり今回も前回と同じように店長の奢りかと思ったら、レジで志保がお金を払っているではないか。
慌てて宏人も出そうと思ったら、志保に止められた。
「いいよ、わたしがご馳走するって言ったでしょ」
「男のプライドというものがあるのだよ」
「それ、美味しいの?」
「いや、ケーキよりはマズい」
「じゃあ、しまっておいて、財布と一緒に」
おもむろに志保の叔母が、
「どうしても払うって聞かなくて、この子。そんなシホちゃんともし別れたら、ケーキ代取り立てにいくからね、ヒロトくん」
これも冗談でもないような声音で言うので、宏人はうなずくしかない。
薄暗くひんやりした店内から外に出ると、夏の日はまだ傾かず明るく温かい。
宏人は、志保を送っていくことを申し出た。
「お言葉に甘えます」
明るい所で横からちらちら見ると、そこにいるのはやはり可憐な子だった。
「わたしに見惚れてるの?」
「見惚れてはいない。ただ、チラ見しているだけだ」
「ガン見すればいいじゃん」
「それは男のプライドが許さない」
「男のプライドって、いろいろめんどうくさいんだね」
「うむ、でも、それがあるから男は生きていけるのだよ」
「男子じゃなくてよかった」
「オレと恋人同士になれるから?」
「なにソレ、おもしろ」
「前にお前が言ったんだよ」
「どうりで倉木くんにしては面白いと思った」
カラカラと自転車を引きながら、車道沿いの歩道をゆっくりと歩く。
こういうのも悪くないな、と思った宏人は、自分の中にもまだ奥が隠されていたことを知った。




