第144話:円、友人の依頼を受ける
どのようにして生きていくのが正しいのか。
これが目下、円の抱える問題である。
中学一年生の少女が抱くにしては大仰な問題に思えるかもしれない。しかし、円は思う。
――結局はそこに行き着く。
と。
友達関係にしろ、恋愛関係にしろ、部活にしろ、勉強にしろ、それらの問題は、どのようにして生きるべきか、という一点に集約されるのである。なぜなら、それらの問題は人生の一側面であるからだ。
――どう生きていけばいいんだろう。
円は、窓から吹いてくる夏の爽やかな風を感じながら、思う。
自宅のリビングである。
足の短いテーブルに陣取って、彼女は、学校の夏休みの課題を行っていた。教科は、苦手な数学。苦手なので他の教科に先んじてやる。やらないと、いつまでも先延ばしにして結局やらなかったという事態にもなりかねない。
彼女がこの疑問にとらえられたのは、ある男の子のせいだった。彼は、二歳年上の中学三年生であり、しかも、姉のカレシでもある。彼を見ていると、全く迷いなく生きているように見える。その行動に、曇りがない。姉のカレシといっても、大して付き合いがあるわけではなかったが、今年同じ学校に入って、しかも同じ部に所属することによって、付き合いが増えた。それで思ったのである。
――この人は何でこんなに迷いなく生きているのか。
と。
彼の行動が特異というわけではない。目立ったことをするわけでもなければ、傍若無人な振る舞いでゴーイングマイウェイを行ったりしているわけでも全然無い。むしろ、話は逆で、物静かで自己主張というものがあまり無い。それでも迷いがない、と感じてしまうのはどうしてか、自分でも分からないのだけれど、一つ例を挙げるとすれば、橋田鈴音という女の子の件になる。
橋田鈴音は、円の姉の友人で、円も仲の良い、中学三年生だ。彼女は、去年から不登校になっていた。理由は詳しくないが、クラス内でトラブルがあったらしい。その不登校の彼女を再び学校に戻したのが、怜だった。どうやって戻したのかこれもよくは知らないが、彼がしたということは鈴音本人から知った。鈴音の言葉によると、
「まるで魔法のように、わたしの胸の氷が溶かされたの」
ということだそうだ。
やるべきことが分かっているかのようにそうした、怜のその振る舞いは、
――まるでお姉ちゃんみたい……。
円に思わせるのに十分である。円の姉も彼と同類であり、もっと言えば、鈴音もそうなのだ。
周囲にこんなにも、何をすべきか分かっているような人に会っていれば、何をして生きていくべきか、と考えるようになるのは、むしろ理の当然だった。そうして、円はこの疑問を抱けたことを幸運だと思った。だってこれは、人生全体に関する問いであるはずであり、そうすると、最も重要な問いであるはずだからだ。これが分かるまでは、あらゆることは仮定の話になる。本当に分かっていることが何一つないという状態は、すごく不安だったが、しかし、本当に分かっていると誤解している状態よりはいいと思える素直さが円にはあった。
迷わず生きるためにはどうすればいいのか。いまだ答えは出ていないし、そのうちに出るのかどうかもナゾである。
「どうしたの、難しい顔して?」
母がすぐそばのソファに腰を下ろした。
勉強していれば難しい顔になるのは当たり前で、それをわざわざ尋ねるということはよほどの顔だったのだろう、と円は思った。勉強以外のことで悩んでいると思わせるに足る顔だったのだ。
何でもないよ、と円は答えた。母は、小学生までは良い相談相手だった。しかし、中学生になった現在、何でもかんでも母に相談するというわけにはいかなくなった。もちろん、円は、自分がまだまだ子どもであることを自覚しているが、大人になりたいと思っている子どもであることも認めていたのである。
そう、と少し寂しそうな様子を見せた母は、お茶でも淹れましょうか、と言って、ソファを立った。
「アサヒは寝てるの?」
「ええ、でも、もうすぐ起きるんじゃないかな。さっきぐずってたから」
小学一年生の妹は、お昼ごはんを食べたらお昼寝をするというまことに結構な習慣を持っていた。自分もそんな頃があったのだろうかと、記憶を探ってみようとすると、それはもう六年も昔のこと、思い出そうとしても、ぼんやりとした靄のようなものに取り囲まれるだけのことになる。
円は、想念を振り払うようにして、勉強に集中した。数字と記号と向かい合って、カリカリとやっていると、そのうちに、爽やかな香りが漂ってきた。アールグレイである。クッキーとともに運んできてくれた母に礼を言って、食べながら勉強するという無作法をやると、しかし、母からの注意の言葉は無い。
ある程度のところまで進めると、数学の教科書とノートを閉じて、携帯電話をチェックした。着信があったようである。勉強中は携帯電話の電源を切っているので、気がつかなかった。着信は、クラスメートからだった。早速かけ直してみると、
「マドカちゃんにお願いしたいことがあるの」
と心細そうな声が聞こえた。
円は先を促した。
どうやら三年生の男子の先輩から遊びに行こうと誘われていて断りきれない雰囲気なのだけれど、せめて信頼できる人にそばにいて欲しいということだった。円は、内心で首をひねった。彼女とは小学校が違うので、今年同じクラスになって初めて知り合ったわけで、そこまで親交を深めているわけではない。それなのにそういうことを依頼されるとは。
「迷惑かな……?」
迷惑というわけではないけれど、気は乗らない。乗らないが、円は承諾した。付き合いが長くもない自分を頼った理由に少し興味があった。
「ありがとう、お昼、ご馳走するね」
「いいよ、そんなこと。わたしもこの頃遊びに行ってないから」
そこで、円は、その誘われている先輩の名を聞いた。名を聞いたところで、誰か分かるはずもないだろうから、それは儀礼上のことに過ぎなかったわけだけれど、瀬良太一、という名前を聞いたときに、知っている名であったので、小さく驚いた。
円が所属する文化研究部によく遊びに来る先輩である。校内一の美少年であり、付き合っている女子を、まるで毎日着る服のようにとっかえひっかえしていることで有名だった。
円は、友人に対して、厄介な人に絡まれたものだと気の毒に思いながらも、瀬良先輩は女の子なら誰でも彼でも見境ないという人ではないので、それだけ誘われた彼女に魅力があるのだということ間接的に知ることになった。
「知り合いを連れてくるって言っていたから、他の三年生の男子の先輩も来るかもしれないの」
そんな数的不利な状態はマズい。
円は、自分の役割を見定めた。とりあえず彼女の傍らにいてあげれば、数で圧倒されることはなくなるわけである。
「本当にありがとう、マドカちゃん」
そう言って、彼女は電話を切った。
円は、先輩男子から遊びに誘われる自分を想像してみた。もしも誘われたとしたら、一言のうちに断ってしまうだろう。いや、それはやはり誘われる人によるだろう。一人だけ、誘いを受けるかどうか迷わせる人がいた。円は、首を横に降ると、もうちょっと進めようかなと、再びテキストに向かおうとしたところで、階段からドタドタというにぎやかな音がして、妹が起きてきたようである。
「お母さん、お腹空いたあ。おやつ、ちょーだい!」
妹はダイニングテーブルでリラックスしていた母にすり寄ると、「おやつ、おやつ」と連呼し始めた。これは誓ってもいいが、彼女の年のときにあんなはしたない真似をしたことはなかった。父母は、妹には甘い。
「じゃあ、今、紅茶を入れるから。クッキーをあげるわね」
「やったあ」
そう言うと、妹は、軽やかなステップを踏んで、円の隣に当然のように座った。もう勉強は望めない。すでに今日の分は終えていったんやめたことであったので、円は、潔く教科書とノートを閉じて、妹に粗相をされないように、手提げの中に入れておいた。
「マドカお姉ちゃん、お勉強終わった?」
「終わったよ」
「じゃあ、なんかして遊ぼう!」
そんな気分ではなかったけれど、妹と遊びたい気分などになることはもともと無いのだから、「いいよ」と言って、円は年長者の努めを果たした。
「やった!」
妹は心底から嬉しそうな顔をすると、
「お母さん、おやつ、早くう!」
母に催促した。
円は立ち上がると、苦笑しながら紅茶を入れてくれている母の元へと行って、自分が妹に給仕してやることを告げた。
「ありがとう、マドカ」
円は、ティポットとカップ、一つずつ小さな袋に入ったクッキーが載った小皿の上がったお盆を持って、テーブルへと帰った。
早速クッキーに突進する妹に向かって、円は注意の声をかけた方がよかろうかと思い、
「アサヒ、お上品にね」
思い通りをやってやると、妹はけらけらと笑って、
「マドカお姉ちゃん、タマキお姉ちゃんみたい」
そう言って、気にもせず、大きめのクッキーに小さな拳を打ちつけて二つに割ると、ビニールをピッと切って、半分になってしまった哀れなかけらをつかんで、口の中に入れた。
円は、妹の教育係をやるのを早々に諦めると、もう何も言わず、紅茶をカップに注いでやった。彼女の言う通り、妹の教育は姉に任せればよい。人の教育をしている暇があるなら、自分の教育をしなければいけないわけでもあるし。
妹は、またたく間にクッキーを平らげて、袋の残骸を積み上げると、
「なにして遊ぶ? お姉ちゃん?」
立ち上がったので、円は、外に出るには少し遅いから、中で遊ぼうと、トランプを提案してみた。
妹は難しい顔をしたあとに、
「カルタがいい!」
そう言って、円の応答を待たずに、部屋の隅にあるおもちゃ箱から、カルタを取り出した。百人一首カルタである。今勉強が終わったばかりなのに、これから古語を聞かなくてはいけないのかと円はひるんだが、妹は姉の逡巡を気にもかけず、
「百人一首覚えて、レイに褒めてもらうんだ!」
そう言って満面の笑みである。レイというのは、件の姉のカレシの名前だった。あることがあってから、妹はずっと彼になついている。
母に詠み手になってもらって、妹と勝負をしていると、姉が塾から帰って来た。姉はいつも不機嫌な様子を見せないが、今日はことさら機嫌がいいようである。
「お夕飯、わたしが作ります、お母さん」
そんなことを言って、母を喜ばせた。
何があったのか、訊く気はない。