第143話:夏休みの一日、招かれざる二人の客
まだ夏休みに入って間もない七月下旬のその日、怜は、瀬良太一の訪問を得た。
唐突な訪問である。
朝の光が差し込む玄関先に立った太一の爽やかな笑みを見ながら、怜は嫌な予感を覚えた。
ただ遊びに来たわけではないだろう。
何かを頼みに来たのだ。
前もって連絡をしないことがいかにも怪しかった。電話やメールで用件を伝えたら断られることを恐れて、フェイストゥフェイスをやりにきたのだろう。
怜は、太一を部屋へと導きながら、もしも彼の依頼が許容できないレベルのものであれば、断りついでに彼との仲も断ってしまおうと、すばやく決断した。そう考えると、気が楽になった。
「前にさ、相談したいことがあるって言ったの、覚えてるか?」
太一は、怜の部屋に入って、腰をおろした。
怜は無言でうなずいたが、記憶は曖昧である。
「オレさあ、好きな女の子がいるんだよ」
そんなことは改めて聞くまでもなかった。太一には常にそういう子がいる。
怜はベッドの端に座ると、先を促した。
「それで、その子に一度告白したけど、断られたんだ。もう一度告白したいから、力を貸してくれないか?」
「力を貸す?」
「ああ」
怜は、そういう恋のキューピッド的任務に自分は似つかわしくないと思っているが、そんなことは抗弁しなかった。というのも、相手はそう思っていないからこそ来たのだから、抗弁しても意見は平行線となって、地球の果てまで続くしかないからである。なので、具体的に何をすることを望んでいるのかを訊くと、その子を混ぜてグループデートをするからそれに参加してほしいとのこと。
怜の口の中に苦い味が広がった。
去年の秋のことだったか、まさにこの目前の男から同じような依頼を受けて、大変に不愉快な思いをしたのだ。太一はそれを覚えていないのだろうか。覚えていて誘っているのだろうか。そのにこやかな顔からは読み取り難い。
怜は、過去に浸ってしばらく沈黙を保っていた。
「頼むよ、レイ」
太一は、綺麗に頭を下げた。
怜はこれを断る時は、太一との関係を断つときであると思い定めているので、よくよくと考えたあと、また不愉快な思いをすることを覚悟した。
承諾を告げると、太一は、ホッと息をついたようである。
「実はさ、川名にはもう許可をもらっているんだ」
太一は、にやりとした。
早速、怜は不快を覚えた。
他の女の子と出かけることになるのだから、当然にカノジョに許可を取らなければいけない。しかし、それは怜自身がすべきことであって、太一があらかじめすることではない。そもそも、先んじて、カノジョの承諾を取っておくなどという裏工作を行う気持ちには誠実さが不足している。
怜は人を諭そうとする思い上がりを持たない。
そうか、と言っただけで、顔色を変えなかった。
「時間と場所は、後で連絡するからさ。頼むな」
そう言って、太一はうきうきと帰っていった。
三年生の夏休みに惚れたはれたをやろうというのだから、さすがは太一である、という怜の感心には皮肉の色があるが、自身も受験に対してはあまり積極的な気持ちがあるわけでもないので、その皮肉の色も薄い。
少し心を落ち着けるために勉強に戻ったあと、昼前に、環に電話をかけた。そうして一件を告げると、柔らかな声で、
「わたしのことはどこに連れて行ってくれるんですか?」
とおもむろに問われた。
この質問は当然に予想されていたので、どこか行きたいところがないか尋ねると、
「この世のほかならどこへでも」
という難問が帰ってきたので、映画に連れていくことにした。何をやっているか分からないけれど、夏休みである、何かしらファンタジックなものがやっているに違いない。
「恋愛物もやっているみたいですよ」
「人が死ぬんだろ?」
「もちろんです」
怜は、以前に環と映画に行ったときに、恋愛物を見て大変な目に遭ったことを思い出して、彼女の提案を却下した。
「その瀬良くんとの約束の前に連れていってくださいね」
「いつにする?」
「候補を上げてください。夏休み中はいろいろとスケジュールが詰まっているんですけど、レイくんのために、特別に調整します」
怜が、日時を提案すると、
「そこなら何とか空けられます」
少しの間も置かずに、答えが返された。
「スーツを着て行けばいいか?」
「バラの花束もね」
「了解」
環との電話を切ると、怜は、再び、机に向かった。
塾からの宿題をこなさなければいけない。
そう、「いけない」。
なかなか、自らこなしたいと思うようになれないところが、自分のマズいところだと思うけれど、それはそのうち時間が解決してくれることだろう、と高校入試までもう残り時間が迫っているときに悠長なことを考えた。
昼食を取って、さらに二時間ほど、学習に勤しんでいると、携帯電話がメールを得て、太一から、例の件につき、時間と場所が提案された。行動の早い男である。カノジョとのデートより後の日にちだったので、怜はホッとした。
今日は朝から曇り空で、窓を開けていれば、勉強するのに難が無い日である。怜の部屋には冷房が無く、暑くてどうしようもないときは、冷房が設置されているリビングでやるほかないが、リビングには大抵母がおり、母のいる前で勉強したくない怜としては、天の機嫌をうかがって、できるだけ涼しい日々を願うしかなかった。
三時頃になると、階下でドアが閉まる音と、ドタドタいう音が聞こえてきたので、妹が帰ってきたのだと知れた。それから三十分ほどもしたあと、ペタペタという足音が聞こえて、トントンとノックの音、ドアを開いてやると、妹が何やらお盆を持っている姿が見える。
「はい、おやつ」
珍しいこともあるものだと、今夜の天気を危ぶんでみたが、月見の宴を開く予定も無いので、暴風雨になっても一向に構わない。妹は風呂上がりなのか、こざっぱりとしていた。
素直に礼を言うと、そのまま部屋の中に入って来る。そうして、壁に立てかけてあった折りたたみ型の小さなテーブルを引っ張り出して、組み立て始めた。兄がおやつを食べるスペースまでこしらえてくれるとは、感動を通り越して怖れまで覚えたが、
「夏休みの宿題教えて、お兄ちゃん」
という実に天真爛漫な声を聞いて、ありがたくもないことに恐怖は覚めた。
妹は屈託のない笑みを浮かべている。
怜は、お茶セットが載ったお盆を机に置くと、彼女の兄が受験勉強中であることを厳かに告げた。妹は、「見れば分かるよ」と言って、気にした様子もない。そうして一度部屋を出ると、すぐにまた戻ってきて、広げたテーブルの上に、テキストを広げ始めた。
「人に教えると自分の勉強になるって、どこかのえらい人が言ったみたいだよ」
その彼、もしくは、彼女に、怜は心中で呪いの言葉を浴びせた。
そうして仕方なく妹のヘルプをしてやることに決めた。このまま居座られてもかなわない。妹の隣に腰をおろして、夏休みの課題を見てやると、
「なるほど、なるほど」
うなずきながら、鉛筆を走らせて行く妹は、一時間ほど集中するという、飽きっぽい彼女にしては、破格の集中力を見せたあとに、
「もうやめよう、後は明日教えてもらえばいいや」
とさらりと恐ろしい宣告をして、両手を後ろ手にフローリングの上について足を投げ出して、リラックスした。そうして、兄に向って、カノジョとの仲はどうなっているのか、と恋話を切り出した。
怜は、ほったらかしておいたお茶がすっかりと冷たくなってしまっているのを憐れんで、それに口をつけた。そうして、ぐぐっと飲み干した。世間一般の兄妹が、互いのパートナーの話を気楽にするのかどうか、そんなデータは持っていなかったが、怜としては、我が妹とそういう艶っぽい話をしたいとは思わないし、もっと言えば、彼女とはどんな話も特にしたくはないので、前と同じだ、と言ったところ、
「お兄ちゃん、孟子って人、知ってる?」
と妹は、体を起こすと、唐突な話を始めた。
孟子は、今から二千三百年ほど前の中国で儒教を説いた思想家であるということの他、格別の知識を持たないので、妹に先を促した。
「この人のお母さんがすごい教育ママでね。ある日、孟子が家に帰ると、勉強がどこまで進んでいるか聞いたわけ。そうして、孟子が今のお兄ちゃんみたいにね、前と同じだって言ったらね、お母さん、自分が織っていた布をいきなりナイフで裂いちゃったわけよ」
そうして、妹は、やあっ、とナイフというよりはもっと大きな日本刀的なものを、テーブルに向かって振り下ろす振りをした。
「驚いた孟子が、お母さんに、何でそんなことすんのって聞いたら、お母さんはね、前と同じってことはやる気がない証、もう勉強を諦めてる、勉強を途中であきらめるのは、わたしがこうして途中で布を断つことと同じ、何の意味もないことなんだって言ってさとしたわけ」
そう言って、妹は、ふふん、と得意げな顔をした。
「だからね、お兄ちゃんも前から仲が進展してないってことは、川名先輩のことを大事に思ってない証拠ってわけよ、そんなことでどーすんの!」
バンっ、とテーブルを叩いて、妹が興奮する。
色々と言いたいことはあったが、怜は何も言わなかった。
そんなことよりも、彼女が、「孟母断機」の故事を知っていることが意外だった。
「この前国語の授業でやったんだ。だから、早速お兄ちゃんに使ってみた」
学校で何かを教わってくるたびに、その知識を張り気味な声で披露されてはたまらない。そういうのは、親に対してやるべきことだろう。しかし、それも抗弁せずに、
「分かった。何とか、仲を深めてみるよ」
素直に答えると、
「ま、お兄ちゃんには荷が重いかもしれないだろうけど、がんばってね」
という適当な応答を得た。
妹が去ると静けさが戻り、その静けさの中で、怜は勉強を続けた。
やはり英語が苦手である。
日本語もロクに使えないのに、外国語をやるなんてのはどうかしている、と怜は思いつつ、外国語を勉強するのは難しい、という文を英作文してみた。
「It is difficult to learn a foreign language.」
さらに、わたしにとって、という表現を足してみることにする。
「It is difficult to learn a foreign language for me.」
for meは、toの前だったろうか、と思って、テキストを確認してみると、そうなっていたので、赤ペンで直してみる。この前の塾の授業で習ったような気がすると思えば、自分の記憶力の弱さ、いや、むしろ記憶を強化しようとしない勉強にかける情熱の温度の低さに呆れた。自分に呆れながらも、先に進むしかない。
怜はなおも勉強を続けたが、夏の日はなかなか沈まない。
夕食の用意が整ったことを母が告げに来たところでもって、今日の勉強は終えることにした。夜の時間があるけれど、何か別のことをしようと思った。入試は差し迫っているけれど、しかし、人生も差し迫っているわけで、入試まで生きられる保証はどこにもない。できるだけ今を楽しむ気持ちを忘れてはいけない。