第142話:宏人、たまたま美少女に会う
大人の男には一人になる時間が必要である。
誰にも邪魔されない自分だけの時間。
その時間に男は自己を律してより高みを目指す。
ゆえに、宏人は、その日、家を出た。
なにせ、家の中では、常に自分を監視して何かにつけて難癖をつけ小言をいってやろうと手ぐすねを引いている女(母)と、常に自分を下僕のように扱い、からかい、笑いものにしようとする女(姉)がいる。こんなところでは一人の時間など持ちようがない。
門から外に出ると、晴れ晴れとして気持ちの良い空である。
その分、存分に暑いけれど、なにこのくらいの暑さで音を上げては男がすたる。
宏人は、ピカピカのお日さまの下を元気よく歩いた。
夏休みである。
部活も予定もなくて、どこに行こうというあてもない。
とりあえず町の方にでも行ってみて、一人の時間を満喫するつもりである。
一人になるといっても、別に山中におもむく必要はない。自分くらい達観した人間になると、町の中でも孤独を感じることができるのだ、と宏人は上機嫌に考えた。第一、山の中になんて行ったら寂しくてたまらない。一人になりたいと言っても、一人すぎてはいけない。何事にもちょうどよさが必要なのである。
歩きながら、こういう時間は久しぶりだなあ、と宏人は開放感を味わった。普段は学校に行かなければいけないし、土日は基本的に部活があって、部活がなければ「カノジョ」に付き合っていて、なかなか忙しい。充実しているといえば聞こえはいいが、よそからやってくるイベントをただただこなしているだけと言うこともできる。
道を曲がると、宏人は、一人の美少女を見た。
青色の浴衣姿がいかにも涼しげである。
美少女に知り合いなどいないハズなのに、どこかで見たことある人だなあ、と思っていると、何とまあ、彼女が近づいてくるではないか。宏人は、「自分に振られていると思って手を振り返すと、実はそれが自分に対してではなく、近くにいた知り合いに対してだった」というマンガでありがちなシーンを思い出して、周囲をキョロキョロした。
「ヒロトくんでしょう? ヒナタの弟くん」
すぐ近くまでやってくると、彼女は綺麗に微笑んだ。
どうやら漫画の三枚目を演じずにホッとした宏人は、その美貌に改めて見惚れた。
眉のあたりと顎先でまっすぐにカットされた黒髪が、人形のような顔立ちをいっそう整わせている。
宏人は、「は、はい」とうなずくと、彼女は、姉の友人の伊田綾さんであることを明らかにした。なるほど見たことがあるはずだった。彼女は、茶華道部の部長であり、校内では美しすぎる部長として有名だった。
姉の弟であることで話しかけられたわけである。宏人は、生まれて初めて、姉に感謝した。
「いつも姉がお世話になっています」
宏人が、やんちゃな姉の好感度を、自分というできた弟がいるという事実によって、少しでも押し上げてやろうとすると、
「いえいえ、こちらこそお姉さんにはいつもよくしてもらっています」
と言って、微笑まれた。
どこに行くのか聞いてみると、駅前で「子ども祭り」という、お子様のためのミニミニお祭りがあり、そこにボランティアとして行くのだと言う。そういえば、そんな催しに、よだれを袖で拭いていた幼少期に参加したことがあったなあと思うと懐かしかった。
「ヒロトくんは?」
「行く当ての無い一人旅です」
つまらない冗談を言ったのは、うまく答えられないからである。伊田さんの容姿には、確かな美のエネルギーがあって、それがぐいぐいと宏人に圧力を与えていた。その圧力に抗するには、冗談を言うしかない。
伊田さんは、くすりと笑うと、じゃあ、お祭りに来ません、と誘ってくれた。
こんな美人に誘われることがあるなんてっ! 生きていればいいこともあるものだ、と人生を与えてくれた母に感謝した。父にはいつも感謝しているので割愛。
「お供します!」
伊田さんが歩き出すと、宏人は、彼女を道路から離すような位置取りにして歩いた。この美しい人を、車のタイヤや排気ガスからできるだけ遠ざけなければいけない、と思った結果である。
「紳士だね、ヒロトくん。ありがとう」
そう言って口元をほころばせるその様子の可憐さに、宏人はクラクラした。上からも日光を浴びているのでよっぽどである。駅前に着くまで果たして倒れないでいられるだろうか、試してみるしかない。
早々に一人の時間は終わってしまったわけだけれど、それよりも有意義な時間があれば、一人の時間などいつでも投げ出す覚悟が宏人にはある。その辺が孤高を演じて格好をつけるその辺の中学生と違うところだと自負している宏人は、実に男らしく、隣の美少女にデレデレした。
駅まで歩いていくうちに、衆目を引くことはなはだしく、
「うわ、すごい美少女」
「アイドルかなんか?」
「隣の男、なんだよ、つりあわねーな」
「きっと弟かなんかじゃない」
「だよな、鼻垂らしてやがるし」
などという、心の声を聞いた気がしたが、定かではない。宏人の名誉のために言っておくと、現在はもう鼻は垂らしていない。風邪を引いた時と、ラーメンを食べるとき以外は。
やがて、駅に至るアーケード街の道で横に折れると、歩行者天国になっている車道があって、出店の用意が始まっているようだった。伊田さんは、どうやら祭りの受け付けをするらしく、見知った人に挨拶をしながらテントの下に入ると、ボランティアスタッフ用の認識票を首から下げた。
「あれ、アヤちゃん、もしかして、カレシ?」
同じボランティア仲間のスタッフの、高校生くらいのお姉さんが、目ざとく宏人を見つけて言った。
伊田さんの恋人と間違えてもらえるなど、ひえっ、と内心嬉しい悲鳴をあげた宏人は、伊田さんが、「はい、そうです」などと澄んだ声で冗談をやるものだから、「ええっ!」と実際に声を上げてしまった。
お姉さんは、宏人の前に立つと、うんうんとうなずいて、
「アヤちゃんに選ばれるくらいだから、さすがにいい目をしているね」
と自らの目の節穴ぶりを思うさま披露した。
慌てた様子の宏人に、伊田さんの微笑が深まる。
天使の笑みとはまさにこれだろう、と宏人は思わずぼおっとした。
「少ししたら始まるから楽しんでいってね」
と言った伊田さんに、
「オレ……いや、ぼくも何かお手伝いします!」
などと言い出したのは、これはもう完全に見栄である。
美少女の前でカッコつけたかっただけのことだ。
カッコつけなければ男じゃない、と宏人は常々考えていた。
しかし、そこにカッコつけたいということ以上の下心はなかったということを宏人のために弁明しておきたいと思う。なにせ「カノジョ」がいるわけだから。ただし、下心がなくカッコつけるというのは、それはもうただのおバカな行為であって、何ら宏人の価値を高めるものではないだろう。
伊田さんは少し困惑したようだけれども、先ほどのお姉さんが、
「よし、カレシくん! じゃあ、ちょっと手伝ってっ!」
と宏人を、未登録のボランティアとして扱うことを勝手に決めてしまった。
そうして、宏人は、肉体労働に奉仕させられることになった。
てっきり、伊田さんの隣で受け付け的な職務を優雅にこなせるのではないかと思っていた宏人は、大いに当てが外れた。普段陸上部で鍛えているとは言ってもそれはもっぱら下半身であり、上半身は差別している。何やらよく分からないダンボール箱を運ばされ続けた結果、大変腕が痛くなってきた。そうして、一体オレは何をしているのか、と自問してみたが、答えは分かり切っているのだから、空しい一人遊びである。
お昼頃になると、交代で休みを取るということで、一角に呼ばれた宏人は、まかないご飯的なものを振る舞われた。その席に、伊田先輩もいて、祭りの露店で売っているようなジャンクなものであるのに、まるでフランス料理でも食べているように優雅に食べる彼女に感心した。綺麗な人は、食べ方まで綺麗なのだと、ぬぼーっとしていると、件のお姉さんが、
「ありがとうね、ヒロトくん。わたしがやらなければいけない仕事やってくれて、助かっちゃった」
横から笑顔を向けてきた。
してみると、あんな重たいものをこの人は運ぼうとしていたのか。しげしげと彼女を見ていると、
「そんなに見られると照れちゃうな」
いやん、と体をくねらせるような仕草が似合うような手弱女であるので、こんな人に重労働をさせるなんて、とこのボランティアの割り振りの適正さに関して義憤を覚えたが、腕が痛くて、ボランティア本部に対して拳を振り上げることはできそうになかった。
「午後からはもういいからさ、アヤちゃんとどっか回ってきな」
そう言って、お姉さんは、祭りで使えるチケットの束を渡してくれた。
「え、でも……」
宏人は断ろうとしたけれど、
「年上の言うことは聞くもんだよ。わたしは聞かないけど。ほらほら」
お姉さんの勢いに圧倒される格好で、伊田先輩を誘う光栄とプレッシャーを得た。
そう言えば、まともに女の子を誘ったことなどないぞ、と宏人は、この14年間の自分の人生を振り返って、そのあまりの硬派ぶりに愕然としたが、今こそが大人への階段を登るときなのだ、とあえて明るさを保って、伊田さんのところにまで歩いていき、話しかけた。
こちらを向いた伊田さんは、太陽の女神のように美しく、気おくれした宏人は、しかし、もじもじとするようなことはせず、思い切りよく、
「ぼくと付き合ってください!」
と完全に言い間違えた。
突然の告白に、伊田さんは目を丸くした。
周囲は、唐突に始まった恋のドラマに、
「おおっ、告白だ!」
「若いっていいねえ」
「わたしも告白されたいなあ」
などと歓声を上げた。
「あ、いや、違います、そういうことではなく……」
むにゃむにゃと続けた宏人に対して、驚きをおさめた伊田さんは、
「はい、よろしくお願いします」
と、また微笑みを向けてきた。
周囲の歓声が大きくなる。歓声というよりも、
「なんだよ、アヤちゃん、そんなヤツと付き合うのかよっ!」
「オレも告白すればよかった!」
「オレもカノジョ、欲しいっ!」
喚声と言った方がふさわしいやかましさである。
「よし、じゃあ、二人でお祭り回って来なさいっ!」
お姉さんが言った。
なるほど人はこういう風にして誰かと付き合うようになるのかと、宏人は貴重な経験ができたことを喜んだ。この経験を次に活かしたいものだと思ったけれど、その機会を持てるかどうかは、当然に自分次第ということになる。
伊田さんはもちろん宏人の告白を本気にしたわけではなかった。宏人に恥をかかせないようにしただけである。そんなことをわざわざ言わないところが彼女の先輩たるゆえんであり、宏人もそんなことを言ってもらわなくても何となく察することができるほどは大人だった。
宏人は、楽しくこども祭りを見て回ることができた。
一日、充実した気持ちで家に帰ると、目を吊り上げた姉が鬼のような形相であり、
「アヤから聞いたよ。あんまりわたしの友達に恥かかせないでくれる!」
と大目玉をくらった。
やはり家の外にいる方が幸せだ、と宏人は、早く一人暮らしができるような状態になりたいと、自身の成長を、時をつかさどる神に願った。