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プラトニクス  作者: coach
141/280

第141話:師の教え

 家に帰り、制服を脱いで身軽な格好に着替えると、(レイ)は昼食を取った。

 それから間を置かずに塾に行かなければいけないというせわしなさを、怜は楽しもうと思った。得難い経験ではないか。そんなせわしなさを味わったことはこれまでにない。そうして、受験期が終わったあとは、もうこのようなせわしなさを体験しなくて済むようにしようと思っているので、これからだって早々はないはずである。

――貴重な経験だ……貴重、貴重。

 マインドコントロールはうまくいかなかったようだ。昼食を終えて支度を整えて自転車に乗ると、どうにも気が乗らない。気が乗らなくても行かなくてはならず、怜は、自転車の運転を慎重にすることにした。「行きたくない」という意識が、何らか無意識に働きかけて、事故など招いてしまってはつまらない。

 心がけた甲斐あってか、無事、塾に到着した。薄着で、かつ、自転車をのろのろと進ませて来たのに、到着する頃には随分と汗をかいていた。自転車のカゴに置いておいた肩下げ鞄から水筒を取ると、スポーツドリンクを飲んで、水分と塩分を補給して、息を整える。エレベーターを上がって、教室に入ると、室内はあまり涼しげではない。あんまり涼し過ぎると塾生の健康を損ねることを心配しているのか、空調費をケチっているのかは定かではないが、怜はあまり冷房が好きではないので、丁度よかった。

 教室の中には、何組か、生徒と講師の組ができていた。大きめのテーブルに、二人で並んで座っている。室内のテーブル数は、十二三台といったところだろうか、それぞれのテーブルはパーティションで区切られてはいるが、はっきりとしたプライベートスペースになっているわけではなく、互いの声が響く。感情たっぷりの話し方で話す講師の声が高かった。

 怜は、自分の担当講師の姿を認めた。

 近づいていくと、彼女は席を立って、生徒を迎えた。

 こんにちは、と声をかけて、怜は彼女の隣に腰をおろした。

 担当講師の山内女史は、まだ三十前の若年――もっとも、怜からすれば相当年上の女性なので若年などとはとても思えない――ながら、その数年のキャリアのうちで、数多くの担当生徒を県内のトップクラスの高校に送り込んだ、やり手である。

 いつものように怜はまず宿題をテーブルの上に乗せた。五教科分のプリントとテキストを、山内講師に見せる。

「どこが分かりませんでしたか?」

 丸つけはすでに終わっている。この場で宿題の解答などしていたら、それだけで規定の二時間を終わってしまうので、自分でやってくることになっている。解答してもなお分からなかったところがないかどうか尋ねているのだ。

 彼女のこの問いに対して、

「分からないところはありませんでした」

 と答えたことがあった。すると、

「本気で勉強していれば、疑問に思わないところがないわけがありません。ないということは、加藤くんは、今回本気で勉強をしなかったということです。問題をただこなすことだけに集中したために学習内容をおろそかにしたのです。それでは、本末転倒です」

 と厳しく注意を受けたので、それ以来、必ず質問を考えるようにしていた。不思議なことに、質問をする気で勉強すると、はっきりと分かっていないところがより明らかになり、分かるところはより鮮明に分かるようになった。質問に対して講師は、丁寧に答えるか、それとも自分で参考書を確認するように指示するかした。大抵は丁寧に答えてくれた。というのも、怜は、ただ参考書を確認すれば分かるようなことは、あらかじめ自分で調べるようにしていたからだ。

「a house to live inのinがなぜ必要なのかということですね。これは、まず、live in a houseという表現を考えてみてください。『家に住む』と言うとき、live a houseとは言いません。inが必要です。inが必要な理由については大丈夫ですね。さて、live in a houseのa houseを前に持って来て、toをつけ、そのあとに、live inを持ってくる。このようにしてできた表現が、a house to live in、『住むための家』です。a house to live inという表現は、live in a houseが元になっているので、inが必要なんですね。よろしいですか?」

 よろしいと思う。

 はい、と答えると、本当に理解できているのかどうか、

「では、『書くためのペン』『ケーキを切るためのナイフ』を英語にしてみてください」

 確認のため、繰り返し、繰り返し、練習させられる。

「いいでしょう。でも、必ず復習を行っておいてください。復習を行って確実に身につける。同じことを何度も質問するのは時間の無駄です。ただし、納得のいかないところは何度でも聞くように」

 山内講師との勉強で分かったことは、勉強というものが、決してコツをつかめばするするとできるようなパズル的なものなのではなくて、一つのことをできるようになるまで何度も何度も同じことを繰り返すトレーニング的なものなのだということである。

「一を学べば、十分かる、なんていう魔法のような方法は、わたしは知りません。勉強の要点は一つだけです。それは、執拗にやることです。覚えたことを忘れないようにやって、もしも忘れたらまたやる、それだけです」

 自転車に乗れるようになりたければ、乗れるようになるまで転びながら執拗に繰り返すしかないのだ、と講師は続ける。

「その習得過程を少しショートカットするのが、わたしの役割でしょう。あるいは、こう言い換えてもいい。水を飲みたがっている馬を水辺に連れて行くことであると。しかし、近道を行くのであれ、水辺に連れて行くのであれ、そこまでたどりつくのはあなた自身であって、わたしではありません」

「オレが馬だとしたら、駑馬(どば)ですね」

 駑馬とは、足の遅い馬のことである。怜が自嘲するでもなく言うと、

「もしかしたらそうかもしれません。しかし、駑馬も(じゅう)()すれば、駿馬にも及びます」

 講師は静かに言った。

 (じゅん)()という古代中国の思想家の教えにある。

 ()()は一日にして千里なるも、駑馬も十駕すれば、(すなわ)(また)(これ)に及ぶ。

 あの驥(=足の速い馬)は一日で千里を走ることができるけれど、駑馬でも、十日走れば、驥と同じ距離を走ることができる。

「自分の才能を嘆く暇があれば、一歩でも前に進むのがよいのです」

 山内講師は、怜を褒めることも叱ることもしない。ただ、現状の分析と目的地に至る道を示すだけである。それが怜には心地よかった。これまで、尊敬する大人は祖父母という身内に限られていた――父母のことは愛してはいる、念のため――怜にとって、尊敬することができる初めての他人が山内講師である。

「多分に自戒を込めているのです。あなたに対するだけの言葉ではありません」

 山内講師は、はにかんだような笑みを浮かべた。

 そういう率直さも人として尊敬に値する点だった。

 怜は、この塾を選んでくれた、正確に言うと候補に入れてくれた母に感謝した。

「さあ、次の問題です」

 講師に指示されたとおりに、怜は、問題群に向かった。

 解ける問題もあれば解けない問題もあり、さまざまではあるが、頭の体操だと思えば悪くない時間である。一人だとそれがなかなか体操とは思えず、苦行だと思われてしまってよろしくないのであるが、そういう場合は、成長のためには苦しみが必要なのだ、成長痛なのだ、と無理矢理自分を納得させて遊んでいた。

 一コマ二時間で、基本的に休憩は無い。休憩すると気持ちが切れてしまうので、取らないそうだ。しかし、緩急がある授業であり、疲れを覚える頃には終わっているという絶妙さがある。このあたりはさすがプロだろう。

 もうあと三十分ほどで終わるという頃に、来訪者があって、目に入ったのは(タマキ)の姿である。言葉通り、見学に来たらしい。水色のワンピースは清楚な趣を彼女に添えていた。何人かの目が環に向いたのは、単なる来訪者への興味以上のものがあるだろう、怜は我がカノジョを人知れず褒めておいた。環は、事務室に一声かけたあと、空いているテーブルに座って、自習を始めたようである。

「今日はここまでにしましょう」

 山内講師は、いつものように終了時刻の十分前になると授業を終えて、宿題を出し始めた。宿題の説明に終了時刻までの十分をかけたあと、

「お疲れさまでした」

 そう言って席を立つ。

 怜は、教科書類を片付けた鞄を持って立ち上がり、肩から斜めに下げるようにすると、

「ありがとうございました」

 講師に対して一礼した。

 それから、環が自習しているところまで歩いて行くと、とん、と後ろから彼女の肩に手を置いた。振り返った環は笑顔を見せたあと、テーブルの上に広げたテキスト類を片付け始めた。立ち上がった環は、再び事務室に一声かけたあと、合流した。怜も、もう一度講師に声をかけた。講師は環については何も問わず、気をつけてお帰りなさい、とだけ言って、また次の生徒を待つために、席についた。

「個別指導ってああいう感じなんですね」

 まるでバーのように分厚い扉を開いて外に出て、エレベーターを一階まで降りたあとに、環が言った。

「他の塾に行ったことがないから、オレは逆に他の塾の感じが分からないけど」

「わたしの通っている塾は、小教室で学校の授業のような感じですよ」

 ふと怜は、自分の知らない教室で、彼女が勉強している様子を想像してみた。学校よりも分かりやすく面白い授業の声がにぎやかに飛ぶ中で、静かにノートを取る少女の姿が目に浮かんだ。自分の知らない環がいるということが、当たり前すぎるそのことが、なぜだか不思議な気がした。

 駐輪場に、停めておいた自転車を迎えに行き、環の持っていた手提げ鞄を自転車のカゴに入れた。

「先生は何ておっしゃるんですか?」

「名前か?」

「はい」

 怜は、講師の名前を教えた。

 環は、少し驚いたような顔である。

 聞いたことある名前なのかと思ったけれど、怜は問わなかった。

「できたら、夏の講習は、あの先生にお願いしようかな」

 怜は自転車を引くと、環を左隣にして歩き出した。

「レイくんのあんな楽しそうな顔、初めて見ました」

「眼鏡かけた方がいいんじゃないか?」

「してましたよ、楽しそうな顔」

「タマキの席からじゃ、見えなかったハズだろ」

「じゃあ、声が弾んでました」

「『じゃあ』って何だよ」

 弾んだ声など出した覚えがない。覚えがないけれど、そう聞こえたのならそうなのかもしれないと、怜は、そこは譲歩したが、山内講師の授業は特段に楽しいというわけでもない。学校の授業よりはよほど楽しいことは認めるが。

「遠回りして帰ってもいいですか?」

 交差点に来て赤信号で停まったときに環が言った。

「遠回り?」

「うん。そういう気分なの」

「うんと遠回りして、なんならいっそ世界一周でもするか?」

「あなたがわたしの世界です」

「随分小さな世界だな」

「心はこの世より広い、と昔の偉い人は言っています」

 怜は、心を捧げた少女を促して交差点を渡ったあと、少し遠回りの帰路を取った。

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