第14話:初夏の白日の下、中庭の法廷にて
怜の机の周りにいた数名の男子が、口を開けたそのままで話を中断し、ぼおっとした顔を作った。教室に突如出現したショートカットの妖精に見惚れたのである。平井七海。三年生の中でも人気の高い女子の一人。無駄のないボディラインは見る者に繊細かつ優美な印象を与えるが、話し方や立ち居はエネルギッシュであり、そのギャップが彼女の魅力だった。男子に媚びるようなことをせず気取らず明け広げな彼女は、異性のみならず同性にも人気があった。
「加藤くんとしては、ヒナのほうが良かったの?」
七海が、机に両手を置いて、少し顔を近づけるようにして訊く。目前にある端麗な顔に他の男子なら照れて顔をそむけるであろうが、怜は動じない。正面に彼女を見たままで、首を横に振ると、
「いや、予想を言っただけだ。倉木にはもちろん、平井にだって来て欲しくない」
いう。周囲の男子から憎々しげな視線を向けられていることに怜は気がついていない。七海と気安く話している上に何やら拒絶の言葉を吐いているこの男は何様だろう。七海に人気があるのに反比例して、怜の人気は急下降した。
「おあいにくさま。ねえ、加藤くん。本当はヒナが来るって言い張ってたのよ。凄い形相で。それを抑えてわたしが来てあげたの。感謝してもらいたいくらい」
ジュースでも奢るか、と譲歩した怜に、
「よろしく」
と答えた七海の顔が遠ざかる。すっと背を伸ばした彼女は、きょろきょろと辺りを見回すと、立ち上がった怜に口を寄せてひそやかに訊いた。
「それで? 加藤くんの二股の相手はどこなの?」
怜は目を細めた。批難の意を込めて七海を見たわけだが、彼女には通じない。形のよい薄桃色の唇に笑みを乗せて先を促している。怜は自分の視線を追わせた。その視線の先に、何人かの女の子に取り巻かれている一人の少女の姿がある。彼女は、みなの中心になって、楽しそうに会話を捌いていた。ふと怜と目が会うとにこりと微笑んだ。その微笑みは七海の目にも映っていた。
「あの子なんだ」
へえ、と彼女は一声納得したような声を出すと、合図して怜を廊下に連れ出した。そのままずんずんと歩いて行く七海に連行されていくと、最後に到達したのは中庭であった。何人かの生徒たちが初夏の眩しい光を浴びていた。
「さ、ここでいいわ。聞かせてもらいましょうか」
くるりと体を回転させて顔を向けた七海が切り口上で言った。何をしゃべらせたいのか、尋ねると、
「説明する必要あるの?」
と七海は訊き返した。
怜としては一応言ってみただけである。七海が何の用で会いに来たのかということは容易に想像がついている。
六組内にあるウワサが流れていた。怜とこれまで不登校だった女の子が、仲良く登下校しているというウワサである。それは事実であり、それだけであるなら特に問題はないのだが、その事実はさらなる推測を生んでいた。怜が二股をかけているのではないかというものである。現在カノジョがいるはずの者が、別の女の子と登下校していたらそういう嫌疑もかけられて当然である。以前同じようなウワサが流れたことがあるが、今度はそれよりも信憑性が高い。
七海はそれが真実であるかどうかを確かめに来たのだ。二股をかけられているかもしれない友人を心配しての行動であるようにも思えるが、そうではないことは怜には分かっていた。動機はともかくとしても、
「同じクラスなんだ。まず、環に事情を聞けばいいんじゃないのか?」
怜が遁辞を構えた。
「『タマキ、あんた、二股かけられてるんじゃない?』とでも訊けって?」
怜の逃げ口上に怒った風でもなく七海は言うと、その瞳を柔らかな色にして、
「もう訊いてみたわよ」
と続けた。
「それで?」
「どうだったと思う?」
環の微笑が頭に浮かんだ。
「……笑って答えず」
「ご名答。だから、加藤くんのところに来たわけ。断っておくけどね、わたし自身は、加藤くんと環の仲のことなんて別に興味ないわ。ただ、わたしが興味がない分、ヒナが興味ありまくっちゃってね」
この二股疑惑の件に、友だち思いの倉木日向が激昂したであろうことは想像に難くない。七海はその日向の代わりに来たのである。
「日向は環のことになると見境がなくなるからね。加藤くんに何か間違いが起こるといけないと思って、わたしが来たのよ」
それはおそらく環だけのことに限られないだろう。詰まるところ、倉木日向という少女は誠実で友だち思いなのである。怜がそう言うと、
「そうかもね。西村くんとよく似てるわ。さすが幼馴染みだよね」
七海はうなずいた。
「で、どうなの、ウワサの方は。環の他に誰かと付き合うなんて話、わたしはばかげてるとしか思わなかったけど……」
意味ありげに間をおいて、
「もしかして、本当なの?」
と軽く疑っているような色を見せた。先ほど教室で七海の目に映った鈴音の姿は、とても魅力的だった。窓から差し込む昼のゆるやかな光を圧するような清冽な輝きが彼女にはあった。それがクラスメートたちを惹きつけていたのであろう。
「もしウワサが本当なら早く別れてあげてね、環と」
冗談ぽく言った言葉は、怜の返答を促すためのものである。
「成り行きでこうなったんだ」
「ねえ、加藤くん。わたしはいいのよ、そういう答えでも納得する。でもね、それでヒナタが納得するかな? 明日ヒナタが六組に乗り込んでもいいの?」
強い目でにらみ、所構わず大きな声で責め立てる少女の姿を思い浮かべて、怜は首をすくめた。
「でしょ。さ、思うところを言ってもらえる?」
思うところ、と言われても格別考えていることなどない。が、それでは七海、引いては日向が納得しない。怜の口から出たのは、自分でも意外なものだった。
「環の代わりをしてる」
それが怜の答えだった。自然に喉から滑り出たその言葉が耳に響いたとき、すっと胸に落ちるものがあった。怜はなぜ鈴音の送り迎えをしているのかにようやく気がついた。
「……環の代わり」
七海は、その言葉を何度か舌の上で転がすようにして発音した。謎めいたその言葉を考える素振りは見せなかった。代わりに瞳に面白そうな光を宿した。
「つまり、環ができないことを加藤くんがやってる、そういうこと?」
七海がシャープなのはフェイスラインだけではないようだ。
怜はうなずいた。
「変わってるわ、あなたたち。ちょっとわたしが思ってた関係と違うみたいね」
どういう関係だと思っていたのだろうか。
「それは……加藤くんに悪いから言わないほうがいいみたい」
七海は微笑みながら言うと、怜の更なる追求をかわすかのように、
「ヒナにはわたしから伝えておいてあげるわ」
と話を変えた。
「助かるよ」
「『五郎庵』の抹茶とウイロウね」
「……今度は平井とウワサになる」
怜が渋い顔をしてみせると、七海は破顔した。
「それもそうね……じゃあ、紙パックの抹茶ミルクでいいわ」
それじゃ、と言って立ち去る七海の後姿を見送ったあと、教室に戻る間、怜は考えていた。無意識に言った言葉。環の代わりをしている、というその言葉にはなぜだかしっくりとくるものがあった。環からはここ一週間メールがないし、顔を合わせてもいない。それが今怜がやっていることへの彼女流の励ましのように思われた。
その日の帰り道。怜の横に並んだ鈴音が、
「お昼休みに来たのって平井さんでしょ」
と訊いてきた。七海のことを知っているのだろうか。
「顔くらいはね。二年の夏まで学校来てたから。相変わらず美人だわ」
その美人と何を話していたのか、と彼女は物問いたげな目を向けた。
「もしかしてわたしの話だったりする?」
「何で?」
「わたしの方、見てたじゃない」
怜が二股疑惑のことについて質されたことを話した。
「どうして平井さんが?」
「環の友だちだからだろ」
怜はぞんざいに言った。日向のことまで説明するのが面倒だったからだ。容疑は無事に晴れたことを付け足すと、
「ご迷惑をおかけします」
と鈴音は歩きながら軽く頭を下げた。ピンと張ったような声に真剣味がある。別に誰にも迷惑などかけていない、と返した怜の声は事務的だった。噂など、したい人間に勝手にさせておけば良い。
「環に会ったか?」
怜は話題を変えた。鈴音は首を横に振った。
「廊下ですれ違ったけど、話はしてない」
「どういう関係なんだ、環とは?」
今日は驚くことが多い日である。人と人がどういう関係かなどということは今まで興味を持ったことなどなかったのに、どういう心境の変化であろう。
鈴音も意外そうな顔で、
「嫉妬ですか?」
楽しそうな目を向けると、好奇心だよ、と怜が素直に答えた。
「加藤くんでも好奇心ってあんのね。そういうの無い人かと思った」
ひどい言われ様であるが、自分でもそう思っていたので反論はできない。怜は無言で先を促すと、鈴音は視線を前方に向けて、
「タマちゃんはね、わたしの大事な人、わたしに大事にしたいと思わせる人……」
と詠うように答えたあと、小首をかしげて、
「違うかな、わたしを大事にしてくれる人だな」
と訂正した。
まるで愛の告白である。
少女の花唇がほころんだ。
「ちょっと違うわ。愛なんていう気持ちの問題じゃない。ただの事実だから。タマちゃんはね、わたしの半身なの」
それならば、今鈴音の横にいるのは怜ではなく環でも良かったはずであるが、そうでない所に二人の関係に推し量りがたい不分明なところがある。それはそれで良い。それ以上に詮索するほどの興味は無い。怜は自分の役割を果たすことに専心することにした。
「それで、いつまで送り迎えしてくれんの?」と鈴音。
「さあな。今しばらくは」
「しばらくって?」
「スズの半身が迎えに来るまで」
「……それはいつになるか分からないわよ。明日かもしれないし、一年後かもしれない」
「別に構わないさ」
「タマちゃんを信じてるのね」
「ちょっと違う。信じるなんていう気持ちの問題じゃない。あいつは必ず来る。それはただの事実だよ」
鈴音はやり返されたことに軽く恨みを含んだ目をしたが、怜が冗談で言ったわけではないことが分かると、その目はすぐに笑みを含むものに変わった。
「本当に変な人だよね、加藤くんは」
瞳の笑みが、少女の顔一面に広がる。
その笑みから神経質な色が完全に拭われたときが、自分の役割が終わる時だろうと怜は推測している。それには今しばらく時間がかかりそうだったが、不思議なことに怜には憂いの気持ちがない。その役割が押し付けられたものではなく、自ら申し出たものだからだろうか。それとも鈴音の笑顔に、環の面影を見たからであろうか。後者だとは思いたくないが、今回の件で環の性質の一面に触れたような気が怜にはしていた。人の性質には奥深い複雑なものがある。そういう感慨は怜にはない。そうではなく、その性質を彼女が見せてくれたということの方が怜にとっては意味深いものだった。