第139話:夏休み前、最後の部活動
校長の話はいつも通り、思うさま長かった。どうしてああもつまらない話を延々と語り続けるのか、話は簡単である。それは、黙って聞いてくれる者がいるからだ。他人に対して話をするのは、それ自体で、気持ちがいいのである。内容は関係ない。押し黙って話を聞いてくれる者――生徒――に対して、自分たちの気分の良さのために、長々と話を続けるというわけだ。これは一種の暴力と言えよう。昨今、ネットによるコミュニケーションが取り沙汰されているが、何もネットに求めなくても、現実世界のごくごく身近なところに、コミュニケーションの断絶――ディスコミュニケーション――の例はいくらでも転がっている。
式が終わると、成績表を返されて、その後に、担任の訓示があり、一学期はめでたく終了である。返された成績表にため息を落としてみる。数字などにため息を落とさなければいけない我が身が不憫。だが、仕方がない。これも業というものだろう。何かしら前世でよろしくないことをしたに違いない。あるいは、そこまでさかのぼらなくても、中学三年までの生活に原因を求めてもよい。原因を思っても、そこに解決策があるわけではないので、怜は不毛なことをやめて、教室を出ることにした。
廊下を歩き、部活の集まりに少し顔を出すことにする。集まりは夏休み中の活動予定についてだ。何とまあ、夏休みでも部活をやるというのだから、どうかしている。みな、夏「休み」の意味を知らないとみえる。自分よりも成績がいいはずなのに、自分が知っていることを知らないとは、ますますこの学業成績というシステムの不備は明らかである。
部室として利用している視聴覚教室に入ると、
「あ、加藤くん」
部長の田辺杏子が、スクエア型の眼鏡のレンズを光らせて、にこやかである。
この子の笑みには不穏なものがない。
下心なく微笑むことができるのであるから、稀有な女の子であると言えた。
「いよいよ夏休みだね!」
定位置の教卓にいた杏子は、風を起こそうとでもしているかのように、大げさに片腕を横に振った。
「夏休みに何かあるのか?」
「特に何も無いけれど、夏休みっていうだけで、こう心浮き立つものがあるでしょう」
そんなものこそ特に無かったが、「そうだな」と怜は、調子を合わせた。
「この一学期は、本当に、わたしにとっては激動の一学期だったわ」
杏子は、思い出に浸るような目をした。
これはそっとしておいた方がよかろうと思って、怜は、席に座ろうとすると、
「ねえ、加藤くん。そう思わない?」
彼女はすぐに現実世界に帰還した。
「そう――」
応えようとした怜に、
「そうでしょ!」
食い気味に反応した杏子は、バンと両手を叩きつけるようにして、哀れな教卓に悲鳴を上げさせると、
「部員が増えたし、部員が増えたし、部員が増えたし! 苦労って報われるんだなあって、しみじみそう思うわ」
しんみりとした声を出した。
怜は、彼女がしたであろう人しれない苦労に思いをはせたが、うまくイメージができなかった。これは、自分の想像力が欠如しているせいであろう、と怜は自分を責めておいた。
「ども」
気楽な掛け声とともに二年生少女、坂木蒼が現れると、部長との間で、いつもの掛け合いが始まる。
「ああ、もう一学期は終わりですか、早いですねー。こうやって人は年を取っていくわけです。ああ、いやだいやだ」
「成長していくんでしょ」と杏子。
「成長?」
「そうよ、人は日々成長するんです」
「わたし、成長してるのかなあ。どう思います、加藤先輩?」
そう言って、彼女は、なにやらポーズを決めてみせた。
杏子との間で繰り広げられるハズの掛け合いのとばっちりを受けた怜は、
「なぜオレにきく」
と訊き返した。
「先輩にだから聞いてるんじゃないですか」
「よく分からないな」
「先輩にだからっていうところがですか? それともわたしの体のこと?」
どっちもである。
「分かる気がないから、分からないんですよ。もっとわたしに興味を持ってください」
「興味深いとは思っているけどな」
「それだけじゃダメです。もっとわたしに興味を持って、そうして、わたしにブランド品を貢いでください」
「何の話をしてるんだ」
「とにかくブランド品を買ってくださいってことです」
そう強引にまとめあげた彼女は、席の一つに着くと、悠然とその足の先をそろえて、別の椅子の上にあげた。
「それで、部長。いつどこでやるんですか、お楽しみ会は」
「え、何のこと?」
杏子は戸惑った声を出した。
「え、当然やりますよね、一学期の慰労会」
「い、慰労会?」
「はい!」
杏子はきつねにつままれたような顔で怜を見た。
怜はその目を見返してから、蒼を見た。
蒼は、部長に向かったまま、続けた。
「お疲れさまでした的なヤツですよ。一学期もお疲れさまでした。二学期もまたがんばりましょう! って感じの」
「確かに部員は増えたけれど、活動としてはそれほどしていないと思うけれど」
「何言ってるんですか。部長はそうでも、部長に付き合わされていたわたしや加藤先輩のことも考えてくださいよ! 部長はメンバーのモチベーションを維持する責任があるでしょ。モチベーション維持してくださいよ。焼き肉おごってくださいよ!」
「……アオイちゃん」
「はい?」
「この頃、お肉食べた?」
「食べてないです」
「じゃあ、ただ肉食べたいだけじゃないの?」
「よく分かりましたね」
この二人の掛け合いも夏休みの間は聞けないのか――少なくとも毎日は――と思えば、怜は少しさびしい気持ちを抱くと共に、非常に清々とした気分にもなった。
「お肉ってなんのこと?」
爽やかな声とともに、室内に入って来たのは塩崎輝である。
彼には随分と助けられた怜である。
なにせほぼ女所帯だったこの部活に来てくれたのだ。
感謝してもし足りない。
怜は、輝に向かって、目礼を捧げた。
「どうかしたか、レイ?」
「いや、気にしないでくれ」
「そう言われてもなあ」
分からない顔をしている輝に向かって、蒼が言う。「慰労会、やりませんか、塩崎先輩?」
「慰労会?」
「そうです、先輩の家で、バーベキューパーティ」
「話が変わってるじゃん」
杏子がツッコむ。
「庭でバーベキューかあ、たまにやるけどね」
「え、先輩っちって豪邸?」
「普通の一戸建てだよ。バーベキューって豪邸でしかできないの?」
「いいですね、家でバーベキュー」
「そういう話になってるの?」
「なってます」
蒼は言い切った。
「オレは別に構わないけど。親が許してくれれば」
「じゃあ、そうしましょう! みんなで食材持ち寄って、先輩の家で、バーベキュー!」
部活に出なければいけない上に、そんなお楽しみイベントにまで出なければならないなど面倒なことこの上ない。怜はそっと失礼しようと思った。それでなくても、夏はいろいろとやらなければいけないことがある。
「部長、肉係にしますね」
「え、お肉、わたしだけ?」
「はい、今年のお年玉の残り、全部はたいてください」
「残っているのかなあ、お年玉」
「なかったら、ブタの貯金箱を壊してください」
「ブタタロウを、壊せっていうの?」
「ブタ……なんです?」
「三歳の頃からの、わたしの親友」
「壊しましょう。彼もそれを望んでいるハズです。そうして、立派なお肉になりましょう」
「ブタタロウを壊す……?」
「はい」
「そんなの無理!」
部長が、貯金箱との友情を再確認しているところで、他の部活メンバーがやってきた。
みんな、女の子である。
「部長の声、廊下にまで響いていますよ」
そっと事実を告げるような口調で、川名円が言った。円には、一種、静謐な雰囲気があって、熱気のある場が少しひんやりとしたようである。本来の彼女はもう少し熱を持った子であって、それを知っている怜としては、しかし、今の彼女もそれはそれで好ましく、つい凝視しないように気をつけた。誰に嫌われても構わないが、彼女には嫌われたくないという思いは、ただ彼女がカノジョの妹であるというそのことだけではないと思う。つまり、円は、怜にとっては女の子なのであった。
「え、ホント? もお、アオイちゃんのせいだからねー」
「部長っていうのは、責任を取る立場でしょう。責任をなすりつけてどうするんですか」
「来年はその部長があなたになるんだからね。そっくりそのままその言葉が、アオイちゃんに返ってくるよ」
「返って来ませんよ」
「どうして?」
「だって、わたしが部長になったら、部員にわたしはいないじゃないですか」
「アオイちゃんみたいな子が新しく入部してくるかもしれないじゃないの」
「わたしみたいに、チャーミングで、クレバーで、オーストリッチな子はそうそうはいません」
「オーストリッチってなに?」
「ダチョウの革です」
「そ、そうなんだ」
「はい! そのダチョウ革のバッグ、買ってくれませんか? 塩崎先輩」
蒼は、輝の方を見た。
「え、オレが?」
「はい」
「また、どうして?」
「だって、先輩、カノジョいないんでしょ? だったら、わたしにプレゼントする権利があるわけですよ。使わないと損でしょう」
蒼が、すごい理論を展開する。
怜は、円に続いて入って来た女子部員である水野更紗が、凄い目で蒼を見ていることに気がついた。気がついたけれど、気が付かない振りをした。彼女の、輝に対する個人的な感情には何らの興味も無い。そもそもがそういう恋愛的なことに関してはあまり興味が無いのである。他人のことであれば尚更であった。
まだ陽射しは午前のものである。
怜は、空腹を感じてきた。
またどうせ学校で会うのであれば、もうお開きにしてもらいたかった。今日は、家に帰って昼食を食べたら、塾に行かなくてはならない。
最後に入って来た橋田鈴音は、円と話をしていた。何とはなしにそちらを見ていると、鈴音に視線をとらえられて、微笑まれた。
「じゃあ、みなさん!」
最後に部長が締めようとした。
「今学期もお疲れさまでした。夏休み中も活動しますので、三年生は、忙しい勉強の合間を縫って、一二年生は、遊びの時間を縫って、来てください!」
「ぶちょー、慰労会はー!」
「慰労会をしようという意見が出ていますので、その件に関してはまたおって、ご連絡します」
杏子は、パンッと両手を打ち合わせて、
「では、みなさま、有意義な夏休みを――」
言いかけたところで、
「よっ、あれっ、終わるとこ?」
最後の部員である岡本士朗が入って来た。
いつも通りトップを狼のたてがみのようにした雄々しい髪型の彼は、この夏前に部活を引退して、文化研究部のメンバーになった。
「岡本くん……」
「ん?」
「今、わたしがしめようと思ってんだよ」
「そうですよ、岡本先輩。先輩の首をしめてあげたいです」
「こええこと言うなよ」
怜は、彼にも感謝していた。
感謝していたが、輝に対する気持ちと変わりないので、彼への感謝は割愛することにした。
「じゃあ、みんな。いい夏休みをね!」
改めて杏子が言い、お開きとなった。
やれやれ、と怜は、廊下に出た。
夏の日差しで、リノリウムの床が輝いている。
光り輝く回廊を歩いて行くと、生徒用玄関に到着する。
上履きを、今日は下駄箱に入れず、上履き袋に入れてそのまま外に出ようとすると、玄関先にたたずむ少女の姿があって、
「お待ちしていました」
当然に、川名環である。