第137話:終業式の風景
メールの着信音で目が覚めたのは、午前5時45分である。
すでに夜は明けている、仲夏の候。
怜はベッドの上で体を起こし、メールを確認してみた。
「おはよう、レイ。いい朝だね。今日も一日張り切って行こう!」
ラジオの早朝番組のパーソナリティのようなノリの文を書き送ってくれたのは、従妹の由希だった。わざわざモーニングメールをしてくれる繊細な心性の子ではないので、怜は、思い切りそのメールの意図を怪しみつつ、
「おはよう。張り切るも何も今日は終業式だぞ」
返信した。
「わたしもー。でも、だからこそ張り切るんでしょう?」
「校長の話を聞くだけだろ」
「年を経た、経験のある大人の話を聞く。これは十分に張り切るべきことだと思うけれど」
校長の話を聞くことが張り切るべきことであれば、世のほとんどのことは、張り切って行えるだろう。心底からうさんくさいことを書いてくる従妹の真意を、怜は推し量ってみたが、分からなかったし、そもそも彼女の心底を見ようとするのは、岸辺から海底を見ようと努めるのに似ている。あきらめた怜は、用件を言え、とビジネスライクをやった。
すると、電話がかかってきた。
「嫌だなあ、レイったら。単におはようの挨拶をしただけなのにさ。まあ、でも、今思い出したんだけど、こっちに来てくれるのって八月の一週目で良かったっけ?」
なるほど、その件だったのか、と怜は、合点がいった。怜は夏休みの間に、祖父母の家に滞在することになっている。従妹の家族は祖父母と同居しているので、滞在時に二人は感動の再会を果たすことになるわけである。その予定の確認をしたかったのだ、と一応納得はしたわけだけれど、なお怪しいのは、そんなに自分が心待ちにされる存在なのかどうか、という点である。
「もちろんだよ。会いたくてたまらないんだ、レイに」
従妹の温かな声を聞いて、怜は背筋を冷たくしたが、オレも会いたいよ、と礼儀を通して、電話を切った。あくびまじりに、ベッドを出ながら、今日の学校の準備を確認しようとして、今日は終業式なわけで持って行くものもないので、その必要もないことに気がついた。階下に降りる時に、机の上に開きっぱなしにされた英語の参考書をお供にする。ほの明るいリビングの、そのテーブルに参考書を置いて洗面しに行き、さっぱりとしてから勉強タイム。三十分もアルファベットと戯れていると、母が起きて来た。
「おはよう、早いのね」
特に早くはない。いつも通りである。
「夏休みの特別講習の申込用紙、書いておいたから、持って行きなさいね」
通っている塾で、夏の特別講習なるものがあり、特別も何も単に夏休みの間だけ回数が増えるというものに過ぎないわけだが、もちろん別料金になるので、母が渋るかと思ったけれど、そうでもなかったらしい。息子の教育のためと思い奮発してくれたようである。ありがたいはありがたいのだけれど、これで夏休みがいっそうの充実を見てしまうわけで、怜は、あまり充実というものを求めていなかったので、微妙な心持ちになった。何かをこなしながら、あるいは未来にあるだろう何かをこなすことを考えて生きていく生き方は、窮屈に過ぎる。
それでも、怜は母に、「ありがとう」と礼を言っておいた。それが筋である。母は、しっかりやりなさい、と適当な言葉を返した。I'll do my best.と内心で答えて怜は今朝の英語の勉強をおしまいにした。
少しして、珍しいことに妹が自ら起きてきたではないか。怜は、怪力乱神を語るものではないが、そんな彼をして、これは何かの前触れか、と思わしめる奇怪事だった。
「今日で一学期が終わると思うと、嬉しくて早起きしちゃったー」
妹の都は、彼女にふさわしからぬ実に清々しい笑顔でそんなことを言った。
別に早くはないでしょう、と母に突っ込まれたが、いや、確かに早い。
「わたしの目の前に、自由にできる40日間があると思うと、もー」
そんなことを言いながら、嬉しさに足踏みする妹に、怜は、彼女と接する時間が長くなってしまうことにうんざりとする思いだった。そんな風に思っても妹に悪いとは思わない。なにせ、その気持ちは彼女も持っているわけであるし、それを口に出すことさえよくあるのだ。
「勉強もしなさいよ」
母が、投げやり気味な声を出した。言っても無駄だと思っているのか、まだ二年生だからそれほど熱心でなくてもいいと思っているのか。
「ほーい」
妹はつるりとした顔で、にこやかな声を出すと、
「質素な朝食も美味しく感じるなあ」
機嫌よく、用意された朝ごはんに向かって、質素で悪かったわね、と母にまた突っ込まれた。
怜も朝食を取ると、妹と特に何も言葉を交わすことなく、彼女より一足先に家を出た。
外はいい天気である。
空はからりと晴れて、雲一つない。
キラキラと輝く太陽の光を、半袖からあらわれた腕に受けながら、怜は学校に向かって歩き出した。
並木の緑も光を弾いている。
学校への途上にカノジョの家があるが、門前にカノジョの姿は無い。
怜はそのままカノジョの家を素通りした。
今日は約束しているわけではない。
道路沿いの歩道をあるいていると、怜は、友人の顔を見た。
「シュン」
五十嵐俊は、少女のように優しげな面差しをした、厳格な合理主義者である。
「や、レイ」
俊は微笑を投げて来た。
怜も挨拶を返した。並んで歩き出しながら、
「今日で一学期も終わりだな」
と言ってみた。
「そうだね。そして、一学期が終われば、今度は、夏休みが来るね」
「夏休みが終わったら?」
「今度は、二学期」
「二学期が終わったら」
「冬休み」
「冬休みが終わったら?」
「また何かが来て、そのうち大人になる」
「なるほど」
「全て世はこともなし」
とすると、人生は何のためにあるのか。
怜は、合理主義者である彼に聞いてみたかった。
俊は、微笑んだ。
「人を愛するため、じゃないかな」
そのロマンチックな答えに、怜は意外な面持ちを作った。
「例えば、こうしてレイと学校までの道を歩いている。ボクは、今とても幸せだ。それは、ボクがレイのことを愛しているからじゃないかな。そうして、これ以上の幸せは、ちょっと今のボクには考えられないんだ。とすれば、人を愛することが、ボクの人生で決定的に重要だということは疑いえないことじゃないか」
なるほど、と怜はうなずいた。
「じゃあ、オレの人生は。そして、人生一般についてはどうなんだ?」
訊いてみると、俊はまた微笑んだ。
「そんなことボクは知らないよ。ボクはボクの人生しか生きたことは無いんだから」
詩的な答えは、しかし、非常にすっきりとした合理性を持っていた。そう言ってやると、
「いや、理があるものは、すべて美しいんだよ。理がそれ自体で詩なのさ」
そう答えて、俊は笑った。
その答え方も美しい。
「佐伯にも理があるのかな」
怜は、俊が付き合っている女の子のことに水を向けてみた。
「スミちゃん? うーん、それが分からないから、付き合ってるのかな」
「そうか」
「女の子は永遠の謎だね。女の子にとっての男の子もそうだといいけど」
「その二つのことは平等じゃない」
「なんだよね。最近、こんなことを思うんだけどさ。ボクはボクであることをやめられないけど、でも、それで、スミちゃんを傷つけたくはないなあって。これについてどう思う?」
言いたいことは分かるが、しかし、完全に理解はできなかった。
なぜなら、怜には、主張すべき自己など無かったからだ。
俊の話は続いている。
「これは理に外れていることだと思うんだよね」
「さらに大きな理の内のことかもしれない」
「なーるほど」
「シュン、お前はいいヤツだよ。オレにはそれしか言えない」
「それだけで十分だよ。ありがとう、レイ」
「どういたしまして」
二人相愛を確かめ合いながら歩いて行くと、
「あ、ナナミだ」
俊が声を上げた。
見知った少女が一人で歩いている。
「姫は一緒じゃないのかな」
「姫って、伊田のことか?」
「そうそう」
「そのネーミングは、ステキとは言い難いな」
「自分にその手のセンスがないことは知ってるよ。ただ、これはタイチが言ってたことだけどね」
「なるほど。じゃあ、あいつが悪い」
「そうなるね」
俊が真面目くさってうなずくと、向こうでこちらに気が付いたようである。
七海は、わざわざ立ち止まって、二人を待っていた。
エッジの効いたショートカットが、夏空の下に爽やかである。
「二人仲良く登校?」
「そうだよ」と俊。
「二人ともカノジョがいるのに、それを放っておいて、男同士で何してるの?」
七海が、歩き出しながら言った。
「人生について語っていたんだ」
「カノジョとは語れないの?」
「女の子は将来については語らないだろう。超現実主義で、今日のことしか語らないんだからさ」
「そんなことないよ。それは偏見だと思うなあ」
「じゃあ、ナナミは何か将来の展望があるの?」
「五十嵐くん」
「ん?」
「たとえあったとしても、それは人には語らない。本当の希望っていうのは、ここに――」
そう言って、七海は形よく膨らんだ胸へと指を持っていって、
「秘めて、誰にも伝えないものだよ」
口角を上げて微笑んだ。
俊は、おお、と素直な感嘆の声を上げたが、
「でも、明日の晩ご飯に何を食べるかくらい教えてくれたっていいんじゃないか?」
ひるまずに言った。
「それを聞いて、どうするの?」微笑んだまま七海。
「ナナミのことを知りたい子にその情報を売って、抹茶豆乳を稼ぐ」
「抹茶豆乳?」
「情報料だよ」
「わたしのことを知りたい子なんているんだ」
「ごまんといるよ」
「いくらなんでも五万人はいないでしょう」
七海はそこで、怜に目を向けた。
「さっきからずっと黙ってるけど、どうかしたの、加藤くん?」
「オレが黙ってるんじゃない。二人が話していたんだろう」
「そこに割って入ってくればいいのに」
「根が遠慮深いんだな」
「そんなことじゃダメだな」
「ダメなのか?」
「いや、知らない」
そう言って、七海は屈託なく笑った。
彼女といると、何となく心持ちが明るくなる。
何を話しているわけでもないのに、心が明るくなるわけで、それが彼女の人気の理由だろう。
学校までにはまだ間がある。