第135話:ピクニックにはサンドイッチを持って
目を覚ますと、朝はまだ暗かった。
携帯を確認すると、5時30分である。
宏人は体を起こすと、頭を軽く振った。
かけていたアラームに先んじて起きてしまったわけだけれど、今起きずに二度寝すると、そのアラームを華麗にスルーして、起きるべき時間を大幅にジャンプしてしまうことは経験が教えてくれている。
経験を活かした宏人は、ベッドから降りて、階下へ向かった。家の中は静まり返っている。みな、夢の中にいるのだろう。
洗面とトイレを済ませて、キッチンに入った宏人は、はわはわ、とあくびをして、気合を入れた。先ごろ料理を始めたばかりの彼にとって、キッチンはなじみの無い場所で、どこに何があるかもまだよく分からない。あんまり母の聖域を散らかさないように気をつけつつ、料理を始める。
献立は、サンドイッチである。
母直伝のハムエッグサンド。
卵をよく溶いて、お塩を少々、それをフライパンに薄くのばして、ハムを中に入れて焼き、具を作ると、トーストを焼いて、そこにマヨネーズにケチャップ、マスタードを塗って、ハムを包んだ卵焼きをサンドして、でき上がり!
宏人は完成品を目の下にして、お腹がグウと鳴るのを聞いた。なので、早速、紅茶を入れて、サンドイッチで朝ごはんとしゃれこんでみると、これがまた美味い。
「天才……かもなあ、オレ」
しみじみと呟いていたところで、香ばしい匂いに誘われたのか、姉が起床したようである。
姉は寝乱れたしどけないパジャマ姿で近づいてくると、おはよう、も言わずに、むんずとサンドイッチの一つをつかんで一口食べて、もぐもぐとやった。そうして、ごくん、と飲み込むと、サンドイッチを皿に置いて、
「紅茶、わたしにも淹れて」
それだけ言って、洗面台の方へと消えた。どうやら、お眼鏡にかなったらしい。
宏人は、帰って来た姉の給仕をしてやってから、父母の分も作ることにした。
白々と夜が明けて行く。
宏人が朝から、サンドイッチ作りという優雅な手作業に没頭しているのは、今日の友人とのピクニックのためである。目的地は知らないので、厳密に言えば、ピクニックかどうかも分からないのだけれど、ピクニックと言えばお弁当だろう、お弁当と言えばサンドイッチである、という至極当然の流れで、朝から台所に立っているわけだった。
「よし」
一段落したところで、宏人は、シャワーを浴びた。それから、髪を乾かして、お出かけ用の服に着替える。お出かけ用と言っても、まあデートするわけでもないので、気張ったものにする必要はないだろう、とボーダーのTシャツとジーンズという格好にして見苦しくない程度に整えた。
「よく似合ってるよ、さすが、わたしの弟」
姉は、テレビのニュース番組を見ながら、適当極まる褒め言葉をくれた。とはいえ、褒め言葉に違いは無く、宏人は、今日の天気を危ぶんだ。予報は曇りだけれど、さて。
父母が起きてきて、サンドイッチに感嘆の声を落とすのを聞きながら、宏人は、出かけることにした。時間は、まだ八時半だけれど、約束は九時、待ち合わせ場所まで三十分弱かかるので、ちょうどよい頃合いだった。
「お土産に、シホちゃんとのラブラブ話聞かせてねー」
姉の激励から逃れるように足早に外に出ると、空気は爽やかで、まだ七月下旬であるというのに、秋のような風情である。絶好のお散歩日和。斜めにベルトがあるタイプのリュックを背負ってランランと歩いて行くと、人通りが多くなる。待ち合わせは駅前にある広場だった。
広場について、中央に立っている時計を見てみると、待ち合わせ時刻の5分前を指していた。
「さすがオレだな」
一人ごちて、待ち合わせ場所に指定されているベンチへと腰をおろ……そうとして、先客がいたので、ちょっと戸惑ったけれど、ベンチ近くで立っているのも間が抜けているので、失礼して、端の方に座ることにした。
「失礼します」
と礼儀を通すと、
「どうぞ」
と返してくれた先客は、同じくらいの年の女の子である。チュニックというのだろうか、ひざ丈よりも短いワンピースは空色で、爽やかな顔立ちに良く似合っていた。
五分が過ぎて約束の時間になっても、志保は現れない。しかし、宏人は慌てない。もともと彼女が時間どおりに来るなどということは期待していない。
――いや、今日は期待しても良かったのか。
なにせ、彼女が誘って来たのである。うむうむ、とうなずいた宏人は、来たら遅刻を叱ってやろうと心に決めた。
ベンチは木陰にあって、ひんやりとしている。宏人は、木々の緑と、空の青を見上げながら、広場の喧騒に耳を委ねた。
あやうく、うとうとしかけてしまったところ、ハッと気がついて携帯で時間を確認すると、待ち合わせ時間からゆうに十分を過ぎていた。やれやれ、と思った宏人は、そのまま携帯で電話をかけてみることにした。相手はすぐに出た。
「はい」
「はい、じゃないよ。待ち合わせは9時だろ。今どこにいるんだよ」
「どこって、もう着いてるけど」
「はあ?」
宏人は辺りをキョロキョロしたが、それらしき人影は無い。ひょっとして、自分が待ち合わせ場所を間違えたのかと思って、確認してみると、
「そこで間違いないよ」
とのこと。そうなると、ますます分からないではないか。この近くにいるのは、自分をのぞけば……そこで、ハッと気が付いた宏人は、後ろを振り向いた。そこには、しかし、茂みしかなかった。
「何やってんの? バッカみたい」
――ん?
今の行為が見えているということは、やはり近くにいるということだ。でなければ、双眼鏡か何かで覗いていることになる。キョロキョロしていると、ベンチに座っている少女と目が合った。彼女は、にこりとして、宏人の気持ちをほんわかさせた。
「どこからオレを狙撃するつもりだよ?」
「はあ?」
「ビルの屋上から、スコープで見てるんだろ」
「スコープってなによ。てか、もう着いてるって言ってんじゃん」
宏人は、周囲をもう一度よく見回した。しかし、志保の気配は全く無い。
「今すぐ、オレの目の前に現われなかったら、もう帰るからな。サンドイッチ持って」
「サンドイッチ、作って来たんだ」
「5時半起きだぞ」
「たく、仕方ないなあ……」
その声が消えるとともに、あらわれた一つの影に、宏人はきょとんとした。
きょとんとする他ないではないか。
宏人の前に、現れたのは、さっきからいたベンチのシェアメイトだったからである。
宏人は、よくよくと彼女を見た。
よくよくよーく見た。
そして、いや違うな、と結論付けて、回れ右しようとして、
「なんで帰ろうとすんのよ」
その少女から肩を掴まれた。
「えーーーーーーっ!」
宏人の絶叫が、青空にこだました。
なんだ、なんだ、と通行人が、突然に叫び出した少年をあやしげに見る。
「お、お前、藤沢か……?」
「正解。なんか景品あげようか?」
そう言って、志保らしき少女は、笑みを見せた。
確かに、声は彼女のものだが……。
宏人は、ベンチに自分の体を支えてもらうことにした。
「そんなに驚くことないでしょう」
隣に座った志保が言う。
「驚くだろ」
髪をアップにして瞳をまっすぐに見せ、服装をひらひらとしたものにしただけで、全く彼女は別人だった。
宏人は、可愛い子だなあと思ってたのにオレのドキドキを返せよ、と内心で憤った。
「なに変な顔してんのよ」
「別にいいだろ……お前こそ、何で、今日に限ってそんな格好にしたんだよ」
「デートでしょ。おめかししただけよ」
いたずらっぽく言う瞳が綺麗に輝いている。
宏人は、胸がときめきかけたので、ぶんぶんと頭を振った。
「ウソよ」
志保は言って、
「これは、わたしの戦闘服ってところかな」
訳の分からないことを続けた。
勝負服というのは聞いたことがあるが、戦闘服なんて聞いたことがない。
「誰と戦うつもりだよ」
「じきに分かるよ」
志保は謎めいたことを言うと、時計を確認した。
「電車が出ちゃう、ぐずぐずしてる場合じゃないわ」
「オレは時間どおりに来たんだよ」
「ぶつくさ言わないでよ」
志保はベンチから立ち上がると、小さなハンドバッグを手にして、早足で構内へと向かった。
宏人がその後を追う。
「早く早く、倉木くん」
理不尽に急かされて、チケットを買い、構内を抜けてプラットフォームへ向かう。
二人がプラットフォームについた、ちょうどそのときに、電車が到着した。
「ギリギリだったね」
「停車してすぐ発車するわけじゃないんだから」
「それはそうだけどさ。停車しているところに乗るのって、なんか焦るじゃない」
電車で、二駅の道行きらしい。
三十分くらいは、かかるだろう。
車内はちょうどよい混み具合で、志保に従って早めに座れたおかげで、向かい合う席が取れた。
「それにしても、お前、ホントに別人な」
宏人はしみじみとした声を出した。
「どう別人なの?」
「どうって……」
こういう件に関する真情を彼女に話すには、少し屈折した思いがあって、
「ちゃんと女の子に見える」
意地悪い言い方をしてやると、
「あ、可愛いってことね」
あつかましくも的を射た答えが返ってきたので、ああそうだよ、と認めてやった。
宏人は、サンドイッチを勧めた。
包みを開いて、紅茶も用意してきたのでプラスチックのコップに入れて、一緒に勧めてやると、志保は一口食べてから感心したような顔になって、
「さすが、小器用だね、倉木くんは」
大して感心しているように聞こえない褒め言葉をかけてきた。
どこに行くとも聞いていない宏人は、聞いていなくても大丈夫な自分の状態を危ぶんでみたが、いつものとおり、まあいいか、という、ことなかれ主義的な結論ともいえない結論に落ち着いた。
電車に揺られ、ゆらゆらしていると、いつぞやのグループデートを思い出した。今の志保だったら、あのときの彼らから粗末に扱われないだろう、と思った。それにしても、志保は、今の姿が堂に入っていた。格好だけ整えてみても、馬子の衣装、服装に振り回されたような違和感があるはずだが、それがない。まるで、こっちが本当の彼女のようである。
「またわたしに見惚れてるの?」
「また、ってなんだよ。見てただけだ」
「なんで見るのよ」
「お前がオレの目の前にいるから」
「なるほど、じゃあ、しょうがないね」
宏人は、窓外の景色に目を移したけれど、車窓から覗く景色よりも向かいの席に座る少女の方がよっぽど珍しく、つい見てしまうのを止められなかった。