第132話:約束の軽重
「お前の姉ちゃんって、ホント美人だよな」
隣の一哉の声が、賛嘆の色に満ちている。
そう言われてもいい気がしないのは、姉が美人であっても、その弟が美男子であることにはならないからである。だったら、美人の姉など何の意味がある? ていうか、そもそも、「美人」は言い過ぎだろう。しかし、なるほど確かに、ただ今のように家の外で表面を繕っているときは、それなりに見られる容姿だった。
一哉の声の後、
「倉木先輩だ」
というささやきがさざなみのように広がるのを、宏人は聞いた。
姉は中々人気がある。
ふと見ると、一哉と話をする前に付き合っていた二次元少年の信吾が、姉の方をガン見している姿があった。きっぱり振られたのに、いまだ未練があるのだろうか。その隣で、信吾を好きな少女が、その顔をむっと歪めているのも見えた。
――怖っ……。
と思いながらも、そんな風に嫉妬してくれる女の子がいるのだから、信吾は幸せ者である。
「オレにもそんな子がいてくれたらなあ」
「なんのことだ?」
「いや、こっちのことだよ。カズヤ、一年に妹いるんだよなあ」
「ん、ああ」
「可愛い?」
「それ前にも訊かれたような気がする」
「紹介しようか、オレに」
「はあ?」
「だって、もうそうするしかないだろ!」
「まるで意味が分からないが、まあ、ヒロトになら紹介してもいいけどな。でも、余計な手間が増えるだけだぞ」
「手間?」
「ああ」
「じゃあ、やめておこう。オレの日常はもういっぱいいっぱいだから」
宏人の毎日をいっぱいいっぱいに充実させてくれている当の少女が、教室の戸口で、姉にぺこりと頭を下げている。
姉は、志保に、またねと声をかけると、視線を巡らせて弟を見た。
宏人は、
――やめてくれよ!
と強く願ったけれど、願いは届かず、姉は、今まで家の中では見せたことのないような品の良い笑みを浮かべると、手を振ってきた。その手に我が手を振り返せるハズもなく、宏人が立ち尽くしていると、姉は制服のスカートを翻して、立ち去った。
視線が突き刺さるようでいたたまれない宏人は、近づいて来た志保をにらみつけてやったが、もちろん彼女は気にしたようでもない。なおもにらみつけてやると、志保は笑いをこらえるように口元を引き結んで、視線を下げた。よっぽど事情を問い質したかったが、折悪しく、キンコンカンコン、と昼休み終了の鈴の音が鳴った。
「みんな、美人が好き。そうして、美人と親しくしている人をうらやましく思う」
そんな簡単な説明を自分の行為に対して志保がしたのは、放課後のことである。正確に言うと、放課後のさらに部活の後、宏人は志保と正門で待ち合わせたのであった。七月中旬の夜はなかなか暗くならない。山の上にねばりづよくとどまり続ける夕日の下を、宏人は志保と歩きながら、あらかじめどういうことをするのか聞かせてもらうことはできないのか、と聞かずもがなのことを聞いてみた。
「だって、相談なんかしたら反対するでしょ」
「反対意見を出すことによって、より良い意見になるかもしれない」
「民主主義だね。でも、わたしたちは民主的な組織じゃないから。決断はわたしがする。相談は必要なときしかしない」
なんて可愛くないヤツだ、と宏人は思った。思って口にも出してやった。
「ひどい……」
志保は、うつむいた。そうして、顔を覆い出した。
泣きマネだ、と宏人は断じたが、志保が肩を震わせているので、もしかしたら、と思って、言いすぎたよ、と口にすると、平然とした少女の顔に人の悪い笑みが広がる。そうして、
「倉木くんは、可愛いよね。そういうとこ」
しゃあしゃあと言った。
宏人は、ムッとして、
「……女であることに感謝したほうがいいぞ」
声音を硬くした。
志保は、きょとんとした顔をした。
「女の子であることに感謝?」
「そうだよ」
志保は、少し考える素振りをしてから、
「あ、なるほど、女の子なら倉木くんと恋人同士になれる可能性があるもんねえ」
口元に笑みを浮かべながら言った。
面白いよ、と応じてやると、
「そうでしょ」
と得意気である。
そのまま別れ道まで歩いて、志保とは別れた。別れ際に、
「日曜日あけといて」
と言われて、なんでと訊き返さない自分に、宏人は呆れるしかなかった。
家に帰ると、姉が既に帰っていて、お帰りー、と弾んだ声を出して、やけに機嫌良さげである。
宏人は、そそくさと自分の部屋に引っ込もうとした。
しかし、近づいて来た姉にぐいっと袖をつかまれて、捕まった。
「シホちゃんと、一緒に帰って来たの?」
「ん……ああ、別れ道までな」
「そかそか、あの子のことちゃんと守ってあげなよ」
「守る?」
姉はまだ志保がいじめられていると信じているのだろう。事実それはそうなのだが、しかし、今は自分もいるし、一哉もいるし、志保を無視するような空気は無い。姉は、ふうん、とその件についてはあまり関心がないような声を出したあと、
「何だかちょっと危ういような気がするんだよね」
と続けた。
ちょっとどころから、大分、危ない子ではある。それに付き合える自分も相当かもしれないが。
「いざとなったら、あんたしかいないんだからね。シホちゃんを守るために屋上から飛び降りな」
「どういうことだよ、何で屋上から飛び降りるの!?」
「たとえよ、たとえ。そういう必要に迫られたら、迷わずそうしなさいよっていう」
「姉貴は、オレより藤沢の方が大事なのかよ」
「え、なにそれ、ジェラシー発言?」
「いや、素朴に疑問なだけ」
「大事とか大事じゃないとかそういうことじゃなくて、男だったら、そういうことをしなければいけないっていうそういうことよ」
なんだそれ、ただの男女差別じゃないか、と宏人は思った。思ったが、抗弁しなかった。抗弁しても無駄だと思ったからである。姉に理屈は通じない。分かったよ、と言って、二階に引っ込もうとすると、
「それでこそ、わたしの弟」
と言って、屈託がない。時々、姉が男であれば良かったのではないかと思うことがある。自分の方が女の子に向いた性格をしている気がする。しかし、そういう考え方こそ、男女差別かもしれないと思えば、問題は中々にフクザツである。
翌朝、学校でのことである。
宏人は、瑛子に声をかけられた。といっても、声をかけられるのはいつものことではあるのだが、挨拶の後に、
「放課後、ちょっと時間をください」
と来たものだから、一気に緊張した。瑛子は特に声をひそめるでもなく、何人かのクラスメートの耳目を集めたけれど、気にした様子でもない。宏人は、どう答えようか窮したけれど、ちょっとの時間を提供するくらいのこと、まさか嫌だと言うわけにもいかず、承諾するしかなかった。
「ありがとう」
そう言って、自分の席に座る瑛子。
彼女の席の近くにある自分の席で、一体何の用なんだろうかと考えた宏人の頭に、瑛子が自分に向かって告白する図が鮮やかに浮かんだ。
――いやいやいやいや、あり得ないだろう。
しかし、女子が男子を放課後に呼ぶということは、そういうことなのではなかろうか。いや、そうとは限らない。何かしら頼みたいことがあるかもしれない。とはいえ、普段接点が無い男子に何を頼むのかと言えば、ちょっと想像ができない。でも仮に告白だとしたら、そのセッティングはもっとひそやかになされるものであって、さっきのようにクラス内で堂々ということはないだろう。考えてみても分からなかったわけだが、かと言って考えないわけにもいかず、結局、その日の授業時間の全てを、宏人はこの件を考えることに当てて充実した時間を過ごした。
そうして、放課後になった。
部活動前の時間に、宏人は瑛子に連れられて、中庭へとやって来た。
中庭には誰もいない。
午後の光が、地面を輝かせていた。
宏人は緊張した。
光は地面だけではなく、その地に立つ少女も輝かせているようである。
瑛子は、肩を小さく上下させて、呼吸を整えるようにした。そうして、
「倉木くんって、今、好きな人いる?」
唐突なことを訊いた。
いよいよもっての切り口に、宏人は告白されたらどう答えようかというところまで考えていなかったことに気がついた。そうして、「時」というものは、突然に来るものなのだなあということを感慨深く思った。
「好きな人っていうのがどういうくくりか分からないけど、気になってる子はいるよ」
宏人は正直に言った。
もちろん、志保のことである。
瑛子は、心得顔を作ると、
「じゃあ、いないってことでいいかな?」
訊いた。
「まあ」
「今週の日曜日って時間ある? 倉木くん」
「え、日曜日?」
「うん、一緒にどこか遊びに行かない?」
宏人は、断らざるを得なかった。すでに志保との約束がある。
「ごめん、日曜日は約束があるから」
「その約束、わたしのために断ってくれないかな」
はっきりとした強い声である。
宏人は、虚をつかれた。
およそそういうことを言いそうな子ではない。
宏人は、目の前の美少女と、頭の中の可愛げない子を、しかし、一瞬たりとも天秤にはかけなかった。
「ごめん、先にした約束を優先したいんだ。それがどんなつまらないものでも」
瑛子は、残念そうな顔をしたが、しかし、すぐに微笑んだ。その微笑みには影はない。
「ありがとう、時間作ってくれて。中途半端な用事でごめんね」
どうやら、彼女が話したいことはそれだけのようだった。
宏人は拍子抜けした思いだったが、同時にホッとしているところでもあった。
「倉木くん」
「ん?」
「もっと倉木くんと話したいんだけど、わたしのこと嫌い?」
瑛子は、身を寄せて来た。
宏人は、綺麗な瞳にまっすぐに見つめられて、ドキドキした。
「嫌いなんかじゃないよ」
「じゃあ、話してくれる?」
宏人は少し考える時間を持った。話すのは構わないが、あまり自分と仲良くすると、クラス内での彼女の立場が悪くなるのではないかと心配したのである。
瑛子は答えを急かさない。
宏人はうなずいた。「いいよ」
その瞬間、瑛子はパッと顔を明るくして、よかったあ、とホッとしたような声を出すと、
「……もっと早くこうすれば良かった」
つぶやくように言った。
「え?」
「ううん、こっちのこと」
これから改めてよろしくね、と瑛子は白い手を差し出して来た。
中庭には誰もいないが、中庭を横切るような位置に渡り廊下があるわけで、今この瞬間もそこを歩いている生徒や教師がいる。
宏人は躊躇したが、親愛を求めるその手を取らないわけにもいかなかった。
華奢な手である。
しかし、その手はしっかりと宏人の手を握って来た。
その手が離れると、じゃ、と言って、瑛子は軽やかに身を翻した。
それを見送ったあと、その背を追うようにして、宏人は部室へと足を向けた。
その日の部活後、
「バカじゃないの。二瓶さんの件の方を優先させればよかったのに」
瑛子との件を話したら、開口一番、そんなことを言われた。もちろん、志保にである。今日は待ち合わせたわけではなく、偶然に会ったのだった。天に感謝……はしていない。
「バカってことないだろう。大体、それならお前に付き合えなくなるだろ」
「わたしのことなんか二の次でしょ」
「カノジョだろ」
「誰がよ?」
「あ、そのセリフ、姉貴の前で言ってくれよ」
「倉木先輩は眩しいね」
「はあ?」
「なんか、お日さまって感じ」
「冷たい風しか吹いてこないけどな、オレのところには」
「まあ、断っちゃったんなら仕方ないね。『やっぱり大丈夫だった、うへへ』なんていう軽い男子とどっか行きたいとは思わないだろうからなあ、二瓶さんは」
「そういうもんなのか?」
「さあ、分かんない」
「で、日曜日はどこに行くんだよ」
「面白いとこ」
「楽しみだなあ、弁当作るか?」
「作れるの?」
「やったことないけど、まだ日曜まで時間あるからなあ、やろうと思えばできるだろ」
「じゃあ、ぜひお願い」
「よし」
冗談で言ったことだったが、本当にやってやろうと宏人は思った。そうしたらコイツどんな顔をするだろう、とそんなことを考えてしまった宏人は、この感情はなんなんだろうか、と思ったが、いつもの通り、あまり穿鑿しないことにした。