第131話:新たな協力者
鈍感は一種の美徳である、とは誰の言葉だったか。宏人は知らなかったし、そもそもこの言葉自体も知らなかったのだが、もしも知っていたとしたら、
「それはどうだろうか」
と首を捻ることだろう。
鈍感であることがいいことだなんて、そんなことあるだろうか。あったとしたらである。ただ今現在、宏人の目前で、相手の気持ちも考えず気持ちよさげに口角泡を飛ばして二次元の話をしている少年が、いいことをしているということになってしまう。そんなことは承服できかねると、宏人は思うことだろう。
「――そう思わねえ? ヒロト」
宏人は、すぐ目の前にある少年の顔に対して、うんうん、と適当にうなずいた。
学校のお昼休み時間中である。
給食を食べ終えた級友たちは、みな思い思いに体を休め、心を休めているのに、ひとり宏人だけが気が休まらない。というのも、お昼を食べ終わった直後、クラスメートが宏人の目前に鎮座ましまして、おもむろに、アニメやマンガやラノベの話をし始めたからだった。
――何の罰ゲームだよ、これは。
「おいー、聞いてんのかよお、ヒロトー」
机を挟んで向こう側にいる彼が、唇を尖らせるようにして言っていた。
どうやら右から左に聞き流していることがバレたらしいぞ、と思った宏人は、
「聞いてるよ。聞いてる、聞いてる」
適当をやった。
「本当か? じゃあ、おれ今、何て言った?」
「ん? あー、なんか女の子の胸がどうとかいう、絶対にクラス内で話しちゃいけないことを話していたような気がする」
「いや、言ってねえよ! なんだよ、それは。おれは変態か!」
「え、違うの?」
「違うから! おれはただラノベとマンガとアニメが好きなだけの純粋な男子だ!」
ラノベとマンガとアニメが好きかどうかということは、その人が純粋であることに何ら関係ない。にもかかわらず、それらを口に出したということは、それらが好きであることに関して、何らかの後ろめたさがあるのか。そんなことは、宏人は考えなかった。ただ、
――どこに行ってんだよ、カズヤのやつ。
給食を食べてから何かの用で教室を出た友人の帰還を願っただけである。
「あーあ、ヒロトは話せるヤツだと思ってたのになあ」
浅井信吾は、ため息をついた。
「期待を裏切って悪かったな」
宏人は、素っ気ない。信吾は、「計画」達成のための大事な同志であったのだが、宏人の姉に対して暴走してくれたことでもって、全く遠慮する気が失せ、すっかり彼に対しネコをかぶる気をなくしてしまっていたのだった。
まあしかし、公平に客観的に見れば、信吾はそう悪いヤツということでもなかった。姉への一件に対しても、彼の心底は見え透いたものであって、そこにドロドロとした濁ったものはない。
――それに比べると……。
「計画」の首謀者である少女の方が、よっぽど悪である。しかし、悪といえば宏人や志保に冷淡なこのクラス自体が悪なのであって、それを正そうとしている志保が悪であると言い切れるのか、と宏人は疑問に思う。なんにしても、信吾などより、志保の知恵の使い方の方がよっぽどキレているということは言える。いろんな意味で。
「また、アニメの話してるのぉ?」
間延びした話し方で話しかけてきたのは、金城明菜である。金城は、志保の話によると、この二次元の住人である信吾のことが好きだということだが、
――どうやら本当らしいな。
宏人が信吾と話していると、ちょこちょこと彼女がやってきて、長い時間いるわけではないが、少し話に混ざっていく。二次元が好きというわけでもなさそうだから、すると、宏人に気があるのでなければ、信吾に気があるということになる。大した観察眼であると、宏人は、志保に感心した。
意外なことに、金城は一人でいると、まあまあ快活で愉快な子だった。いい子であると言ってもいい。それがどうして、いじめグループに入ったりしているのか疑問だが、実はこれはおかしなことでもなんでもなく、
「大勢に従っているんでしょ」
と志保に言われて、なるほど、と宏人はすぐに納得した。クラスで平穏に生活したければ、大樹の陰に入る必要がある。少し前までは宏人自身もしていたことである。それに疑問を抱くということは、
――変わったってことだな、オレが。
ということであって、そうして、その変化は好ましいものであるように思われた。
「でも、だからといって個人の責任が無くなるわけじゃないけどね」
志保の言葉はそう続いた。
そのときの彼女の顔は平静を保っているようで、瞳に少し暗さができたように、宏人には思われた。それこそ、澱んだ暗さである。その暗さを払ってやることができたら、という気持ちが、心の奥底にあることに気がついて、宏人は、びっくりした。志保に寄せる気持ちがどんなものであるのか、宏人にははっきりとは分からないし、分からないままでいいような気がした。自分の好きなようにするだけである。志保の心にある暗闇に光を当ててやりたいと思えば、そうできるよう努めればいい。
金城が、朗らかな笑い声を上げた。
信吾が仲間に加わって、それに金城がくっついてくる形になって、宏人のパーティは4人プラス1人になった。クラス内でまとまるにはちょうどいい数と言えるが、この数を保ってひっそりとしていればいいという頭は宏人にはもうない。覚悟は決まっていた。
「倉木くん、何で話さないのぉ?」
宏人は話を振られて、内心で苦笑した。決して信吾とだけ話したくて来ているわけじゃないということをアピールしたいのか、彼女は、たまに宏人にも発言を求めてくる。その分かりやすい行動をするような心性は、信吾のそれとお似合いだろう、と宏人は意地悪い気持ちで考えたが、
「さっき散々話してたから、ちょっと休んでただけだよ」
そんなことはおくびにも出さずに答えた。
「お前、さっき全然話してなかったじゃん」
余計なことを言う信吾に、
「いや、話してたよ。お前が聞いてなかっただけだ」
はっきりと嘘を言ってやると、そうかあ、と彼は首を傾げた。
金城は、一度話を振ったのだからまた想い人に話しかける資格を得たと思ったのか、信吾と話を始めた。ひとり取り残された宏人は、
――いつ帰ってくんだよ、カズヤー。
と再び親友の帰りを強く望んだところに、折良く、彼が教室に入って来るのを見た。
宏人は、二人に断りなく、席を立った。信吾と二人きりにされた金城からは険のある目を受けていたが、宏人は気がつかなかったし、仮に気がついていたとしても、特に彼女に同情する気も無いので、何とも思わなかっただろう。
富永一哉は、クラスメートの二人の女子を引き連れているという、まことに羨ましい格好で教室に入って来た。
「何なんだよ、モテ期なのか? それとも元からか?」
女子二人と別れた一哉に近づいていった宏人がからかうと、
「職員室までプリント運ぶのを手伝ってやって、一緒に帰って来ただけだ」
一哉は、別に面白くもない顔で言った。女の子二人に囲まれて談笑しながら帰って来るなどという、学校生活上最大級の幸運を得てなお端然としているその姿はもはや人ではない。宏人は彼に向かって手を合わせた。
「なに拝んでんだよ」
「いや、別に」
「藤沢は?」
「さあ、食べたら、そそくさとどっかに行ったけど」
志保はここ数日、昼食後行くところがあるようで、教室を出て行き、お昼休み終わり間近になって、戻って来る。どこに行っているのか、説明は一言も無い。
「それこそ、男か? 好きなヤツを見に行ってるんじゃないのか」と一哉。
「そんな可愛げがあったら、今頃惚れてるね」
「だよなあ、だったら――」
一哉は、楽しそうな顔をした。男好きのするいい笑みである。女子がキャーキャー言うのも分かる気がする。
「なにか面白そうなことやってるんだな」
「そうなるだろうなあ」
「オレ、学校入ってから、今が一番楽しいわ」
一哉は唐突に言った。
「え?」
「学校に来るのが面白くなった。本音で話せるヤツができたから。それも二人もなんだからな。一人でもありがたいのに、二人いるんだから、もう奇跡と言ってもいいな」
一哉は、そう言って、白い歯を見せた。
――おいおい……。
どれだけ寂しい中学校生活を送って来たんだと思った宏人は、しかし、彼の野性味のある整った顔立ちを見て、同情するのをやめた。一哉は単に選り好みが激しかっただけであって、友達を作れなかったわけではないのだ。
「オレも嬉しいよ、カズヤと話せて」
本心である。
それを聞いた一哉は、
「そうか、そうか」
と機嫌良く言って、宏人の肩に腕を回してきた。
そうやって、男同士の友情が確かめられているところに、
「わたしも話に混ぜてくれないかな」
ちょこなんと現れたのが、二瓶瑛子である。
宏人は、心にさざ波が立つのを覚えた。瑛子とはちょっとうまくない。と言っても彼女が含みを持っているということではなく、宏人が、例の遊園地の一件から、なんとなく敬遠しているのである。
一哉は、美少女にも容赦ない。
「二人で話してる。邪魔だから、回れ右しろ」
こういうところには本当に感心せざるを得ない宏人である。女子に対してこんな口を利ける男子を宏人は知らない。
しかし、瑛子はさらに上手のようだった。
一哉の対応にびっくりした様子でもなく平然と、
「じゃあ、余計な口出しはしないから。ただ聴いてるだけにする」
そう言って、口に架空のチャックをする振りをする。それから宏人にニッコリと微笑みかけた。かつて憧れていた女の子に微笑まれては、どぎまぎせずにはいられない。宏人は、一哉と目を合わせた。
一哉は、ニヤリとすると、
「男二人でエロい話とかしだしたらどうする? それでも黙って聞いてるのか?」
からかうような口調で言った。
瑛子は、わっと軽く驚いたような顔をしてから、しかし、
「じっと耐える。わたし、耐える子だから」
言った。
「耐える? なにに?」
一哉が訊くと、
「わたしは聴き手だよ。チャックしてます」
そう言って、瑛子は、また微笑んだ。その微笑みに影はなく、とても何かに耐えているようには見えなかった。
瑛子の前でも、一哉は特に気にもせず、話をしていたが、女子がそばにいるところで、なかなか話をする気になれない宏人は、回答をぎこちないものにした。この点、そばにいるのが志保だったら遠慮なく何でも話せるのに、と思うのは、彼女が単に計画の同志であるからというだけではないような気がした。
少しして、
「エーコ」
ちょっと離れたところから名前が呼ばれて振り向いた瑛子は、じゃあね、と言って、離れた。宏人は、ホッと一息ついた。
一哉は、ちょいちょいっと耳を貸せというような仕草をすると、
「お前、二瓶に気があんの?」
応じた宏人の耳にささやいた。
宏人はドキリとした。
何とも答えようの無いところである。
そういう自分はどうなんだよ、と言う宏人に、一哉は、
「気は無いけど、気にはなる」
と不思議な言い方をした。
「このクラスの中で、あいつだけが分かりにくい」
宏人にしてみれば、誰のことも何も全く分からない。
一哉は笑った。
「お前らと話すようになるまで暇だったから、このクラスのこと観察してたんだよ。その中で何とも判断がつかないやつなんだよな、あいつ。ちなみに、そのときは、宏人のことを、誰にでも話を合わせる八方美人、藤沢のことは他人を拒絶する人間だって思ってた」
志保のことはともかくとして、自分のことは当たっていると宏人は思った。
「でも、まあ、どっちもそうじゃなかったわけで、オレの観察眼はそんな程度のもんだってことだな」
「ちなみにオレはカズヤのことを不良だと思ってた」
「おい、なんでだよ」
「雰囲気がさ」
一哉は憤慨する振りをしたが、すぐにそれをさらりと流す格好で、
「ま、仕方ない。確かにそんな風に見えるかもな」
と自分を客観視する冷静さを見せた。
その視線が、宏人から外れたところで、
「お、大将が戻って来たぞ」
と、一哉は言った。
宏人が振り返ると、確かに志保が戸から入って来るのが見えた。
――げ……。
その後ろに我が姉の姿を認めたとき、宏人は、理由は分からないし分かりたくもないが、とりあえず志保がこの昼休みの間どこに行っていたのかは理解した。