第130話:雨下二人の少女の寡黙
虫の声が落ちて、代わりに雨の音が聞こえてきた。
由希は、窓外の景色に目を投じた。
窓枠によって切り取られた外界は、昼間であるにも関わらず、まるで夜のような色である。
「いいですよ、このままで」
由希は、雨を見ながら、口を開いた。
部屋の主である少女が、室内の電気をつけようと立ち上がったのを止めたのである。夜と違って真っ暗になるというわけではないし、
「風情があるじゃないですか」
なんてことを言ってみたりした。
由希は自分がついている脚の短いテーブルの前に、少女が再びゆるやかに座るのを横目で見た。戸外の暗さが浸みこんで来た室内にあっても、彼女の身はまるで自ら発光しているかのように明らかである。その美しさ。
――違うな……。
由希は、内心で首を横に振った。
ルックスがどうこういうのではなくて、問題なのは彼女のその中身、精神の清々とした在りようが、内から外貌に光輝を与えているのだろう。もちろん、外見も美しいが、顔が綺麗な子ならいくらでもいて、事実、由希の学校にも美形はいるが、そのような子と彼女が一線を画すのは、内面の質が格段に違うからである。
どう違うのかということは、はっきりとは言えない。しかし、違っているということは、はっきりと分かる。そして、面白いことに、以前会ったときと今とでは、彼女の性質に異なったものが感じられた。
――温かさがある。
以前に感じたのは、限りない奥行きとでも言うべきもので、そこには温度を感じなかった。この前と今の短い間に何かあったのだろうか。しかし、それを訊くことは憚られた。知り合って間もないから、ではない。由希は、彼女のことを友人だと認めた。向こうはこちらをどう思ったかどうか知らないけれど、それは由希にとっては問題ではない。友人には根掘り葉掘り訊かないもの。本当は、そういうものなのかどうか、由希は知らない。これまで、友人と呼んでよい人を、本当の意味で持ったことが無かったからだ。ちょっと遊びに行ったり、話したりするような子はいくらでもいる。しかし、それは友ではない。
「アンに対するダイアナのような友達がずっと欲しかったんです」
由希が窓外に向けていた視線を少女へと向けて言うと、
「腹心の友、ですね」
返って来た声に、澄んだ響きがある。
はい、と我が意を得た由希は、
「タマキさんにはどのくらいダイアナがいるんですか?」
訊くと、
「幸運なことに、片手に余るほどいます」
向かいの少女は、微笑して答えた。
「え、そんなに?」
「はい」
「……こっちに引っ越したくなってきました」
「家に使える部屋が無いかどうか、母に訊いてみます」
「ええっ!」
由希は、驚いた声を上げた。彼女があんまり真面目な顔で言うので、本気かと、そんなわけ万に一つもないのに思ってしまった由希は、目の前の相手をじっと見つめた。
環は微笑したまま、由希の視線を窓外に誘った。
再び、由希は窓の外を見た。
暗い空から雨が降り注いでいる。
朝、公園で合流してから、街を見て回ってウインドウショッピングをしたあと、外でお昼を食べて、ご自宅にお呼ばれしたのだった。
楽しい時間だった。
環には、自己主張が無い。自分の意見を押し付けようとする強さを持たないのである。それが由希には心地よい。彼女のクラスメートたちは、みな、
「ねえ、聞いてよ!」
と、事実であれ、主張であれ、自分が言っていることを他人に受け入れさせようとする意志を持っている。そういう心の張りが、環には無いように、由希には思われた。もちろん、本格的なフェイストゥフェイスは今回が初めてなので、もしかしたら付き合うにつれて、彼女の押しが見えてくるのかもしれないが、
――多分、無いな。
と思うのは、由希の受けた印象というよりは、そうあってもらいたいという願望であるのかもしれない。由希がこれまでの人生で出会った中で破格の人は、従兄ただ一人だった。それが二人になったのである。せっかく二人になったのなら、二人のままでいてもらいたい。
それが二人どころか、三人にも四人にも、いやもっと増えるのならば、どんなにか面白い世界だろう、と由希は思ったのだった。それで、引っ越してきたいと言ったわけであり、しかし、そんなことは天地が引っくり返ってもあり得ないのだから、
「タマキさんと知り合えただけで満足することにします」
と言うほかない。
由希は、環の視線を受けた。
「ありがとう」
環の声は、雨音に吸い込まれない。
由希は、悪ノリしてみた。「何に対しての感謝なんですか?」
環は一考する振りをした。
「ユキちゃんと巡り合わせてくれたこの天に対して、というのはどう?」
「その天は涙していますよ」
「当然ですね。感動しているのだから」
「わたしたち、天を震わせたわけですか?」
さも驚いた風を装うと、環は笑みをふわりと広げて、
「地も震わせたみたいね」
謎のようなことを言ったが、その謎はすぐに解けた。
廊下から足音が聞こえてきた。
「地が震えるにしては可愛らしい音ですね」
由希が言うとすぐに、がちゃり、といきなりドアが開いて、小さな女の子の顔が覗いた。
「アサちゃん」
環は、小学一年生の妹に、凛とした声を出した。
旭は、はっと何かに気がついたかのような顔をして、室内に入る代わりに戸を閉めると、礼儀正しいノックの音を響かせた。
由希は微笑んだ。姉の言うことを素直に聞く様が愛らしい。
「年の離れた妹っていいですね」
そうでしょ、と応じた環は、
「どうぞ」
戸に向かって、柔らかな声を投げた。
再びドアを開いた旭が、その花顔をしかつめらしいものにして、ペコリと小さな頭を下げてから、
「お茶のお代わりはいかがですか、とお母さん……母が……えーと、も、申しもうし………言ってます!」
つっかえつっかえ口上を述べた。
環は由希と顔を見合わせて笑うと、すらりと立ち上がって、
「わたしが帰って来るまで、お客様のお相手をなさい」
と旭に言った。旭は、姉の命令口調が珍しかったのだろう、ちょっと戸惑ったような顔をしたが、健気に、はい、とうなずいた。
室内から光輝を帯びた子が消えて、代わりに香気を纏わせた子が現れた。
「おいで、小姫ちゃん」
由希は、両手を広げて、旭を迎え入れようとしたが、少女は、え、と立ち止まったままである。それから、おそるおそる近づいてくると、
「今日はレイは来ないんでしょ?」
言って、つまらなそうな顔をした。
「小姫ちゃんは、レイのこと好きなんだねー」
「うん! 大好き!」
「どんなところが?」
「わたしのこと、子ども扱いしないとこ!」
旭は、大きな瞳をキラキラと輝かせながら言った。
なるほど、確かに従兄は、どんな人に対しても丁重に対応する。年が下だからということでもって、その人のことを侮ったりはしない。
「赤ちゃん言葉、キライ!」
旭はいきなり感情を爆発させたような声を出した。
「赤ちゃん言葉ね。確かに、ムカつ……失礼だよね、うん」
由希は、言葉を選んで、同意を示した。
旭は、中々話せる人だ、と言わんばかりの満足した笑みを浮かべた。
雨の音が強くなってきたようである。
「いじょうのちょうう、けいじんをうるおす」
そう言って、得意そうな顔をする少女に、由希は、
「客舎青青柳色新たなり」
おとなげなく応じてみた。
つまらなそうに口を尖らせるようにした旭に、
「誰に習ったの、小姫ちゃん」
まさか小学校では漢詩は習わないだろうから訊いてみると、姉からであるとのこと。将来を考えて今のうちから漢詩の暗唱をさせているとは、さすがである。それを見習って由希は、一人いる弟に、何かを暗唱させることに決めた。
「でも、小姫ちゃん。この歌は朝の歌だし、別れの歌だから、今歌うのはあんまり良くないと思うな」
むっ、と旭はますます可愛い顔を曇らせるようにした。
由希が言う。
「わたしもレイと一緒で子ども扱いはしないようにするよ、小姫ちゃんのこと」
「そういうんじゃないの!」
「そういうんじゃないのか」
由希は、笑った。
旭は、うーん、と視線を宙に漂わせて、何かを思い出しているような表情を作ったあと、
「はなのいろはうつりにけりないたづらにわがみよにふるながめせしまに」
幼い声を張った。
平安時代の歌詠みの上手、小野小町の和歌である。この家では、漢詩だけでなく和歌まで、幼いころから暗唱させるのかと、その典雅な趣に一瞬気おされた由希だったが、よくよく考えたら、自分も祖父から同様のことを施されていたということを思い出して、
「色がうつるも何も、小姫ちゃんは、まだ蕾でしょ」
目前の少女に親近感を抱き、その桜色のほっぺたをぷにぷにとつついた。
「なんでつつくの!」一歩引く旭。
「そこにほっぺたがあるからだよ」
「イミわかんない!」
「お姉ちゃんに教えてもらいなさい」
その姉が、お盆に新しいポットとカップを載せて、帰って来た。
「お客様を退屈させなかった?」
環が言うと、旭は、うん、と大真面目にうなずいた。
「ありがとう、アサちゃん」
「ここにいてもいい?」
旭は、我が姉を見上げるようにして言ったあと、抜かりなく由希の方を見た。
由希は、もちろんだよ、と旭を見ながら、環に聞こえるように言った。
環は苦笑したようである。
テーブルに広げられた新しいお茶のセットが、かちゃかちゃと楽しげな音を出す。
「レイがわたしにプレゼントしてくれるんだ」
テーブルの前にちょこんと腰を下ろした旭は誇らしげに言った。
「それでわたしへの愛を量るの!」
そう言って、旭は、器からクッキーを一枚取り出して口に入れた。
由希は、意味ありげに環を見た。
環はゆるやかに首を振った。「わたしではないです」
「じゃあ、誰が教えたんですか?」
「さあ、多分、母じゃないかな」
由希は、幸せそうな顔をしている少女に向かって、
「家族の中で誰のことが一番好き?」
訊いてみると、
「みんな好きだけど、タマキお姉ちゃんが大好き!」
即答が返ってきた。
由希は、再び環を見た。
「姉思いの妹なんです」
「なるほど」
「お姉ちゃん、わたしもレモンティ飲みたい!」
声を上げた妹に、カップを持っていらっしゃい、と姉は答えた。
「はーい」
旭は素直な返事をすると、ピューッと部屋を出て行った。
由希は、楽しくて仕方がない。
今日という日が自身にとってどのくらいの価値を持つか、とふとそんなことを考えて、そうして自分の合理を、というかむしろ功利を笑った。
その笑みをいちいち見咎めない目前の佳人は、こちらに興味が無いのか、それともこちらの気持ちが分かっているのか、おそらくは後者なのだろうと、由希は思った。
――底知れない人だなあ……。
従兄が相手を包み込むような人だとしたら、環は無限の広がりに漂わせるような人だということができる。その広がりに自由を感じられないと、彼女の友人にはなれない。つまり、環の友達になるためには、自立の強さがいるということである。
誰かに依存したことがない由希にはかえって、自立するということがどういうことかよく分からなかったが、それはおそらくは、人が一人では生きられないということを自覚しながらも、それでもなお人が本質的には孤独な存在であるという認識から始めて、その認識を真正面から受け止めて生きる人のことを言うのではないか、と推測した。
大変な人を恋人に持ったなあ、と由希は、従兄に初めて同情した。とはいえ、従兄は、この大変な人に対するに、全くの自然体……自然体というか、その大変さにそもそも気がついていない風なのだから、ただ鈍い人でないとしたら、彼自身も大変な変人である。
「現実的なロマンチスト」
唄うように環が言った。
虚をつかれた由希は、環の口元に微笑を見た。
「昔、ダイアナにそんな風に評されたんです。どういう意味だと思います?」
由希は、試されているのを感じた。少し考えるために間を取ってから、
「今ある現実の中で夢をかなえようとする人、という意味じゃないですか?」
と答えた。
答えてしまってから、自分のその答えのあまりの平凡さに、顔をしかめた。
環は、なるほど、と首をゆるやかにうなずかせたが、同意も反対もしなかった。
しばらくもしないうちに、にぎやかな足音がして、旭が帰ってきた。
雨脚は更に強くなったようである。