第13話:たまには手を引かれて歩くのも良い
翌朝、約束通り、怜は鈴音の家の前に彼女を迎えに来た。制服を身につけて玄関から外に現れた彼女はどこか居心地が悪そうにしていた。久しぶりの制服に戸惑っているように見える。
「おはよう、加藤くん」
声は平静だったが、顔には不安な色を見せる少女に、
「よく似合ってる」
と怜が言うと、鈴音は瞳を大きくした。
「似合ってる?」
それは褒め言葉などではない。発奮の言葉である。鈴音はその言葉を受け止めた。軽く目を瞑ったあとその目を開くと、意を決したように歩き出した。怜がそのあとに続く。鈴音の母は心配そうな顔で怜に、娘をお願いします、と声をかけた。
初夏の爽快な日だった。
鈴音の気分は爽快とは言えない。決意して歩き出しはしたものの、胸に溜まるもので気持ちが悪く、それにつれてどうしても歩みが遅くなる。止まらないでいられるのは、斜め前を歩く男の子のおかげだった。
通学路にちらほらと他の生徒の影が見え始めたとき、
「笑わないで聞いてくれる?」
鈴音が怜の横に並んだ。
「わたしのことを見てるような気がするんだけど」
ハーフアップにした頭を動かし、落ち着かなげに周囲に視線を走らせる。男女一組で登校してれば何かと目立つものであるが、そういうことを言っているのではない。彼女にナルシシスト的なところがあるわけでもない。怜は鈴音の方を見ないままで、
「その通りだろ。みんな見てるよ、スズを」
平然と言った。少女の細い肩が震えた。
「……何で見てるの? どっかおかしいのかな、わたし?」
「いや、逆だろ」
「逆?」
鈴音が訝しげに見た少年の横顔が彼女の方を向いた。
「スズが可愛いから見てるんじゃないかな」
鈴音は小さく息をついた。ふっと少し体が軽くなったような気がした。和らいだのが自分でも分かる瞳を怜に向けて言う。
「あなた、タマちゃんに似てる」
「オレが?」
とてもそうは思えないな、と怜は続けた。
「今日だって迎えに来てくれたでしょ」
と鈴音。
「昨日約束したからな」
「その約束をすること自体がね」
「環はオレなんかとは違うだろ、強いし、賢明だし、クールだ」
「そうでもないわ。今日のこと話した?」
「ああ」
「タマちゃん、何て?」
「何も」
「どう思う?」
「どうも思ってないんじゃないかって思ってる」
「本気? カレシが他の女の子と登校するのに何も思わないって?」
「スズは環の友だちだろ?」
「じゃあ、タマちゃんが加藤くんの友だちと登校しても、加藤くんは何にも感じないの?」
「考えたことないな」
「じゃ、考えてみて」
「……そういうことになってみないと、分からないな、やっぱり」
「鈍感」
「よく言われる。いまだに環がオレのどこがいいのか分からない」
「そんなこと言う男の子って惹かれないな」
「だからますます分からない。今度、スズから訊いておいてもらえないか、環に」
「わたしが?」
「女同士、そういう話で盛り上がるんだろ?」
「まあ、確かにね」
「スズは誰か好きな奴とか?」
「それ聞いてどうするの?」
「興味本位」
「興味?」
「そういうことに興味のある年頃なんだ、いるの?」
「あのね、そういうことを女の子に訊いていいのは、その子に気があるときだけよ」
「昨日告白しただろ」
「ウソのね」
「だとしても、かなり緊張した」
「緊張することあるの、加藤くん?」
「緊張しかしたことない」
「どういう人よ、それ」
思わず笑ってしまった鈴音の足がふと止まった。怜ととりとめのない話をしている間に、調子よく歩は進み、いつの間にか校門が見えるところまできていた。鈴音は、はっと何かに気がついたような顔を作ると、じろりと怜を軽く睨むようにした。
「わざとね?」
怜が答えないことで、鈴音は確信した。怜の軽口は、彼の気質から来る自然なものではなく、しっかりとした目的を持った意図的なものだったのである。ここまで歩いてくるのにさしたる困難を感じなかったのは、彼が注意を目的地から逸らしてくれたおかげだった。
「やっぱり、あなた、タマちゃんに似てるわ」
そう言って鈴音は歩き出したが、校門の前で再び立ち止まった。少女の整った眉が寄った。視界に映った校舎に胸が締め付けられ、それに耐えるように学生鞄を持つ手に力が込められる。たたずむ鈴音の横を、学生服姿の同年代の少年少女が通り過ぎている。どうしてもそれ以上足が前に進まなかった。まるで地に取られているかのように足が重たく感じる。周囲の生徒たちが不思議そうな目で彼女を見ていた。その視線も鈴音には自分を嘲笑っているように感じられていた。勇気のない自分をバカにしている。恐怖に囚われている自分を蔑んでいる。
「スズ」
自分を呼ぶ声がする。どこか遠くから聞こえてくるようなその声の方に目を向けると、少し離れたところに手が差し出されていた。一歩、ほんの一歩だけ歩み出せば、その手を取ることができる。鈴音の足が一歩地を踏みしめ、彼女の手が差し出されていた手を握った。温かい手だった。その手の温かさに心まで温まるような気がした。
「……自分が情けないわ」
下を向いた鈴音の顔を上げさせたのは、平板な調子の声だった。
「一歩目は自分で踏み出したことに変わりないだろ。あとは、たまには手を引かれて歩くのもいいさ」
怜の顔は平静なものだった。そこには慰めも励ましもないように見えた。ないように見せているのがこの少年の優しさだと鈴音は見ていた。彼にはそういう気はないのかもしれないが、それは鈴音とは関係ない。握っている手にぎゅっと力を込めると、
「一つ借りとくわ、加藤くん」
そう言って鈴音は手を離し、生徒用玄関に向かって歩き出した。
鈴音は職員室に向かうと担任教師に挨拶した。担任は大げさな喜びを見せた。鈴音の母から連絡を受けていたが、本当に来られるかどうかは半信半疑だったのだ。職員室を辞すと、怜を横にして鈴音は、三年六組の教室に向かった。
教室の前で立ち止まることはなかった。鈴音はすっとドアをくぐると、ドア近くにいたクラスメートに挨拶した。クラスメートがきょとんとした顔をしているのに構わず、怜に教えてもらった自分の席につく。鈴音を見ながらひそひそとした囁き声が流れてきたが、彼女はそれを聞き流した。朝の授業前の時間に、鈴音に発言の機会が与えられた。鈴音は席から立ち上がると、昨日の励ましの手紙で学校に来たい気持ちになりそれを皆に感謝している旨を述べた。着席すると、拍手の音が聞こえてきた。その音につられるようにして、教室中から拍手が起こった。鈴音には誰が最初に拍手をしてくれたか分かっていた。
一日はまたたくまに終わった。
鈴音が教室を出ると、後ろから彼女を呼び止める声がする。
「帰りはいいわよ、加藤くん。一人で帰るわ」
追いかけてきた影にはっきりと言ったが、
「そういうわけにはいかない。スズのお母さんから頼まれてる」
と答えた怜がさっさと歩き出す。仕方ない振りで、鈴音がその横に並ぶ。
校門で怜はふと立ち止まって、そこにある幾つかの人影を確かめた。もしかしたら環がいるかもしれないと思ったが、彼女の姿はなかった。まだ来ていないのか、それとも一緒に帰る気がなくて先に帰ったか。後者のような気がした。
鈴音の家の前まで来ると、彼女の母親が落ち着かなげにうろうろとしているのが見えた。久しぶりに学校に行った娘のことを心配していたのだ。こちらの姿を認めると、安心したような顔をした。
「どうだった?」
母親の探るような問いに、
「まあまあ」
と鈴音は簡単に答えた。怜は、鈴音の母から、今日の礼を言われ、家に寄って行くように言われた。礼は丁重に受け、家への誘いは丁寧に断った。そのあと、鈴音に、
「明日も同じ時間でいいの?」
と声をかけた。
「加藤くん……」
続けようとした鈴音の言葉を怜は遮った。
「中高生カップルの基本なんだろ、一緒の登下校は」
鈴音は、しばしのためらいを見せたあと、うなずいた。
怜は自分が意外にお節介であるということに新鮮な驚きを覚えていた。いつから、そんな風な気の遣いかたをするようになったのか。頭に一人の少女の顔が思い浮かんだ。多分、彼女のせいだろう。
鈴音との登下校が一週間続いたある日の昼休み時間のことだった。
怜は他のクラスからの訪問を受けた。
「倉木だと思ってたんだけどな」
と言った怜の前に、エッジの効いたショートカットの良く似合うボーイッシュな少女が立っていた。