第129話:雨中問答の少女二人
薄布のカーテンがひらり、軽やかに翻った。ほんの少し開いた窓の隙間から、生ぬるい風が吹き込んだのである。その風は、カーテンを躍らせたあと、窓辺に座っている少女の前髪をもてあそんだ。
少女は、風のたわむれに反応を見せず、もう一つある別の窓から窓外の景色を楽しんでいた。晴れ渡っていた空がにわかに曇り出したのは、少し前のことである。ぽつりぽつりと、いつ雨が降り出してもいいような空の暗さに、彼女は、ふと傘の心配をしてみた。ここは彼女の家ではない。
「空に帰りたいの? マドカちゃん」
この部屋の主である橋田鈴音の声がすぐ近くから聞こえてきて、円は、ドキリとした。
「……今、何て言ったんですか?」
よく聞こえなかった。
「空に帰りたいのかなって。空を見てたからさ」
鈴音は、いたずらっぽい笑みを浮かべると、手に持っていた盆を、円がついていたテーブルの上に置いた。お盆の中には、ふっくらとした白磁のティポットと、優美な持ち手のついたティカップ、それに、一口サイズのチョコレートが山盛りになって載った薄いお皿が、窮屈そうに並んでいた。
「わたし、空から来たんですか?」
円は、対面に座る鈴音に向かって、さも驚いたというような口調で訊いてみた。
「天使みたいに可愛いからね」
鈴音の答えは、からかいを含んでいる。
円は、内心で苦笑した。
もしも自分が天使であれば、鈴音は女神か何かに違いない。それほどの光輝がある。
橋田鈴音は姉の友人である。ただの友人ではなく、親友だった。「親友」などという言葉は、中学一年生にもなればそうそう恥ずかしくて使えない類のものであり、事実自分に関しては現在使用を差し止めている言葉だが、姉に対する鈴音に使うには、問題の無い言葉だった。それだけの確かさが、二人の絆にはある。
ほっそりとした鈴音の手が、ティポットの持ち手にかかる。
カップに琥珀色の液体が注ぎ込まれ、ふんわりと芳しい香が立ち昇った。
「茶葉の種類は、お母さんしか知らないの」
鈴音が言う。
召し上がれ、という声に応じて、カップから一口含むと、優しい味がした。円は紅茶には詳しくない。
「熱っ」
鈴音が、ペロッと舌を出す。
「気を付けてください」
「はーい、お母さん」
円はカップをソーサーに置いた。「わたしって所帯じみてますか?」
鈴音は笑った。
「今のは冗談だよ、マドカちゃん」
「それは分かってます」
「じゃあ、どうして? 誰かにそんなこと言われたの?」
「いいえ。今、唐突に思ったんです」
鈴音は唇を柔らかく結んで、じっと円を見つめた。その目には真剣な色がある。
「マドカちゃんは、ずっと可憐なままだと思う。どんなに年を取っても」
「……微妙に答えになっていませんけど」
「そうかな。うん、そうかもね」
そう言って鈴音は笑った。円は、釈然としない気持ちではあるけれど、心にふわりと軽みを覚えた。鈴音といると、なぜだか気持ちが軽くなる。家族といてもこんな気持ちにはならないのだから、不思議だった。鈴音といると、全てをありのまま肯定してもらえるような、そう、まるで、祖母といるときのような心持ちになるのだった。
「え? おばあちゃん?」
「はい」円は澄ました顔で、また紅茶をすすった。
鈴音は少し口を尖らせる振りをした。
「せめて、それこそ、お母さんくらいがいいんだけど」
「でも、お母さんといてもここまで落ち着きませんもん」
「じゃあ、お姉ちゃんとかさ」
まして、それこそである。姉と一緒にいるときなど、年の離れた妹と一緒にいるときと同様、いやそれ以上に落ち着かない。
その姉が先ごろ懇意になった友人を家に呼ぶということで、まあだからといって外に出なければいけないわけでもないのだが、自分とは無関係に立つ笑声のそのそばにいるのもなんだからということでお邪魔させてもらったのが、鈴音の家だったというわけである。鈴音とは、彼女が姉と友情を結んで以来、仲良くさせてもらっていたが、事情があって、随分と交際を断っていた。その事情が解消されて、同じ部に入ったこともあって旧交を温め直した結果の一つが、本日のご自宅へのお邪魔となったわけである。
「タマちゃんを恨んでいるの?」
鈴音はいきなり言った。
虚をつかれた円は、持っていたカップを取り落としそうになった。
「なんだかそんな風に見えるからさ」
「そんなこと――」
否定しようとした言葉は、舌先で止まった。肯定したい気持ちがあったわけではなく、姉に対する感情がどのようなものなのか、円にはつかみかねていたからだ。ただ、姉といると心に障る。それは確かである。嫌っているわけではない。しかし、純粋に好意を寄せることはできない。できなくなった。
「降ってきたね」
その声に、円が外を見ると、曇り空が黒さを増していた。
雨が地に落ちる音が柔らかく響き、窓から忍び込んで来た空気が少し冷たさを帯びる。
しばらく二人は無言だった。
無言でいることが、何らの苦にならない。もしも恋をするのなら、そういう時間を作ってくれる人を好きになりたい、と円は、なぜか唐突に思った。雨は人をロマンチックにするのだろうか。
「タマちゃんは、ただタマちゃんだっただけだよ。マドカちゃんがただマドカちゃんだったように。納得はできなくてもいいけれど、今わたしが言ったことは覚えておいてね」
その声には自分の意見を押し付けようとするような強さは全く無くて、ただ相手のことを思いやる気持ちに溢れていた。その言葉は、厳しい真実なのか、それとも、信じ込むことができれば楽になる嘘なのだろうか。今の円には分からなかった。
「……いつか分かるようになるんでしょうか」
「いつかにしか分かるようにならないと思う」
そのいつかが例え明日のことであったとしても、円にはそれが無限の遠さに思われるのだ。
「加藤先輩もそんなことを言ってました」
「加藤くん?」
「はい」
「加藤くんは、マドカちゃんのこと可愛いと思ってるってこと知ってた?」
「え? それ、どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味だよ。失礼だよね、わたしのことは全然そんな風に思ってくれないし。まあ、わたしはただの友達だからそれはいいんだけど、多分、お姉さんのことも可愛いとは思ってないよ、あの人は」
「……『可愛い』じゃなくて、『綺麗だ』とは思ってるんじゃないですか?」
「お、一本取られた」
「何本取ったら勝ちになるんです?」
「人生は常に一本勝負だよ。さ、勝者のスイーツを召し上がれ」
円は、チョコレートを食べた。
姉のカレシのことを考えると、どうにもムッとするものを覚える円は、彼に対して個人的な恨みはないのだけれど、何だろうか、どうしてか感情の波を立たされてしまうのである。
「可愛い顔が台無しになってるよ」
「本当に可愛い人なら、どんな顔してても可愛いはずです。『ひそみに倣う』っていう言葉があります」
「そんな難しい言葉よく知ってるね」
「部長に教えてもらいました」
「なるほど。もう一本取られたかな」
さあ、と向けられた手に従って、円は、またチョコを食べた。サイズは一口でも、美味しさは抜群である。
雨脚が強くなってきたようだ。
雨の音は、何の調べだったかなあ、と考えながら、円はうっとりとした気持ちになった。
話し相手が前にいるわけだけれど、話さなくてはいけないと思わせない人である。
「どういう風に生きていくのが正しいんでしょうか」
円はいきなり言った。
さっきのお返し……という気持ちはなかったと思う。
「今日が最後の一日だと思ったら何をするか、そういうことを考えて生きているといった偉人がいたよ」
円は少し考えてみた。
それは、かなり窮屈な生き方になるのではないかと思った。明日が来ないと思って生きるなんて。
「鈴音さんは迷いとか無いんですか?」
「この前まで不登校だったんだよ、わたし」
そんな遁辞にだまされない程度には、円は大人だった。そう、大人。小学校から中学に上がって、その数カ月間で、かなり成長したと円は自分でも思う。いろんなことが分かって、いろんなことが分からないということが分かった。
「でも、不登校を選んだのは鈴音さんなんでしょう?」
うっ、と痛いところをつかれたような顔をした鈴音だったが、すぐにそれは微笑みに変わった。
「生き方を示すために、お母さんやお姉さんがいるんだと思うけど」
「そうかもしれませんけど」
「わたしは、夢を見たいと願っているリアリストだって、言われたことがあるわ」
「夢を見たいと願っているリアリスト?」
「そう」
「どういう意味ですか?」
「さあ、どうだろう」
鈴音は、椅子の上で、おしりを少しずらすようにした。
「加藤先輩とか姉とか、全然迷わないで生きているように見えるんです」
「迷うことより、迷わないことの方がいいって誰が言ったの?」
「え……だって、迷うっていうこと自体が悪い意味じゃないですか」
「おっと、また一本だな。何だかマドカちゃんのお姉さんと話しているような気分になってきたぞ」
鈴音の勧めに従って、円は、またチョコを食べた。
「多分、お母さんがおみやげも用意すると思うから、アサちゃんにもあげて」
「妹が喜びます」
鈴音は続けた。
「本当はね、誰も生きることについて偉そうなことは言えないんだよ。だって、誰だって生きている途中なんだから」
「……わたしって我がままですか?」
「だから可愛いんだと思う」
鈴音に言われると、腹も立たない。
「マドカちゃんはね、大丈夫、マドカちゃんであることをやめられないんだよ。誰の真似もできないし、誰と比較することもできないの」
「世界に一つだけの花ですか?」
「そうともいえるし、そうじゃないともいえるな。ただ、その人であるだけで価値があるなんていうのは、妄想だと思う。だってさ、それが証拠に、尊敬できる人もいれば、できない人もいるでしょう? お花屋さんの花を全部綺麗だと思うことはできても、人は花じゃないから、人をみんな綺麗だと思うことはできないわ。それは厳しいことだろうけど、真実なの。もっとも、真実よりもウソの方が好きだっていう人もいるだろうけど」
「善なる嘘……」
「うん?」
「加藤先輩がそんなことを言ってた気がします」
いつかの部活動の時に聞いたような気がする。
「自分であることをやめられないということと、自分であるということだけで価値があるということは、全然違うこと。もちろん、この世界には、それが幸運にも合わさっている人はいると思うけどね」
「それは、姉……ですか?」
そうして、目前の麗人でもあるのだろう。
鈴音は笑った。しかし、何も答えなかった。
窓に雨滴がついて、打ちつけるようになっている。
もう少し窓を開けておきたかったが、室内に吹きかけてくることを怖れた円は、窓を閉めた。
――世界はなんて美しいんだろう……。
「……また来てもいいですか?」
円が言うと、鈴音は、いつでもいらっしゃい、と微笑んだ。
その微笑みの美しさ。
そういう微笑を浮かべられるようになりたいと、円は思った。
――あと二年経てば……。
円は、小さく首を横に振った。
――違う、今すぐなんだ。
あといくらか経てば、という考え方をしていたら、いつまでもできないに違いない。
円は微笑んでみた。
そうして言った。
「どうでしょうか? ちょっとは、『可愛い』から『綺麗』になりましたか?」
「うん」
鈴音の声は柔らかい。
円が帰るまで、雨はしとしとと降り続けていた。