第128話:濃緑の公園、そよ風の再会
しばらく裏道を歩いた怜は、大通りから流れて来る喧騒を聞き流しながら、ため息をついた。
暑い。
空からの日の光とアスファルトからの照り返しにサンドイッチされて、身が焦がされるようである。どうやらそぞろ歩くにはあまりふさわしい日では無かったようだと、今さら気がついた怜は、自分の鈍感さの代償に汗を支払う破目になった。カノジョと従妹は今頃どうしているのか。おそらくは、涼しいところで談笑しながら優雅にお茶でもしているのだろう。一瞬、そっちに加われば良かったかと思ったその気まぐれな思いはすぐに消えた。そちらに加われば、別の嫌な汗をかくに決まっているからである。
濃緑の公園は、夏の日の下に艶美に輝いており、しかし、いや、だからこそと言うべきか、人の影は少なかった。ひとり、ふたり、日傘を差して歩く淑女の姿がほの見えるくらいのものである。
怜は、暑さにあえぎながらも、園内の桜の美しさに感嘆した。緑の葉が、日の光を受けて、燦々ときらめいている。人が桜を観るのは、花をつける付近のことだけかもしれないが、今のように緑の葉を茂らせるときも見事だし、紅葉も美しい。さらには、葉を落として、雪花を咲かせるときも趣がある。古人は、花は盛りだけを見るものではない、と言った。それは、盛りではない時に盛りの時を思うことにも趣があるということだろうが、盛りではないときには盛りではないときそれ自体の美しさがあるということを彼は知っていただろうか。
園内を通り抜けて門から外に出ると、移動屋台の小さなワゴンがあって、メロンパンを売っていた。この暑い中、もっさもさしたビスケット生地パンを好んで食べる人がいるのだろうか、と思うのはその店のパンを食べたことがない知らざる者の浅はかさで、食べてみれば真夏の暑さなど感じなくなるほどうまいことが分かって納得するはずである。
焼いたパンの匂いをかぎながら近寄っていくと、ちょうど客が切れたところに、
「いらっしゃいませ」
売り子――というよりオーナーと言うべきか――のお姉さんの笑顔が咲いた。
怜は、中にドライフルーツが入ったメロンパンと、ビスケット生地にチョコチップがちりばめられたメロンパンを一つずつ買った。
「今日は暑いですね」
なんてことをいうお姉さんは涼しげな顔をしている。
会員カードを渡してそれに割引ポイントがたまるスタンプを押してもらうと、メロンパンを受け取った怜は、もう一度園内に足を踏み入れた。地熱にゆらめくようになっている公園には、そよと吹く風もない。怜は、緑の桜の木陰にある一基のベンチに腰をおろした。木が影を作っているだけでも大分温度が違うようで、涼しさを覚える。怜は、ショルダーバッグを脇に置くと、その中から小さな水筒を取り出して、キャップをコップにして一口飲んだ。甘酸っぱい味がする。果実酢を水で割ったものである。何の果実なのかは、詰めてくれた母しか知らない。
メロンパンをもぐもぐやりながら、公園の夏の午後に目を向けていると、気持ちがふわりと軽くなっていくのを覚えた。人といるより一人の方が好きというわけでもないが、一人には一人の独特の良さがある。この良さは、付き合う女の子ができても変わらない。できたからこそ変わらない、とは思わないところに怜の善さがある。
メロンパンを二つ美味しくいただいて満腹になった怜は、ハンカチで口元を拭ったあと、ベンチに座ったまま足を投げ出すようにして、両手を上に伸ばした。幸せである。公園のベンチで一人メロンパンを食べることで幸福を感じられるのだから、随分と安上がりな人間である。怜は自分を笑った。しかし、その笑いは、からりと乾いている。
まるで、梢を揺らす微風のようなさりげなさで隣に座った人がいて、見ると知り合いだった。
「……タクミ」
唐突に出現した少年に大して驚いてもいない怜は、彼が人の時間をできるだけ邪魔しないように配慮することができる美質を備えているということを知っていた。同学年であり、一年からの付き合いである。
椎名巧は、細面に微笑を浮かべると、久しぶり、と綺麗な声を出した。
――久しぶり……。
確かによくよく考えてみると、巧と最後に話をしたのは随分前のことだった。もしかしたら、三年生になってからは一度も話していないかもしれない。怜は、水筒の一杯を勧めた。
「もらうよ、ありがとう」
巧は水筒のキャップに注がれた果実酢を受け取ると、ぐいっと一息に飲んで、顔をしかめた。
「言っちゃ悪いけど、一日履いた靴下を水につけたような味がする」
「変わったものを飲んだことがあるんだな」
「『ような』って言っただろ」
「良薬、口に苦しって言うだろ?」
「薬なの、これ?」
「いや、違う。もう一杯飲むか?」
「……もう一杯?」
「慣れるとなかなかいける」
「もらうよ」
怜は、友人の手にあるキャップに、もう一杯注いでやった。
巧は、おっかなびっくり二杯目を飲んだ。そうして、
「うん、確かに慣れるといけるかもしれないね」
礼儀正しさを見せた。
風の無い静けさを渡って、蝉の鳴き声が響いてくる。
怜は、緑の葉を見上げた。
「桜の花が咲いていた頃に、ここで可憐な女の子と会った」
「それはそれは。桜の花と勝負できるくらいの女の子?」
「多分な」
「今日は運が悪かったね」
「いや、タクミに会えたことは十分に幸運だよ。そして、今日一日で運を使いすぎている気がする」
「使ったらまた貯めればいい」
「どうやって?」
「いいことをする」
「いいこと?」
「そう。いいことをすればそれがいずれ自分に返って来る。そんなことわざあっただろ?」
「情けは人のためならず」
「それそれ」
「なるほど」
怜は、今日家に帰ったら家族のために晩ごはんでも作ろうかと考えた。しかし、すぐさま却下した。料理上手の従妹がいるので、家族はみな彼女が作ってくれることを期待しているだろうから。
「まあ、レイはいつもいいことしてるから、そのままでいいさ」
巧は、笑いながら言った。その微笑みに影がない。
善行を施していることなどあっただろうか、と怜は考えてみたが、どうにも思い当らなかった。
「善人は自分が善人だって思わないものだからな」
それは巧にこそ当てはまることだろう、と怜は思う。思って言ってみると、
「オレは別に善人じゃないよ。善人っていうのは、ケンみたいなヤツのことを言うんだと思う」
との答えに、後半部分には怜も同意だった。
「美人のカノジョさんは元気?」と巧。
「お前が美人だって言ってたっていえば、もっと元気になるだろうな」
「そういう人だっけ?」
「自分の価値を知ってくれないカレシに威張ることができるから」
「よく言うよ。よく知ってるくせに。レイと川名の関係は、見ていて気持ちがいいな」
「どこが?」
「なれ合わないところが」
「そうか?」
「うん」
「タイチくらいだと思うけどな」
「なにが?」
「知り合いの中で馴れ馴れしいのは」
「あのくらいはまあ普通だと思うけど」
そんなことを言う巧自身があまり友人とだらだらしているのを、怜は見たことがなかった。もちろん、クラスが違うわけで、彼のことをいつも見ているわけではないので、断言はできないが、怜の見るところ、巧は他人との間に、きっちりと一線を引く癖があるようである。他人に対して必要以上に踏み込まないし、踏みこませない。とはいえ、その一線の引き方は冷たさとはほど遠い、淡さとでも言うべきものであって、彼の人格には清々としたものがある。
「女の子と付き合う楽しさを聞きたいんだけど」
巧が微笑したまま言う。
カノジョができたのか訊くと、彼はいやと首を横に振って、
「ただ今朝のニュースの占いで恋愛運が良かったからさあ。いつそうなってもいいようにってね」
冗談のようなことを真顔で言ってきたので、怜も真剣に考えてから、カノジョの朝夕の送り迎え、カノジョへの毎日の連絡、カノジョへのプレゼント贈呈、などの様々な特権が得られるぞ、と重々しく答えた。
「いいね、うん」と巧。
「本心は?」
「最低だな。なんだよ、それ、ほとんど奴隷みたいなもんじゃん」
「愛の奴隷だな」
「よく耐えてるな」
「鞭の加減がうまい」
「え? 飴さえ無いの?」
「雨なら降るけど」
「恵みの雨?」
「集中豪雨だな。オレの心の堰は決壊しそうになる」
「……当分、カノジョはいいかな」
怜は、微笑した。知り合いの女の子には、カノジョや従妹を含めて、きらりとした切り返しをする子が多いが、どうしてどうして、知り合いの男の子の中にもいるのである。それは巧だけではないわけで、怜は、そういうところにも幸せを感じるべきだと悟った。
「もう一杯くれないか、レイ」
巧は、持っていたままのキャップを差し出してきた。
怜は、みたび果実酢を注いでやった。
巧はさもうまそうに飲んだ。
キャップを返してもらったあと、バサバサッという羽音ともに、カラスが舞い降りてきた。
丸々と太った恰幅の良いその黒鳥は、すぐ近くに人がいることにまったく恐れ気がないような風である。
「不吉を届けに来たのかな」
巧が面白そうな顔で言った。
「決めつけたものでもないだろう。カラスは昔、太陽の神の使いだったんだからな」
「へえ」
巧はベンチから立ち上がると、カラスに向かって優雅にお辞儀をした。カラスは嘴を下げて、巧の礼を受けるような仕草をした。そうして、のっそりと、まるで恐竜でも歩いているかのような威容を保ちながら、静かに立ち去って行った。
「ちょっと待っててくれ」
そう言った巧は、カラスと反対方向に歩いていった。
ひとりになった怜は、巧と話していたこの間、暑さを忘れていたことをみとめた。
犬を連れた少女の姿が遠目に見える。
帰って来た巧は、持っていたペットボトルを手渡した。果実酢のお礼だという。怜は、予備のハンカチをボトルに巻きつけてから、バッグの中に入れた。
「行くよ」
一言、言うと、巧は笑顔を見せて立ち去った。
さて、と怜も立ち上がると、家に帰ることにした。思いがけず巧に会うことができて、気分が清々しくなった。カノジョの妹ちゃんへのプレゼント購入という一仕事を済ませ、気の置けない友人に会って、よくなった気分のまま、家に帰って勉強しようと思った。よくよく考えるまでもなく受験生である。勝負の夏休みまでもういくばくもないのだ。
歩き出した怜は、遠くの空に少し雲がかかって来たのを見た。もしか、ひと雨来てくれたら、今日はもう最高の日である。
「積徳、積徳」
歩きながら怜は、前方の熱気に向かってつぶやいた。