第127話:青い鳥とそぞろ歩き
空が青い。
青く広々としている。
その青さの広がりに、
「飛んでみたらいいじゃないか」
と促されるような気分になった怜は、少し両腕を広げるようにした。飛び立とうとする前の鳥のごとく。そこはバッチリと家の近く、近所の人がガンガン歩いていておかしくない道の上だったが、怜の奇行を見とがめたのはしゃなりと優雅に歩く三毛猫くらいのものである。見られていることに気がついた怜が三毛に手を振ると、彼女――彼かもしれない――は、一瞥を返したのみで草むらへと消えた。怜は、ふう、と息をつくと、歩き出した。その足は街へと向かっている。
家の近くから離れ、少し大きな車道へと出て、その傍らにある歩道をあるく。その足取りは軽やかである。何が楽しいといって、一人でそぞろ歩くことほど楽しいことはない。街にはショッピングのためという目的があるにせよ、買う物は難しいものではないので、実質は気ままな散歩と言ってよい。母の小言も、妹の嫌味も、従妹の無茶ぶりも、そして、カノジョの機知に富む発言も、何にも聞くことなく、ひとり無情の静寂を得て歩む、この清々しさたるや、筆舌に尽くし難い。いやいや、待て待て、そんなことで喜んでいていいのか、もう少し大きな希望を持て、と自分に言いたくならないわけでもないけれど、青い鳥はいつだって自分の心の中にあるのであれば、現状の外に幸福を求めるのは愚の骨頂であり、これ以上、愚かになりたくない怜としては、この現状を心ゆくまで楽しむことにした。
休日ということで、近所の人はみな朝早く出かけているのか、車の数は少ない。歩道をあるいていった怜は、バス停で足を止めた。駅前へと向かうバスを待つ、その時間さえ楽しい。一人であるという事実の他に、従妹をカノジョに引き渡したということも現在の楽しさを形作る一部である。従妹の相手は中々に骨が折れる。彼女は一歳年下であるにも関わらず、該博であって、そのイロトリドリの知識でもって従兄の尊厳をケチョンケチョンにする術に長けている。
そんな従妹は、常々、「人生は退屈なりー」とこぼしており、何にもやるべきことのない平安時代の貴族の姫君のようなたたずまいであるのだが、
――今日はそういうわけにもいかないだろう。
と怜はひそかに考えている。自分の想像の及ばない人間がこの世の中にいるということを知るだろう。それが我がカノジョであって、実は彼女と付き合っている怜自身でさえ彼女のことはよく分からないのだが、
――今日はオレのことじゃないからな。
とその件については、棚上げしていた。
カノジョに対しては、受験で忙しいのに可愛げのない従妹の世話なぞ押し付けて申し訳ないという気持ちもあった。しかし、どうやら二人で秘密裏に話したいことがあるようであり、そういう気持ちを抱く必要はあまりないようだった。必要が無いからといって、してはいけないということではないので、怜は今日の件の礼は何らかの方法で行おうと考えていた。宝石を買って欲しいというようなリクエストをつい最近、というか、ついさっき言われたような気がしたが、それは考えるまでもなく即座に却下した。
バスが来た。
乗客の数が少ない車内に乗り込むと、ひんやりとして空調が利いている。空いていた真ん中あたりの席を取って、ゆらゆらと揺らされていると、眠気が起こって来た。睡眠時間は十分に取ったにも関わらず押さえられないあくびは、今日という日の穏やかさのせいだろう。
「あーあ、わたしも部活無かったらなあ」
妹は、今日学校の部活があって、従妹とカノジョのガールズトークに参加できないことを死ぬほど悔しがっていた。兄のカノジョに対して崇拝の念があるので、よっぽどなのだろう。よっぽどであるのにそれでもそのために部活をサボったりしないところが妹のいいところである、と怜は機嫌よく考えた。
窓の外を眺めていると、ものみな、夏の日に照らされて輝いていた。
建物の影さえ鮮やかである。
ふと、この美しさを見る目がもう一対隣にあったらと考えてしまった怜は、その身勝手さに笑った。笑ってみてから、そういう感覚が引き起こされたのは、おそらくは自分のせいだけではなくカノジョのせいでもあるのだということに思い至って、こっそりとカノジョに責任をおすそわけしておいた。
駅前のバス停に着き、運転手に礼を言ってバスを降りると、日差しに目を細めた。空は青さを増して、ぐんぐんと暑くなりそうである。怜は、街の喧騒から離れる方向へと歩いた。いつか行ったことのある小物店が目的地である。大路わきの歩道を、歩道沿いにある商店の影を踏むようにして歩くと、街の音が静かになったように思われた。それほど歩いたわけでもないのに、そう感じたのは、怜自身の気持ちが静まっているからだろう。後ろから走って来る自転車を避けると、
――そう言えば……。
と、以前にこの同じ道でカノジョの手を引いたことがあることを思い出して、現にここにいない人のことばかり考えている自分に苦笑した。そうして、これは笑いごとではない事態だぞ、と思ってみたりしたが、その思いは心底に沈まず、心の浅いところで拡散したようであった。
「いらっしゃいませ」
大通りから路地に折れて、アーチの下をくぐり、草花の縁石を渡ると、こじんまりとした店の中、ずらりと細やかなものが並ぶ間に立った細身の女性がエプロンをまとって、にこやかである。店内には他に客はおらず、外からの光も大人しかった。
「あら、いつかの」
店員の女性は、怜を認めると、笑みを大きくした。さすが、接客業である。以前に一度しか来たことのない客の顔を覚えているとは。驚く怜に、
「今日はおひとりですか?」
茶目っけのある目で訊いて来た。怜が、はい、と答えると、
「お休みの日にカノジョさんを放っておくというのは、いけませんね」
一度しか来ていないのになかなか親しげである。が、嫌味がないので、
「放ったらかしにされているという可能性はありませんか?」
調子に乗ってみると、
「それも男の子のせいです。つまり、お客様のせいですね」
辛口がやはり笑顔で返されたあと、
「じゃあ、そのカノジョさんのために今日は何かプレゼントを買いに来たわけですか?」
勝手な物語を作り始めた彼女に、怜は首を横に振った。「いえ、違います」
「え、違うんですか?」
「カノジョにじゃなくて、もっと可愛い子のために買いに来ました」
「聞き捨てにできませんね」
「聞き捨ててください。カノジョの妹になので」
「ますます聞き捨てにできないわ」
「でも、小学一年生ですよ」
「なるほど」
「愛を試されてます」
「え、なに?」
「もらえるもので愛を計るらしいんです。それって、どうですか?」
「ごくごく当たり前のことだと思います」
「愛って気持ちじゃないんですか?」
「気持ちを表すのが小物というわけ。つまり、ここは愛を売るお店ですね」
女性が、ようこそ、と言わんばかりに、両手を広げる。
愛を売る店とはすごいところに来てしまったぞ、と怜は一瞬後悔したが、時すでに遅く、何かを買わなければここから出してもらえそうにないし、そもそも他の店も知らないしで、何を買えば良いか、あまり高くないものを見つくろってもらおうとすると、
「選ぶために使う時間も、選ばれたその物の価値を押し上げるんですよ」
というありがたい説教をうけた。なるほど。人生いたるところに師あり、である。素直に教えに従うことにした怜は、しかし、店内を一回りもしないうちにすぐにピンと来るものがあって、それは、ガラス製のちっちゃなカエルだった。体が七色に着色されている。
「お目が高いですね」
女性が、涼しげな顔で言う。
正直なところ、怜には、女の子に贈るにカエルとはいかがなものかという頭もあったのだが、女の子一般に対してはともかくとしても、カノジョの妹は絶対に喜んでくれるハズだという確信が、その確信の根拠は無いのだが、あったのである。
値段も高くなければいいがと願った怜は、価格を聞いてホッと息をついた。最近、カノジョへのプレゼントを選ぶ機会があって、その時はかなりの時間をかけたのだが、今回はさらり、その差は愛の濃淡の問題ではなく、受け取る側の素直さに由来するのだろうと怜は結論づけた。
「お買い上げありがとうございます」
カエルを包んでくれていると、ドアベルが別の客の来訪を告げて、一組のカップルが入ってきた。まだ年若い。怜とそう変わらないくらいの年である。店内の素晴らしいごちゃごちゃぶりに、わあっと女の子の顔に喜色が浮かんで、おおっと男の子の顔に呆れたような色がよぎった。
「カノジョさんのためには何か買わなくていいんですか?」
新来の客に挨拶をしてから、店員の女性は、愛を語る使者から商売人へと華麗な転身を遂げた。
怜は、包んでもらったカエルを受け取って、ショルダーバッグに入れてから、この前買ったばかりであると答えて抗弁したが、
「プレゼントっていつでも何度でも貰いたいものでしょう?」
そんな事実は大した意義を持たないのだとさとされた。
怜の視界に、女の子のうなずきがあり、男の子が「げっ」と慌てた顔があった。怜は、男の子に同情しながらも、この場にカノジョがいない我が身の幸運に感謝した。プレゼントをしたいのはやまやまであるが、何事も先だつものがなければどうしようもない。怜が、また近いうちに来ますからと遁辞を構えると、
「きっとですよ」
と念を押された。
カランコロンとベルを鳴らして外に出ると、日はいよいよ高く、空はいよいよ青い。その青さを背に、白い鳥が一羽飛び去って、怜は鳥を追うようにして裏道を歩いた。アスファルトから立ち昇る熱気を受けて、体が心地よく火照る。昼は外で食べることにしていた。何を食べようか、と思いながら歩く道は、この辺りでは桜の名所として有名な公園へと続いている。もちろん桜は随分前に花を散らし、今は緑の葉を輝かせていた。怜は、花の落ちた桜を冷やかしながら、移動屋台のメロンパンでも食べようかと考えた。