第126話:初夏の朝に百年の友を得る
由希は思う。
世の中は退屈であると。
それは決して悪いことではない。退屈であるということは、平和であるということだからだ。平和なくして、退屈はありえない。戦時に退屈していたら死んでしまう。
だが、しかし。
悪いことではないにしても、良いことでもないわけで、であれば、できれば解消するのがよいわけであるが、さて、どうするか。
このつれづれをいかんせん。
硯に向かって、心に映ってはすぐさま消えるちょっとしたことをそこはかとなく書きつける、まあつまりは日常をネタに文章を書くというような典雅な趣味を持たない身としては、どうやってフリータイムを埋めようか、大いに悩むところである。
友人が言う。
「カレシでも作ったらいいじゃんか」
と。
確かに、カレシができたらヒマは埋められるかもしれない。しかし、肝心のカレシにしたい人がいないのだからどうしようもない。作ったらいいじゃんと言われても、卵が無くてはプリンは作れず、ときめく気持ちがなくてはカレシは作れない。それに、そもそもがヒマつぶしのためにカレシを作るというのも何だか違うぞ、と思える程度には、乙女チックの持ち合わせが由希にもある。
「おとめって何?」
「わたしみたいな清らかな女の子」
「あははは」
「何もおかしくないのです。真面目な話です」
「1組の鎌田くんがさ、ユキのこと好きらしいよ」
「えー、マジで?」
「そういうウワサ」
「もしも本当だったら……」
「付き合っちゃう?」
「はあ、ううん、めんどくさいなあと思っただけ」
本心だった。好意を寄せてくれているかもしれない男子の存在を知って、頬を赤らめるどころか、ため息をつく、というところは、とても乙女とは呼べまい、と由希は、自分で自分の発言を否定して遊んでみたりする。
「ちょっと気になる人くらいはいるよね? ユキ」
当惑の色がある友人の目に、由希は、いないよ、と答える。
「ええっ! ウソでしょっ!」
中学二年であるにも関わらず好きな人どころか気にかける人さえいない女子は人間失格であると言わんばかりの驚きぶりに対して、由希は、無意味に胸を張る。
いないものはいないのだ、仕方がない。
いや。
実はいる。
「見栄張っちゃって、ユキ」
「いるから」
「誰よ」
「従兄のお兄ちゃん」
「え? なに、ソレ!? 従兄のお兄ちゃん?」
「うにゅ」
「マジかっ! いいなあ、カッコイイお兄ちゃん! わたしも欲しいなあ。よこせっ!」
激しく勘違いしているであろう友人の目を、由希は覚まさせることなく、そっと閉じたままにしておいてあげた。真実を告げる必要は無いし、それに、確かに由希にとってはカッコよかったからだ。その立ち居振る舞いに心が震える。
その従兄の隣は自分が歩くしかない、と由希は思っていた。これには多分に同情の色もあった。自分が隣にいてあげないとおそらく彼は一人だろう、と。それは不憫。
「カノジョできたみたいだよ、生意気に」
というメールを彼の妹から得たときには本当に驚いた。
まさか彼の価値を知るものが、自分以外にいるとは思わなかった。
世の中は広い。
もちろん、価値を知らずして、たまさかに手に入れたということもあるかも知れず、しかし、現に取得者に会ったときに、その可能性は綺麗さっぱり消えた。
「こんな子がいるんだ!」
と新鮮な驚きに打たれた。得体の知れない暗闇のようなものを彼女に感じて、由希は、一瞬、洞窟にでも迷い込んだかのような錯覚に陥った。
由希は、これまでの一生で、自分の想像を超えたものと出会ったことはなかった。唯一の例外が従兄だったわけであるが、彼とは幼い頃から付き合いがあり親しみがあったので格別として、それ以外では、従兄のカノジョである彼女が初めて、由希の宇宙のどこにも位置しない存在となった。由希はドキドキした。世界には自分の知らない暗さがあり、その暗さの中でうごめくものがあるということが楽しかった。すぐさま彼女とは連絡先を交換し合い、交際をスタートさせた。
そうして、その彼女が、現に今、由希の目前に立っている。
七月のよく晴れた空の下で微笑している彼女に、由希は、おはようございます、とかけた声に弾みを聞き取って自分で苦笑した。
「おはよう、ユキちゃん。レイくんも」
公園である。
朝の公園にはひとけがなくひっそりとしている中、蝉の声がじりじりと響いていた。
「今日はよろしくお願いしまーす」
由希は元気良く言った。
その後ろから、
「話題に困ったら、オレの悪口でも言い合えばいい」
似合わない軽口を飛ばした従兄の方を振り向かずに、
「タマキさん、レイは、わたしたちのこと花だと思ってないみたいですよ」
少女に言うと、
「花じゃなければ、宝石とかかな」
軽やかな返答を聞いた。
「なんの宝石でしょうか」
「さあ、宝石には詳しくないんです。持ってないので。これから詳しくなれるといいけど」
「それはレイ次第ですよねえ」
「ユキちゃんから、念を押しておいてください」
「了解です。『付き合って200日記念』を楽しみにしていてください」
「もうすぐかも」
「良かったですね。1個目ですね」
二人で歓談していたところ、じゃあオレはこの辺で、と平静に作った声を出して従兄は去って行く。
由希はやはり振り向かずに微笑むと、従兄の背を少し目で追うようにしていた彼女も、微笑み返してくれた。
電話やメールでのやり取りも楽しかったが、実際に会うには及ばない。フェイストゥフェイスの心地よい緊張感に、由希は足元を確かめた。足裏に地面の固い感触を得る。よし、大地はちゃんとここにある。
今日は二人だけ。従兄を無理に誘わなかったことに関しては、二人きりで話したいことがあったからだ。ガールズトークである。付き合っているカレシのその従妹と二人きりで会ってくれるというところが、彼女の面白さを表していた。だからこそ、会いたかったわけだけれど。今日はよろしくお願いします、とまた同じことを由希が言うと、はい、こちらこそ、と彼女は返してくれた。
夏空の下を歩きながら、話すのは従兄のことがよい。
「妹さんの小姫ちゃんにあげるプレゼントを選びに行くとか言ってましたよ」
「目下、妹が一番のライバルです」
「可愛いですもんね」
「ですね。尊敬してます、妹のこと」
「えっ、本当ですか?」
「わたしに無いものを持ってるから」
「子どもだからということではなくて?」
「それって分けられないことじゃないかな」
「なるほど」
「わたしとレイくんって似てますか?」
「え?」
「妹がそう言うの」
由希は、うーん、と顎に指先を当てて考える振りをした。「分かりません」
「だって、わたしはレイのこと好きだから」
由希が臆面もなく言うと、彼女はおっと驚かせた顔を微笑で染めて、
「ライバルが三人に増えました」
いった。
「二人、じゃなくて?」
「もっと多いかも」
「モテるんですねー、レイ」
「だから、大変です」
全然大変そうに見えないのは、自信のあらわれか、それとも、付き合うというそのことに価値を置いていないのか。どちらだろうか、と思ったところで、そんなことを探ろうとしている自分自身をふと由希は笑ってみた。
彼女の方はそれきり口を閉ざしてしまって、何事かを考えている風である。
行く道の歩道は明るく輝いて、街路樹の緑がきらきらとしている。
「レイくんって、どんな人だったんですか?」
隣の声に緊張の色を聞いた由希は、
「昔ですか?」
訊き返した。
「はい、昔です」
「想像はつきません?」
「存在自体が、想像の外の人なので」
「確かに」
口を閉ざしていたことがこの疑問を発するためのエネルギーを充填していたためかと思えば、案外に可愛かった。
由希は言葉を選んだ。
「昔の方がもっと神に近かったかもしれません」
そんな風に答えたのは、彼女をけむに巻きたかったわけではない。そういう表現が的確だと思ったから、そう言っただけのことである。
――いや、やっぱりちょっとは……。
けむに巻きたいという気持ちはなかったけれど、暗闇をうがちたいという気持ちはあったのかもしれない。そうやってすぐさま反省していると、
「神話の時代ですね」
返って来た言葉は優しいものである。
「タマキさんにもそういう時代がありましたか?」
「多分あったと思います。あまり覚えてないけど、随分、母の手をわずらわせたみたい」
「今はもう神から離れてしまいましたか?」
「ええ、多分ね。でも、まだ神を感じることはできるみたいです。神は死んでないんですね」
「それをレイに感じるってことですか?」
返答は無かった。
代わりに、
「レイくんと付き合うのは大変です。でも、その大変さがすごく愛おしいの。そういうことってありますか?」
という質問を得て、
「そういうことを探しているのかも。……いや、必要としているみたい」
答えてから、
「見つかると思いますか?」
訊くと、
「宇宙大の幸運が必要だと思います」
返って来た答えは、微笑を含んでいる。
由希は、眉をひそめた。
「うーん……そういう考え、あまり好きじゃないですね。だって、人の世界のことは人の手によるべきでしょう?」
「宇宙は人が作ったものじゃないですよ」
「宇宙は人の中にあるものじゃないですか」
「うん、そうかもしれない。でも、宇宙を作ったのが人でも、そう作ったそのこと自体は作られたものじゃないと思うわ」
「タマキさん」
「はい?」
「わたしのこと、からかってませんか?」
彼女は、一瞬、虚をつかれたような顔をして立ち止まると、
「ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げた。
「えっ!?」
立ち止まった由希が驚きの声をあげると、
「あ、いえ、そうじゃなくて。今言ったことは、レイくんなら多分そう言うんじゃないかと思ったことを、言ってるってことに気がついたからなの……だから、付き合うのが大変なんです」
顔を上げた彼女はバツの悪い笑みを浮かべて答えた。
なるほど、と思った由希は嬉しくなった。公園を出てどこへ向かって歩いているのかは分からないが、歩いてほんの十分ほどの間に、百年の知己を得たような思いがした。知己、すなわち、自分のことを知ってくれる人。しかし、それはおそらくは誤解であろうということも分かっていた。ただ、由希が嬉しかったのは、そういう誤解かもしれないことさえ、これまでに無かったことで、この誤解自体に価値があることが分かっていたからだった。