第125話:話したいこと、ひとつ、ふたつ
従妹の由希が来たのは、夕飯の直前だった。
「遅れました、おばさま」
夕食の手伝いをする約束でもしていたかのような言い方に、母は悪乗りして、
「明日は遅れないで、ちゃんと手伝ってね」
などと言った。
由希はまず、怜の妹の都と旧交を温めると、
「はい、レイ」
怜に向かって、両手を広げた。
「なんだよ?」
「再会のハグだよ。何度も言わせないで」
「何度もって、今一度言ったきりじゃないか」
「昨日夢の中であなたが言ったのよ。わたしに会いに来てくれたでしょう、夢の通い路を通ってさあ」
夢の通い路とは、夢の中で男の子が愛しい女の子に会いに行く道のことを言う。
そんなところを通った覚えは無い怜は、人違いだろう、と返した。
「ひどい!」
由希は、袖で目元を押さえるようにすると、よよよ、とやけに風情のある泣き声を発した。そこに妹が駆けつけて、我が兄を、キッと睨みつけるようにする。
「人でなし!」
付き合っていられない怜は、やりかけていたことを続けた。すなわち、ディナーテーブルのセッティングである。箸置きと、箸をそれぞれの席に。
「お手伝いしまーす」
元気よく手を挙げる従妹に、
「その前に、荷物をミヤコの部屋に持っていけよ」
近くにあるスーツケースを見ながら言うと、彼女は近づいてきて、
「レイの部屋じゃダメかな?」
こそっとした声で言ってきた。
怜は呆れた。「ダメに決まってるだろう」
「でも、わたしたち、この前一緒にさあ――」
声を高くした従妹にみなまで言わせる前に、怜は、彼女の手を取って、部屋の片隅に引っ張っていった。満座の前で何を言い出すつもりなのか。
「真実を」
にひっと笑う彼女に、
「真実は胸に秘めてこそ輝きを増すんだ」
怜は、言ってやった。
「誰の言葉?」
「テキトー教授の言葉だ」
「適当だなあ」
まあいいや、と言った由希は、秘すれば花、とつぶやいて、ウインクした。どうやら、一つ部屋の中で一夜を過ごした――と言っても真相は、彼女が、怜が寝ている間に部屋に侵入して、怜をベッドから床へと蹴り落としてベッドを占拠し、自分はそのままとこの上で、従兄をそのまま床の上に寝かせ、その状態でふたり朝を迎えたというだけの話なのだが――そのことを、従兄を脅すネタにすることにしたようである。これだから女の子は嫌なんだ、と怜は思った。男子をからかいのネタくらいにしか考えていない。
「そんなことは無いと思うなあ。わたしにもいつか王子様が現れるだろうし。さすがに、王子様をからかったりはしないよ」
どうだか疑わしい、と怜は思った。王子なんて格好のからかい対象ではないか。
「二人で何をコソコソやってるの?」
都が、仲間外れにされたことに対して、ブーイングの声を上げた。
由希が答えて言う。
「わたし、レイのことが大好きだってこと、ミヤちゃん知ってた?」
「ううん、今知ったよ。それに、大して知りたくもなかった」
「どうして?」
「だって、お兄ちゃんだよ」
「なるほどー」
何がなるほどなのか、非常に失礼な言葉を聞いたような気がしたが、この二人に礼儀を要求する気のない怜は、彼女らから距離を取った。この二人に関わっていいことなど一つもない。何かを断言することが難しい世の中だが、このことだけは自信を持って断言できる。
いつものように七時頃、父が帰って来て、家族みんなで夕飯の卓を囲むことになった。
由希が来るといつもそうだが、父は上機嫌である。その様子を見るたび、怜は、父とより深くコミュニケーションを取らねばならないな、と思うのだが、ついぞその思いを実行に移したことはない。それはお年頃だからだろうということにしておいた。けっして面倒がっているわけではない、と自分に言い訳する。
「拓馬くんは元気ですか?」
父が由希に訊いた。
拓馬とは、由希の小学四年生の弟である。
由希は、はい、と答えると、
「元気しか取り得がない子ですから」
ひどいことを言った。
確実にもう一つある取り得は、この姉に耐えているというその忍耐力である。怜が、彼の立場だとしたら、とても耐えられたものではないだろうと思う。たまには電話でもしてみようか、と怜は思い、そうして実際に食べ終わったあと自室で携帯から電話してみると、応えた従弟の声はこの上なく機嫌がいい。
「いい夜だね、レイ!」
声変わりしていない高音が綺麗である。
「元気か?」
「うん! 超元気だよ! レイは?」
怜が答える前に、
「あ、そっかそっか、ごめんごめん、レイが元気なわけないよねえ」
さざ波のような笑い声が起こった。
「ボクにとってはいい夜だけどさ、レイにとっては、ねえ?」
「一緒に来れば良かったのに」
「レイ、それ本気で言ってるんだとしたら、レイのこと嫌いに……なれないなあ、今日は。こんなに月がウツクシイからさ」
「こっちは曇ってるけどな」
「実はこっちも曇ってるよ。でも、ボクの目にはありありと見えるんだ、すごい?」
ああ、と答えると、ハイテンションな従弟は、きゃはは、と笑った。普段、どちらかといえば物静かな彼のこのはしゃぎように、しかし、怜は引いたりしなかった。絶え間ない抑圧から解放されるわずかな機会なのだから、こうもなろうというものである。
「レイ、一人っ子だったらいいな、と思ったことは?」
「思わなかったことがあるかを訊いた方がいい」
「だったね。夏休みにこっちに来るんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、そのときもお姉ちゃんのことお願いしてもいいかな?」
「……あ、ああ」
「ありがとう! だから、好きだよ、レイ!」
内心は、与えた言葉の逆だったけれど、これほど喜んでいる従弟を喜ばせておいてやりたいと思うくらいには彼に対しての情がある怜は、覚悟を決めることにした。
「じゃ、またね、レイ!」
電話が終わると、そのタイミングを見計らったかのように、従妹がやってきた。
「電話してたみたいだけど、タマちゃんに?」
パジャマ姿の彼女から、芳香がした。シャンプーの匂いだろう。
「お先にいただきました」
そう言って、ぽんっとベッドの上に乗ると、もみあげのところだけ長く伸ばした両の黒髪が、ぴょこんと揺れた。
「ミオの話、ちゃんと覚えてるよね?」
由希は切り口上で言った。
夏休みに、彼女の友人の非行を止めるべく説得して欲しいという依頼を、怜は由希から受けていた。
「覚えているよ」
いまだにどうして自分が白羽の矢を立てられたかは分からないが、いったん引き受けたこと、ぐずぐず言うまい、と怜は思っていた。由希の友人を真面目に戻すことができるかどうか、成否は神の業であり、人である怜はそれに向かって努めさえすればいいのだと、そんな風に軽く考えていたわけでは決してないが、しかし、できることしかできないのは言い訳ではなく、単なる事実である。
初夏の夜気はもったりとして重たげである。
その中に浮かぶ従妹の声が軽やか。
「覚えてるなら良かった」
「まさか、それを確認するために今日来たわけじゃないだろうな?」
「まさか! レイに会いたくて来たんだよ」
なんでまた自分に会いたいのか、怜は、じっと従妹を見た。
すると、彼女は、にっこりとほほ笑んだ。
「オレに会って何か面白いのか?」
「うん、もちろん。レイはユニークだから」
「ユニークっていうのは、元々『ただ一つ』っていう意味だ。その意味なら、みんながユニークだろ」
「そうかなあ、そうでもないと思う。仮にそうだとしても、ただ一つであるっていうだけで価値があるとは全然思わない。桜はたくさんあるけど、その分だけ価値が下がるなんてことないでしょう?」
「桜は散るぞ」
「散れば新緑が萌え、秋には紅葉して、冬には雪の花を咲かせる」
この切り返し方は、なるほど小気味良い。
しかし、小気味良い切り返し方をする女子は間に合っている。
間に合うどころか、やけに周囲にいすぎた。
「モテるね、レイは」
「モテてるのか?」
「だと思うけど」
それがモテるということなら、モテなくていいなあ、と怜は思った。
「あー、タマちゃんと会うの楽しみだなあ、明日」
「いつから、ちゃん付けする仲に?」
「なってないよ。いないところで勝手に呼んでるだけ」
「明日、オレはいなくていいんだよな」
「え? 両手に花になるのに」
「花は何もしゃべらないからなあ」
「わたしだって、その気になれば、全然しゃべらないことだってできるのよ」
「問題はその気になることがあるのかどうかってことだけどな」
「それは訊かない方がいいと思う」
由希の声は、室内の空気に色を与えるような華やかさがある。
「レイがわたしのお兄ちゃんだったらな、って時々思うのよ」
「それは危険な想像だな」
特に、自分にとって、と怜は思った。
「ミヤちゃんが、すごく羨ましい」
「隣の芝生だ」
「違う」
由希は、ベッドの上で、あぐらをかいた。
「わたしね、レイ、本当は色々話したいことがあるんだよ。聞いてもらいたいことが、それこそ、山もりですよ」
「話せよ」
「話した分だけ増えていくからキリがないの。でもね、もしも、わたしのお兄ちゃんだったらさあ、キリない話をキリなく聞いてもらえるわけでしょ。そういう生活ってどんなのかなあ、って思うわけよ」
「そもそもオレに聞かせる必要なんか無いだろう。お前はオレより頭がいい」
「それは頭がいいってことの意味によるな。わたしは、レイには及ばない」
博学の彼女は、謙遜という美質まで備えているらしい。
「夜は長いぞ」
怜がもう一度話とやらを話すように促すと、由希は、楽しそうな顔をして、しかし、やめとく、と言って、
「その代わり、もうちょっとここにいていい?」
そう続けて、許しを得る前に、
「ありがとう」
勝手に言って、ごろり、とベッドの上に寝転んだ。
怜はフローリングの上に腰を下ろすと、窓から空を見上げた。
曇り空に、やはり月は見えない。
見えないけれどそれは確かにあるはずであり、隠された月を想うことと、人の気持ちを想うことは同じことなのかもしれないな、と怜は思った。思って口に出してみたところ、
「やっぱりレイは青く見える芝生じゃなくて、実際に青い芝生だね」
由希が仰向けの状態から、肘枕を立てた半身の状態になって、言った。
「それが、わたしの話したいことの一つだったのよ」
「話す手間が省けたな」
「その手間がいいんじゃない。人生は大いなる余剰なんだからさ」
「誰の言葉だ?」
「わたし自身の言葉だよ。あるいは、誰のものでもない言葉って言ったってそれは同じことだなー」
由希は、クスクスと笑うと、
「そして、これが話したいことの二つ目よ。ダメだな、どんどん話しちゃう。もう黙るからね」
そう言うと、本当に口を閉じて、そのまま一言もしゃべらない時間があらわれた。
怜は机に座ると、宿題をすることにした。
五分ほどして、妹が従妹を呼ぶ声が聞こえてきて、由希はそれに応じてベッドを立ったようである。
スプリングの音がして、ついでフローリングを踏む音、ドアノブを回す音、そして、
「またね、レイ」
少女の爽やかな声を、怜は背で聞いた。