第124話:出会う前のきみのこと思い出せたら
怜は、環が出て来るのを待った。
待ちながら、待ち人ではない人間も出て来てしまうのではないかと冷や冷やしたが、どうやら太一はいないようだった。
怜はホッとした。「またあとで」というのは今日のことではなかったのかもしれない。どうせなら、その「あと」というのが、人生の「後」半、すなわち春秋高き老年時代であってくれればいいのにと願った。年高くなれば、太一に対処する知恵も身につくかもしれない。
学校指定鞄を肩からさげて現れた環に、怜は目を細めた。
「どうかした?」
不思議そうに小首を傾げる様子が絵になるような子である。
怜は、改めて彼女の価値を認めた。
自分自身の価値を認めていないであろう彼女の代わりに。それもカレシの役割だろう。
「タマキに相談することになるかもしれない」
廊下を歩き出しながら、怜は言った。
「レイくんがわたしに? なにを?」
「難しい問題であふれてるんだよ。ひどい人生だよ、まったく」
「ひどい人生ですか」
「ああ」
「本当に?」
怜は、環の半月のような瞳がパチパチするのを見た。「今の言葉、撤回するよ」
「何も言ってないよ、わたしは」
「沈黙は金だな」
「わたしは金よりも銀の方が好きです」
じゃあ、ということで、怜は話すことにした、太一の件である。彼が何事か相談事があると言っていたことを話しながら生徒用玄関を出ると、空から降る光が柔らかい。
「恋多き人だね、タイチくんは」
環が、さして感心している風でもない口調で言う。
怜は太一の多情に関して、環の解釈を訊いてみた。
「さあ、分かりません」
環は微笑した。
「分からない?」
「うん。というより、分かろうとしていないんですね。あんまりタイチくんの恋愛事情には興味が無いって言ったら、怒る?」
「オレが? なんで?」
「だって、レイくんの友達でしょう?」
「友達じゃない」
「あら」
「友達は強すぎる表現だ」
「じゃあ、『知り合い』とか?」
環は微笑した。
「いや、『同じ国に住んでいる人』とか、そのくらいの表現が妥当だと思う」
「それはいくらなんでもひどいんじゃないかな」
たしなめる声に本気の色が薄い。環は少し考えるようにしてから、
「どうだろう、やっぱり分からないな、タイチくんのことは」
言って、
「分かったとしたら、それは誤解だと思うの」
付け加えた。
なるほど、と怜は思った。
怜としては、太一のことを誤解したくないし、そうして、そもそも理解もしたくはなかった。
校門を出ると、集まった人が四方にはけて、周囲の静けさが増した。
怜は、唐突に太一関連の思い出を一つ思い出した。
「どんなこと?」
昨年の秋の話だった。彼の誘いに乗って、集団で遊びに出かけて、しょうもない目に遭った。
「誰かに水を引っかけられた気がする」
「炭酸ジュースじゃなかったかな」
「そうかも。もしもタイムマシンがあったら昔の自分に忠告したいね。タイチと関わるなって」
これは心底からの声である。
環は笑った。
「さっきタイチくんのこと分からないって言ったけど、一つだけ分かることがあるよ」
「ん?」
「それはね、レイくんが優しいっていうこと」
「オレが?」
「そう」
やけに自信ありげにうなずく環に、自己否定的な言葉を与えることは、自分だけではなく彼女をもおとしめるような気持ちになって、やめた。しかし、もしかしたら、今の言葉はそういう人であってもらいたいという彼女の期待なのではなかろうか、と怜は思った。そうして、そうであるのかどうかは訊かない方が良さそうだとも思った。
「タイムマシンの話」
環が楽しそうである。「もしもあったら、昔のレイくんに会ってみたいな」
「会ってどうする?」
「何もしないよ。ただ会いたいだけ。わたしが出会う前のレイくんのことを思い出すのが、とても難しいの」
過去を上手に思い出すことだけでも難しいのに、それが経験していない過去ならなおさらである。
「そうだね。でも、思い出したいの。欲張りなんです、わたし」
そう言って前を向く瞳が煌めいている。
「無欲だとも言えるよな。なにせ自分の外に求めているわけじゃないんだから」
「ありがとう。今日何かいいことがあったんですか?」
「心外だな。タマキのことはいつも褒めてると思うんだけど」
「うん。だから言ってるでしょう、欲張りだって」
「褒め言葉くらいだったら、いくらでもやるよ」
「ラブレターだったらもっといいかも」
「ラブレターだって?」
「『かも』って言っただけです」
環はぺろっと舌を出した。
怜はちょっと考えてみて、仮に彼女の「かも」に付き合ったとしたら、その次に何を要求されるのか分からないぞと思った。
街路樹の梢を揺らす風がそよとしている。
怜は、さきほど文化研究部に現れた奇人について触れた。
「上村さんですね、何度か話したことがあります」
「部活動紹介の時のこと、覚えてるか?」
「はい、確かな言霊を感じました」
なるほど、とうなずいた怜は、その時のことを覚えていないことを隠そうとしたがうまくいかなかった。
「わたしと話していることも忘れられるのかと思うと悲しいな」
環は目元に手を当てて、涙を隠すようにした。
怜は力みの無い声を出した。
「付き合ってからのことだったら、全部覚えてるよ、タマキ」
環は手を開いて、もちろんカラリとした瞳をあらわにして、
「本当? でも、いずれは忘れられるのかな」
訊いてきた。
「いや、忘れないよ」
「絶対?」
「絶対」
「じゃあ、絶対だね」
環は、何かをこらえるように目元を揺らして、ついに横を向いた。
「なにか面白いこと言ったか?」
怜が言うと、
「違うの。ただ――」
環はそのほっそりとした首を横に振った。
「ただ?」
「ええっと、ほら、目にしみたのよ」
「なにが?」
「なにって、その……えーと……あれ!」
そう言って、彼女が指差したものは、木々の緑だった。「青葉だね」
「青葉?」
「うん、青葉が目にしみたの」
「聞いたことないぞ、そんな話」
「今聞いたでしょ」
「なるほど」
「ねえ、レイくん」
「ん?」
環は、ちょっと間を置くようにすると、
「もしも何かを忘れちゃってもね、でもね、ステキなことじゃないかな、もしも忘れてしまっても、今、わたしがこうしてレイくんと歩いているということや、今このときわたしが抱いている気持ちは、この世界が所有しているんだよ。このときこの世界が所有したっていう事実はこの世の終わりまで消えないんだよ」
まるで歌うように言った。
怜は、ふわりと体が軽くなるような心もちになった。
「じゃあ、別にオレが覚えてる必要無いのか、タマキと話したこと」
そのせいで口も軽くなったようである。
「レイくん」
環は立ち止まって、顔を向けた。眼底に真剣な光が溜まっている。
「それとこれとは別です」
はい、と怜はうなずいた。
人との出会いがどれも奇跡であったとしても、環との出会いは、中でも特別な色合いを持つと、怜は素直にそう思った。そうして、そう思えるこの一瞬こそが永遠で、未来は現在の中に既に立ち現れているのだと確かに感じた。
空からは清々とした光が降っている。
しばらく二人は無言で歩いた。
横断歩道の前で、ひんやりとした手が自分の手を取るのを怜は感じた。
隣の少女がどこか得意気な顔である。
「たまにはわたしがレイくんの手を引いてあげようかなって」
「引かれっぱなしになりそうだから、やめてくれ」
「嫌だと言ったら?」
「言わないだろ」
「言いません。でも、向こう側までならいいでしょ?」
一本取られた格好になった怜だが、環に勝とうとは思っていない。それは、どだい無理な話であると諦めている。
横断歩道の向こう側で、しかし、彼女の手は離れなかった。
「タマキ」
「だって、予定は未定だもの」
そう言ってはばからない彼女の手を、怜は仕方なく握ったままでいた。
この手に取られたのはいつからなのだろう。いや、むしろこの手を取ったのはと言うべきか。
付き合い始めたのは、今年の一月、つい半年前のことだけれど、その前からずっとこの手を取っているようなそんな不思議な心もちは今だけの話ではない。
「前世からかもしれないよ」
「信じてるのか?」
「普通に信じているっていう意味では信じていないの。ただ、生まれる前が無いっていうことがどういうことか分からないから、どうしてもそうなっちゃうんだね。それに、前世でも会っていたなんて、ステキじゃない? 過去じゃないよ。以前の世界で会ってたらってこと」
「世界が繰り返すってこと?」
「むしろ、想いが繰り返すってことかな」
怜が環を思うように、環が怜のことを思うように、かつて誰かが誰かを思っていたのだろうか。おそらくそうなのだろう。そうして、その思いはまたこれからも続いて行くのだ。
怜は遥かな場所へと運ばれていくような不思議な気持ちになった。
そうして、やはり環とはいつかどこかで出会っていたのだと、心の深いところで、確信した。いつか彼女の妹に語った、生まれる前の神の話は、あながち冗談でもないのかもしれない。もちろん、あの話も冗談で語ったわけではないのだが。
「アサちゃんになにか贈らないといけないな」
旭からは何かプレゼントをするように催促されていた。
「お手数をおかけします」
「手数だなんてことないよ。アサちゃんは、オレが知る中で唯一可愛い女の子だから」
「唯一?」
「ああ」
「般若の面が欲しくなってきたわ」
「般若?」
「そう、そうしてアサヒにそのお面を向けるのよ」
「怖がらせるつもりなのか?」
「いいえ、釘を刺したいだけです」
環の家の門前までしばらく、手はつながれたままだった。
「このまま手を引いて、一緒にお茶してもらおうかな。アサヒも喜ぶだろうし」
「ユキが来るから帰るよ」
「わたしよりもユキちゃんを選ぶんですね」
「そういうのか?」
「そういうんです」
「じゃあ、お邪魔しよう」
え、と虚をつかれた環の手から、怜は自分の手を抜いた。
「またな」
「あ、ズルです」
「ちょっとくらいズルがないとお前とは勝負にならない」
「勝負って、なんでそんなに殺伐としているんですか? カレシとカノジョって共存できないの?」
「それは、タマキ次第じゃないかな」
そう言って、怜は、環に背を向けた。
歩き出してからちょっと振り返ると、環は笑顔で手を振ってきた。
怒ってはいないように見えるけれど、それはどうだか当てにはならない。