第120話:その手が語ること
昼休みは無意味に廊下を徘徊して過ごした。初め図書室にでも行ってみようかとも思ったが、そう言えばカノジョが図書委員だったことを思い出してやめた。図書委員は昼休みにも仕事があるハードワーキングジョブである。今日が彼女の貸し出し担当日かもしれず、危険は冒せない。ひとりで無目的に廊下を歩いていると何とも言えない空しさが胸に広がったが、それは「心の風邪」が治り始めていることを示していた。
昼休みを校内散歩をして過ごし、午後の二時限をやり過ごして、その日は部活をサボった。帰り際に、環に待ち構えられているかもしれないと思ったが、どうやら怜のクラスが三年生の中では一番早く帰りのホームルームを終えたらしく、彼女との対決を避けられる幸運を得た。これであとは、家に帰ってできる限り家族との接触を避けて一晩寝れば完全回復するだろう、とそんな甘い見通しを立てることはいつもの怜らしくはなかったが、それもやはり精神が通常のものではない状態だったからだろう。
「お兄ちゃん!」
帰宅後、閉じこもっていた部屋にノック無しで突入してきた妹は、
「川名先輩、来てるよっ!」
いきなり言った。
一瞬前にピーンポーンと家の呼び鈴が鳴って、誰か来たことは分かっていたが、まさかそれが自分のカノジョだとは思いもしなかった怜は、しかし、当然に予想すべきことだったと自分の迂闊さを呪った。
よっぽど、帰ってもらってくれ、と言いたかった怜だが、付き合っている女の子にそんな失礼はできず、仮に何とかそうしたとしても、したらしたで今度は家族からの追及を得ることになる。家族はこぞって環の味方なので、彼女を辱めるような行為をした場合、どんな風に責められるか分かったものではない。
「お兄ちゃん、早くっ!」
反応が鈍い兄のお尻を蹴っ飛ばすような勢いで、妹は急き立てた。
「川名先輩を待たせたら万死に値するよ!」
階段を下っていった先に玄関があって、そこで環が制服姿で立っていた。学校後にそのまま寄ったのか。しかし、環の家は怜の家への道の途中にあるので、ちょっと家に寄れば着替えて来ることはできるわけだから、にもかかわらずの制服姿には何かしらの意図があるのか、怜には分からなかった。
「借りた教科書を返すのを忘れていたから」
そう言って、環は微笑んだ。
「どっかで聞いたことがあるセリフだな」
「聞いたんじゃなくて言ったんじゃないの?」
「かもな」
「かもじゃなくて、そうなんです。覚えてませんか、この間のこと」
「記憶力は壊滅的なんだ」
「じゃあ、忘れられないようにちょこちょこと視界に入るようにします」
環はそう言うと、肩掛けかばんから教科書を探るポーズをした。そこへ、後ろにいた妹が、上がるようにと声をかける。
「でも……」
怜は、ちらりとした視線を受けたのを感じた。
遠慮深そうなその瞳に、いたずらっぽい光があるのを怜は認めた。
妹はカノジョの腕をとらんばかりになお強く勧めると、怜も、入れよ、と言った。「因果応報」というのは月並みでありながら、なかなかに真実を突いていると怜は思った。よっぽど環を自室に招きたかったが、自分のプライベート空間に入ってもらうという行為はそれなりに大切なものであり、現在の精神状態で行うのはふさわしくなかろうという思いがあったので、リビングに通すことにした。母は買い物に出かけている。
「お兄ちゃん、お茶淹れて。あと、いただきもののお菓子出して、美味しいヤツ!」
都が言う。
それを自分でサッとやれば、デキる女の子だということを示すことができるのに、そういう自己アピールには全く関心が無いようである。
怜は黙って紅茶を用意した。
「ティバッグじゃないヤツで淹れてね!」
注文の多い客である。ティバッグから作っても、葉から淹れても、どうせ味の違いなんか分からないだろうと思った怜は、妹のものだけティバッグにしてやろうかと悪心を起こしかけたが、めんどうくさいのでやめた。折良く、マカロンがあったので、それをお茶受けに供することにして、給仕を行うと、妹が環とリビングのソファで、楽しげに話を始めていた。
「この前、先輩が選んでくださった服、友だちに写メ送ったら、みんなから可愛いって言われました」
まるで自分の客のような風情である。
「ミヤコちゃんはもとから可愛いから」
「ありがとうございます!」
怜は、二人の前にそれぞれ紅茶と洋菓子を供すると、自分もソファについた。そうして、妹のおしゃべりとそれに対するカノジョの相槌を聞くともなしに聞いていた。七月の夕べは少し蒸して、開いた窓から時折良い風が流れてきた。
妹はひどいはしゃぎようで、それを、
「なにせ、いつもの話し相手がお兄ちゃんなので、よっぽどなんです」
自分の軽薄さには言及せず、兄の所為にした。怜は妹の愛を感じた。愛と言っても自己愛である。
やがて母が帰って来て、お茶の席に加わった。女三人で会話が弾み、そのそばでひとりぽつねんとしている怜は、自分の存在意義というものを考えてみたが、
「レイ、お茶もう一杯淹れて」
考えるまでもないことだったということにすぐに気がついた。
「お夕飯食べて行きなさい、タマキさん」
ひとりしきり話したあと、母がとんでもないことを言い出したが、さすがに環は断った。
「父が寂しがりますので」
「レイ、タマキさんを送って差し上げなさい」
言われなくてもそのつもりである。
環は、お茶の礼を丁寧に母に告げたあと、席を立った。いつでもいらしてね、というねんごろな言葉に、ありがとうございます、と答えた声は控えめで礼にかなっている。そんな礼儀正しい少女を、怜は戸外へと導いた。まだ夕闇には少し時間がある。環の家まで持つだろう。
外に出てから手を差し出すと、環はそのほっそりとした手を重ねてきた。
怜はじっと見てやったが、環はにっこりとするだけなので、「荷物だよ」と言ってやった。
「あら」
怜は、環のかばんを受け取って肩から下げると、彼女を横にして歩き出した。夕暮れに二人の影が長く伸びる。
「怒ってる?」と環。
「オレが?」
「うん」
「別に怒ってないよ」
「そうなんだ……」
それはまるで残念そうな口調だったので、怜はむしろそのこと自体にむっとするものを覚えた。
環は知らぬ顔で、
「これで分かっちゃったでしょ、レイくん」
言った。
「何が?」
「わたしが自分のことしか考えていないっていうこと」
「オレのために来てくれたのかと自惚れてたんだけど」
「うそばっかり」
環は微風のように笑うと、レイ君はすごいね、と唐突なことを言い出した。
「褒め言葉が続くならやめてくれ、体がかゆくなる。もしも皮肉な意味での『すごい』ならなおやめてくれ、落ち込んで寝られなくなるからな」
「素直な気持ちでカレシを褒めたいだけなんですけれど」
「素直? お前が?」
「それちょっとグサリと来たよ、レイくん。人にはその人自身が分かっていても言っちゃいけないことってあると思う」
「認めてはいるのか」
「はい」
自分の発する言葉で環が傷つくことなどあるのだろうかと思えば、どうにもそんなことはなさそうに思える怜だった。もしもそんなことができるなら言葉で以ってこの天地さえ動かせるだろう、とそんなことを思ってしまった怜は、自分の誇大妄想的考えを、「心の風邪」の所為にしておいたが、何かの所為にできるというその考えがすでに、当の病から癒されつつあることを示していた。
「で、オレがなんだって?」
怜が改めると、環は、もういいです、と言ってちょっと舌先を覗かせるようにした。
「今度のときに取っておきますので、覚悟しておいてください」
「褒め言葉を受けるのになんで覚悟がいるんだよ」
「何にでも覚悟はいります。覚悟の無い行為はただの惰性でしょう?」
環の家の門前まで来ると、もう少しで日が落ちそうな逢魔の時、現れたのは天使のような女の子だった。
「レイ!」
姉の帰りでも待っていたのだろう、玄関ドアの前にいた旭は、ダッとダッシュしてきて、門から外へと出て、怜にまむかった。そうしてギュッと抱きついて来る。
「こんばんは、アサちゃん」
自分の声が優しいものになっているのを聞いた怜は、ちょっと気持ち悪くなった。
顔を上げた旭の目にキッとした鋭い色がある。
「レイ、わたし怒ってるんだよ!」
歓迎の雰囲気からの一転に戸惑った怜が少女の怒りの原因を訊くと、
「お姉ちゃんにプレゼントしたでしょう!」
旭の声が強く夕空を打った。
「どうしてわたしにはないの! わたしのこと好きじゃないの!?」
「アサちゃんのことは好きだよ」
「だったら!」
旭は地団太を踏むようにして、
「なんかちょうだい!」
言う。
横から環が口を出した。「アサちゃん、それはどうかと思うよ」
「お姉ちゃんはいいよね、もうもらってるんだもん」
旭は、ふん、と横を向いた。
怜が環を見ると、
「ごめんね、レイくん。話しちゃいました」
とのこと。
別に謝られる類のことではない。
怜は、今度何かプレゼントするということを約束して、旭を納得させた。
「きっとだよ」
「うん」
「それでレイがわたしのことどのくらい好きか分かるなあ」
旭はぼそりと恐ろしいことを呟いた。小学一年生でこの切れ味であるのは、姉の薫陶を受けているからに違いないと、怜は非難の視線を隣に向けたが、向けられた方は素知らぬ風である。
環は旭を家に入らせてから、そこまで送ります、と見送りを申し出たが、怜は断った。
「ここでいいよ」
じゃあ、と環は手を差し出した。
夕闇の中でその手の白さは輝くようである。
怜は、いまだ肩にしていたかばんを下げて、彼女に手渡そうとしたが、環はすっと首を横に振った。
怜は仕方なく下げたかばんを再び肩に戻して体勢を整えたあと、彼女の手をとった。
「なんの握手だよ、これ」
「『これまでありがとう』の握手だよ」
「随分婉曲な別れのセリフだな」
「続きがあります」
「ほお」
「『これからもよろしくね』の握手でもあるの」
「握手一つで色々語れるもんだ」
「その気になれば、手を握らなくたって、明らかになると思うけれど」
環の口調は軽やかである。
テレパシーを要求されてはたまらない。それよりはまだ手を握る方がマシだった。
「明日の朝も一緒に登校してくださいね」
「変な期待はするなよ」
「します」
「……了解」
怜は環の手を放した。闇に染まりつつある彼女にかばんを返すと、家路を辿ることにする。彼女に背を向けた怜は、しかし、環がさきほど握手した手を後ろでひらひらと振ってくれている姿が不思議に見える気がした。