第12話:ゴールデンウィーク明け、開く少女の心
ゴールデンウィークも終わり、次いで三年生で初めての定期テスト期間となった。結果は、まあまあだった。平均点や順位などの正確な評価は一週間程度待たなければならないが、得点は上がった。何より初めて準備をして向かった試験である。怜は満足した。母は満足とはいかなかったようだ。返された答案を見せると、何ともコメントのしづらい顔をした。おそらく、前よりも点数が上がっているので褒めてやりたいという気持ちと、期待したほどでもないので叱咤したいという気持ちの間で揺れているのだろうと怜は推測した。結局、
「やればできることがこれで分かったんだから、次はもっとがんばりなさい」
という褒め言葉か何だか分からない言葉で終わった。がんばったばかりなのに、次はもっと、などと言われるのは正直げんなりするところであるが、怜は気を取り直した。受験勉強については別に褒められたくてやっていることではないのだ。
塾講師の山内女史の態度は怜の性に合っていた。彼女は一切褒めるということはしなかった。テストの答案を見せると、どこで得点を落としたのか、という失敗の分析だけを促される。
「成功は一人で噛み締めればよろしい。大事なのは失敗したことの方です。自分が失敗したことは普通、人は直視したくないものです。それをさせるのが私の仕事です。失敗は実は優しいんですよ、加藤くん。多くのことを教えてくれますから」
この件に限らないが、彼女の言葉には説教くさい所がない。淡々としたものである。が、教え諭そうとせず単なる事実を述べているだけという口調の言葉であるがため、かえって胸にすっと入るのである。周囲の大人に敬意を持って接する人間はこれまでいなかったが、山内講師がその最初の一人になりそうだった。親には感謝はしているが、敬意とまではいかない。
テストも終わり、ほっとした空気が教室内に現れたころのことだった。
三年六組の教室には、一つ、必ず空いている机がある。
その机の主に向かって、クラスメート全員で手紙を書こう、などということが言われたのが、ある日の五時限目のことである。『総合』という何をするのか皆目見当のつかない教科にふさわしいとでも思ったのだろうか。やたらと張り切る教師に、冷めた様子でしぶしぶ従う生徒たち。怜もその一人だった。話したこともない相手に何を書けばいいのか、さっぱり分からない。五十分してどうにか書き上げはしたが、内容を気に入ってもらえる自信はない。「学校に来なよ」的なことを書けば良かったのだろうか。話したこともない相手である。しかも、そもそもそんなことは考えたこともない。むしろ、来ないことに何らかの理由があるのなら、それを尊重してやればいい。学校に来ないことを可哀想だという気は怜にはない。来ないなら来ないで、その来なかったことを活かして今後、生きていくしかない。そうするしかないし、それでいい。あとは、覚悟の問題である。
さて、書いた手紙は届けなければならない。その段になって、問題が起こった。
誰が届けるか。
郵便制度を利用しても良いだろう。しかし、励ましの手紙が郵便で届くというのも興が冷める。さらに担任教師が届けに行くよりは、クラスメートの方が良いだろう、ということになった。では、誰が。議論は紛糾し、六時限目になだれ込んだ。
義侠心というよりは単に面倒くさくなった怜が名乗り出たのが六時限目が半分過ぎたくらいのときだった。クラス中の目がいっぺんに集まり、その中には怜に対して批難の視線を送る者もいた。まだ残り時間もあるのに、なぜこのタイミングでという輩である。
「オレが行きます。そんなに回り道にもならないし」
怜にはそんな輩に気をつかう気などなかった。怜に便乗して、じゃあ俺も一緒に、などという男子も出始めたが、
「オレ一人でいいよ」
とはっきりと言って彼らを鼻白ませた。なんで、ぞろ何人かで一緒になんて話になるのか、意味が分からない。行きたければ、最初から名乗り出ればいい。他人がやったからじゃあ自分も、などという己の意志のない人間は、怜にとっては唾棄すべき者たちだった。そんな人間と肩を並べて歩くのは気分が悪い。
一緒に帰るために校門で待っていた環がそういうことを言い出さなかったのは幸いだった。
「スズちゃんはちょっと変わってるけど、すごくいい子よ」
手紙の受取主は環の友達らしかった。話によると、小学校からの付き合いらしい。二年の夏休み明け頃から学校に来なくなってからも、休日に一緒に遊びに行ったり、メールのやり取りをしているという。
「不登校になったのはね……」
と話し始めた環の言葉を、怜は遮った。興味がなかったということもあったが、その人の行動の理由をその人以外から聞いて理解した気になるのが嫌だったのだ。
環はスズ――橋田鈴音の家の近くまで案内してくれた。
「あとで聞かせてね」
そう言って彼女は帰路を取った。
怜は首を捻った。聞かせるほどのことがあるだろうか。ただ手紙を渡して帰るだけである。インターホンを押すと、鈴音の母親だろう女性が現れて用件を聞いた。怜が、クラスメートであることを告げ、クラスの用事で鈴音さんにお会いしたい、ということを言うと、待つように言われた。しばらくの後、玄関のドアが開き、しかし、出てきたのは母親だけだった。
「ごめんなさい」
申し訳なさそうな顔で、クラスメートには会いたくない、と鈴音が言っていると伝えてきた。
じゃあ、ということで手紙を置いて帰って来ても良かったのだが、そこで先ほどの環の言葉を思い出した。
――あとで聞かせてね。
その言葉は、聞かせるだけのことはしろ、とも取れる。深読みのしすぎであるかもしれないが、怜もせっかく来て子どもの使いで終わる気はなかった。
「鈴音さんに伝えていただきたいことがあるんですが」
鈴音の母親は、続く怜の言葉を聞くと、意外な面持ちを作ったが、ちょっと待っててね、と言って、もう一度取り次ぐために家の中に入った。少しして現れた彼女が、鈴音が部屋に上げるように言っている旨を伝えてきた。これで環に話せるだけのことにはなりそうである。
「それで? どういうことなの?」
飾り気の少ない簡素な部屋の主は、怜を入れると、ベッドに腰を下ろして言った。Tシャツとハーフパンツというラフな格好だったが、ハーフアップにしたロングの黒髪が年よりは大人っぽい印象を与えていた。
「なにが?」
怜は、素知らぬ顔を作った。少女はいらだった様子を見せると、
「お母さんに言ったことよ。『鈴音さんのことが前から好きで今日は告白に来ました』っていうやつ」
と値踏みするような目を向けた。
怜は学生鞄の中にあった手紙の束を取り出して、鈴音の前に出した。彼女はそれには目もくれずに、
「答えて」
と迫った。
「物を届けにきたんだから、会うのが礼儀だろ」
それが怜の答えだった。門前払いを食らいそうになったとき、彼女に興味を持ってもらえるようなことを言わないと会えそうにないと考えて、とっさに思いついたことを言ったのであった。とっさにそんな言葉が出てきたのは、ここ最近のクラス内での経験からであった。同学年の子は異性と付き合うということに格別の興味があるらしいということが知識として身についていた。こうなると嫌な経験も決してマイナスだけではないということになる。
鈴音は細い眉を寄せた。突然の告白は、会わせる方便として言ったことであるということが理解できたのだ。
「普通、そんなこと言うかな」
少女は呆れたような声で、差し出されている手紙の束を受け取ると、小さなテーブルにぞんざいに投げ捨てた。
「座ったら?」
怜は素直にそれに従った。
「で? 学校に来いとか、そんなことが書いてあるんでしょ」
「さあ、他人が何を書いたかは知らないよ」
「あなたは書いてないでしょ」
鈴音は確信を持っているかのように言った。怜は首肯した。少女は、手紙の束の中から一通選び出すと、読み始めた。その手紙に一通り目を通すと、
「なに、コレ。好きな本のことを書いてるだけじゃない」
呆気に取られた声を出した。どうやら手紙は怜のものらしい。
「他に書くことが見つからなかったんだ。それでも苦労した」
「悪かったわね、苦労させて」
鈴音は軽い嫌味を声に乗せてそう言うと、
「変なの。学校に来いって書いてない人が書いた人の手紙を持って来るなんて」
続けたときに、部屋のドアにノックの音がした。
鈴音が応えると、彼女の母が焼き菓子と紅茶をトレイに載せて入って来た。娘と、娘のカレシ候補の少年を交互に見て落ちつかなげである。
「ごゆっくりね、ええと……」
「加藤です。加藤怜」
怜は鈴音の母に、門前でした自己紹介をもう一度繰り返した。
興味ありげな顔の母が出て行ったあと、鈴音が迷惑そうな顔で、
「あの顔、お母さんはあなたが言ったこと信じちゃってるんじゃないの。どうすんの?」
訊くと、
「告白されたけど断ったって言ってくれればいいだろ」
軽い調子で怜が応える。
「もしわたしが信じたらどうすんのよ。ウソの告白で傷つけるかもしれないのよ、女の子を」
「謝る」
臆面もなく言う怜に、初めて鈴音の仏頂面が崩れた。
「タマちゃんの言ってた通りだわ。ほんっとに変な人」
微笑をこぼしながら言う少女。タマちゃん、とは環のことだろう。彼女からどういう情報を得ているのだろうか。
「それは女の子同士の話よ、加藤くん。でも、いろいろ聞いてるわ」
意味ありげな笑みでそう言うと、冷めないうちに、と紅茶を勧めてきた。怜は無言で紅茶を飲み干すと、しばしの沈黙が訪れた。初対面の子である。話すことも特にない。そのまま沈黙していても仕方ないので、怜はおもむろに学生鞄の中からプリントを取り出した。
「あのさ、お前、英語できる?」
鈴音の眉がくもる。それは突拍子もない問いに対してではない。
「お前ってやめてくれない。鈴音っていう名前があるんだからさ」
「じゃあ、鈴音。英語できる?」
鈴音は額に手を当てて芝居がかった風で頭を振った。
「今日初めて会った女の子を呼び捨てですか?」
「スズちゃん?」
「それは友達にしか許してない」
「鈴音さん?」
少女は諦めたようにため息をついた。
「やめてよ、スズでいいわよ、加藤くん」
「レイでいいよ」
「そういうわけにはいかないわ。あなたのことで、タマちゃんとの友情を壊したくないからね」
怜を愛称で呼ぶことがどうして女同士の友情の妨げになるのか、怜自身には分からなかったが、それは訊かなかった。訊いても女同士の話である。答えてはくれないだろう。
「それで、何の話だっけ?」と鈴音。
「英語できる? 宿題があるんだけど」
塾の宿題である。テストが終わったからといって山内講師の手は弛まない。どころか、さらに少し厳しさを増した。
「教えろってこと?」
それには答えずに怜は、英語のプリントを広げ、さっさと分からないところを訊き始めた。参考書がないと埋められないところなのである。
「あのさ、わたし、不登校なんだけど。勉強なんてしてると思う?」
そう言う少女の注意を、怜はある方向に向けた。彼が指差した先に本棚があり中学三年生用の参考書が並んでいた。
「女の子の部屋をじろじろ見ないでよ」
憤懣やるかたない振りをした鈴音だったが、菓子のトレイを机の上にかたすと、怜の横に座り、彼のプリントを手伝ってくれた。しばらくの特別授業により、プリントの空欄はきれいに埋められた。
「頭いいんだな。サンキュー」
すっかり終わった怜の満足そうな顔を見ていた鈴音は、
「加藤君は聞かないの?」
唐突に訊いてきた。
「わたしがどうして学校に行かないのかとか、何か学校に嫌なことがあるのかとかさ」
続く言葉に、プリントを鞄にしまった怜はすぐ横にいる鈴音をちらと見た。少女の顔が皮肉な笑みを作っている。
「前に来た『クラスのお友達』はいろいろ励ましてくれたりしたんだけど」
彼女は助けを求めているのだろうか。あるいはそうだとして、しかし、怜にできることは何もなかった。
「自分の問題は自分で解決するしかない。でもそもそも解決する必要はないのかもしれないし、そもそもその問題は問題じゃないのかもしれない。それを決めるのも自分なんじゃないか」
怜は静かに言った。
少女ははっとした顔を作った。その唇から、加藤くんは強いね、という呟きが漏れた。
「でも、そんなに強くない人はどうすればいいと思う?」
鈴音は目に真剣な光を溜めて訊いてきたが、その問いに答えはなかった。ヒロインを助けるヒーローを気取ることができたらどんなにか素晴らしいことだろう。いや、助けることはできるかもしれない。しかし、助け続けることは……。
部屋が薄闇に溶けてきた。
「電気を点ける時間まで引き止めてたら、タマちゃんに嫌われちゃうわ」
鈴音の婉曲な言葉に怜は席を立った。階段を下りたところで、鈴音の母親が現れ、名残惜しそうな顔で、怜を見た。
靴を履いた怜があいさつの為に振り返ると、鈴音が決然とした顔を作っているのが見て取れた。彼女は、怜を真正面に見つめると、おもむろに切り出した。
「お母さん、わたし、明日から学校に行くわ」
突然の言明に横にいた母親が驚いたように娘を見た。鈴音はそのまま怜を見つめ、
「加藤くん、明日の朝、迎えに来てくれる?」
どこか挑戦的な調子で言葉を継いだ。
「さっきの告白、受けることにするわ。仲良く学校に登校するのは、中高生カップルの基本だよね」
彼女の視線とともにその意志が伝わってきた。怜はためらわなかった。間接的にではあるが自分が招いた事態である。責任を取らなければならない。明日迎えに来ます、ということをいまだ驚きの表情を張りつけたままの鈴音の母に告げ、玄関を出た。
夕暮れの中を歩く怜の胸に気がかりが一つ。環はこの行動をどう評価するだろうか。普通であればいい気分はしないだろう。普通でなかったとしても失礼な行為には変わりない。何にせよ、事の顛末を報告し、彼女の審判を仰がなければならない。家に帰り部屋に戻った怜は、携帯を手にとって環の番号を呼び出した。