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プラトニクス  作者: coach
119/281

第119話:因果の外にある理

 訳もなくイライラとする。

 そんなときが怜にもある。

 具体的に何か嫌なことがあったというわけではない。わけでないのに関わらず、気分が悪い。世界中が自分の敵に回っているのではないかと思えるほど、周囲で起こるあれやこれやがいちいち胸にチクチク刺さる。

 これを「心の風邪」と怜は呼んでいる。

 心が病気にかかって、少し休養が必要な状態。

 この状態になると、基本的に人とは会わないようにしている。体が病気になった時、人に会わないのと同じだ。病気を移しはしないまでも、不愉快な思いをさせるかもしれない。それを危ぶむのである。経験上、大体にしてこの症状は一日あればおさまる。発生に原因が無いのと同様に、消滅にも原因は無く、時のしからしむるところによって、自然と治るのである。

 なので、土日であれば何ら問題は無い。部屋に閉じこもっていればいい。家族と接触しないわけにはいかないが、家族からは常に苛立ちを与えられているので、この状態であるからといってそう大した変わりはないし、逆にこちらがいらいらした態度で接してしまったとしても、それはそれ、たまにはそういうことを甘受してもらってこその家族だろう。もちろん、後から説教を受けることになるだろうけれど。

 さて、今日は平日である。

 天気も良い。快晴の夏空だった。

 学校に行きたい気分ではなかったが、心が病んでいるからといって、それで休ませてくれるような親ではない。仮にそう言ってみたとしても、「学校で何かあったのか」と勘繰られて、いっそう面倒なことになる。

 怜は仕方なしに、制服に身を包んだ我が身を通学路へと導いた。

 足が重い。

 その重い足取りで歩いていく先に付き合っているカノジョの家があるわけだけれど、別に、一緒に登校することを約束しているわけではない。たまたま時間があえば、付き合っている者同士として、学校までの道を同じくするだけである。

 会わなければいい、と怜は思った。

 そういうときに限って会うのが、人の世の常である。

「おはよう」

 カノジョの家の前を通りかかったまさにそのタイミングで、環は出てくると、まるでその偶然が当然ででもあるかのような平然とした声を出した。

 立ち止まった怜はため息をつくのをどうにか押しとどめた。

 おはよう、と返す自分の声が自分で分かるほど素っ気ない。分かりはするのだが、それを修正することができなくて、そこにカノジョに対する甘えが含まれているのかもしれないと思えば、さらに気分が暗くなる。

 環は、おや、という顔をしたが、すぐにそれは微笑みに取って変わられた。

 何を理解したのか、そういう理解の仕方にさえ、不快を感じる怜は、それを

「子どもと付き合って楽しいか、タマキ」

 つい言葉にしてしまった。

 環は小首を傾げるようにした。「わたしは、そんな風に思ったことはないけれど」

「でも、今はそう思ってる。だろ?」

「レイくんは、わたしのことを買いかぶってるんじゃないかな」

 怜は歩き出した。

 環がふわりと隣に来る。

 怜はまっすぐ前だけ見るようにして歩いた。少しして、

「わたし、自分のことしか考えない我がままな子なんだよ、レイくん」

 横から聞こえてくる音楽的な声を無視しない程度には理性がある怜は、

「お前は自分に厳しいからな」

 そういう言い方で、自身を嘲った。

「それはレイくんの方だと思うけど」

「タマキ」

「はい?」

「これまで好意を持っていた人間が、興醒めするようなことしたらどうする?」

「そういう経験まだないですね」

「仮定の話だよ」

「そうしたら、そうですね……またその人のことを好きになれるように努めます」

「……タマキが努めるのか? 努めさせるんじゃなくて?」

「はい」

 環の声は澄んでいる。

 しかし、その答えは彼女の本心からのものであろうか。

 どうだか疑わしい気持ちが、怜にはあった。

 なので、

「その愛は仁だな」

 言った。

 普段なら思っていても口にしないようなことを言ってしまったのはイライラ病の為せる業である。

「仁ですか?」

「そう、強者の弱者に対する同情だよ」

「わたしは自分が強いと思ったことなんて無いよ」

「自分のことを強いと思う強者なんていない。自分のことを賢いと思う者がバカであるのと同じように」

 ふと見ると、環の微笑みが深くなったようである。何だか楽しそうな顔をしている。

 見なけりゃよかったと怜は思った。

 通学路に、同じ夏服姿の少年少女たちの数が増えている。学校に近づいているのだ。

 怜は立ち止まると、隣の少女を立ち止まらせてから、

「タマキ、ここから先は一人で歩いてくれ」

 言った。

「嫌です」

 返された環の声は、はっきりとしている。

 その声には、議論をする余地が無いような透明さがあったが、怜は念の為、どうしてもかどうか、訊いてみた。

「はい、絶対嫌です」

「……分かった」

 彼女は自分を試しているのだろうか、と怜は思った。だとしたら、失敗である。

 怜は歩き出した。その隣に環がつく。

 その後、二人は無言だった。もともとそれほど話すカップルではないので、これまで沈黙の機会は少なからずあったわけだけれど、それらの沈黙には重たさは無かった。今は違う。ただし、違うと思っていたのがどうやら自分だけらしいということに、怜は、校門を抜け、生徒用玄関にある下駄箱で上履きに靴をかえるときに気がついた。

 ふと環を見ると、彼女はやはり微笑をまとっている。何がそんなに楽しいのか、そのにっこりにも不満を抱いてしまう怜は、何も言わず彼女と別れた。その振る舞いを、感じ悪いことこの上ないと、冷静に自身を客観視してはいるのだが、その想いを行動へと移せない。仕方ないところである。

「おはよう、加藤くん」

 教室に入って机につくと、朝のざわざわとした雰囲気を割って、すらりとした少女が声をかけてきた。橋田鈴音である。

「スズ、今日は話しかけないでくれ」

 怜は唐突なことを言ったが、

「それはつまり、わたしに死ねって言ってるの?」

 もっと唐突なことを言われて戸惑った。

「どういうことだよ」

「そういうことがあるってことだよ」

「無いだろ」

「どうして分かるの?」

「オレと話さないってことがどうして死ぬなんてことになるんだよ」

「加藤くんは自分を過小評価しすぎだと思う」

「スズはオレより大人だろ」

「同い年だけど」

「年齢の話じゃなくて、精神的な問題だよ」

「問題は、わたしが加藤くんに話しかけたいと思ってるってことで、そのための覚悟があるっていうそのことだよ」

 鈴音の声には一片の曇りもなかった。

 環と同等、いやそれ以上に性質(たち)が悪いと怜は思った。思って口にした。

「ありがとう」

「褒めてない」

「じゃあ、褒めていいよ」

「分からないやつだな」

「もの分かりはいい方だと思うけどな」

「いやよくないね」

「加藤くん、世の中はあなた中心には回らないのよ。残念ながら」

「その言葉は自分に跳ね返るはずだろ」

「跳ね返んないよ。だって、ここはわたしの世界なんだから」

 そう言って何の屈託もない笑みを見せると、鈴音は容赦なく自分が話したいことを話し始めた。

 怜はこれほど朝のホームルームがはやく始まって欲しいと思ったのは初めてのことだった。

「スズ」

「はい?」

「これまで好意を持っていた人間に愛想が尽きることってあるか?」

「……あるよ」

「そんなときどうするんだ?」

「どうもしないよ。ただ哀しいだけ。人生ってそういうものでしょ」

 そう言うと鈴音は、一瞬遠い目をして、それからきょろきょろとあたりを見回した。まるで今いる場所を確認するかのように。そのあと、彼女は気分を変えたようで、怜の机から去った。自分の机に戻って、そのうちに別のクラスメートと話を始めた。怜はホッとした。

 その日一日は、できる限り人と接触しないようにして過ごした。

 幸か不幸か、鈴音を除けばクラスメートの中で親しい子はいない。その彼女は、朝以降は話しかけて来なかった。

 昼休みに、友人の西村賢の来訪を得た怜は、

「ごめん、ちょっと気分が悪いんだ。話しかけないでくれ」

 率直に言うと、分かった、と少しさみしそうな顔をしながらも彼は立ち去ってくれた。いいやつだということを怜は再確認した。

 代わりにやってきたのが、

「オレがお前を癒してやるぜい、レイ」

 めんどくさいテンションの男である。瀬良太一。

「帰れ、うっとうしい」

 怜は、秀麗な面に向かって簡単な言葉を投げつけた。

「おい! もっとソフトに言えよ」

 言ったのである。教室に入ってきてこちらに向かって来た太一に、賢と同じ言葉を伝えたところ、何かを勘違いしたのだろう、心得顔になったのだった。だから、はっきりと言ったわけである。

「タマキと喧嘩でもしたのか?」

「そういうことじゃないんだよ」

「じゃあ、他に原因が?」

「ないよ」

「原因が無いなんておかしいだろ」

「何にでも原因があると考える方がおかしい」

「いや、あるはずだろ、原因」

 怜はだんだんイライラしてきた。

 そうして今イライラしている原因は、明らかに目前にいるこの男であろう、と思った。

「原因が無いなんてなあ……」

 太一は納得のいかない顔をしていたが、突然、何かに閃いたかのように、

「分かったぞ、レイ!」

 なにやら得意気な顔をした。そうして、

「原因が無いことに原因があるハズだ!」

 どうだ、と言わんばかりの顔で言う。

「…………」

「あれ? どうしたんだよ、レイ。オレの世紀の発見に声も出ないのか? おーい」

 怜は席を立った。

 あっちが離れようとしないなら、こっちから離れるしかない。

「どこか行くのか?」

 太一が不思議そうな顔をして、トイレなら付き合うぞ、と続けた。

 怜は憮然とした顔で、何も答えずに廊下に出た。廊下には昼の強い光が差し込んでいる。

「おい、レイ」

 後ろからかけられた声を全く無視する形で、怜は歩き出した。

 どこに行くか、決まっているわけではない。とはいえ、人生そのものがそうであると言えないこともなく、その意味では、今の自分の状態が正しいのではないかという気もしたが、一人寂しく廊下を歩く姿が正しいのだとしたら人生は大分厳しい、と思って、その件については考え直すことにした。

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