第117話:大事なことはすぐ行おう
やればすぐに済むことを、人はしばしば躊躇する。部屋の掃除しかり、学校の宿題しかり、意中の女子にメアドを訊くことしかり。ためらって後回し。母親に怒られるまで、当日の朝になるまで、ライバル的男子が現れるまで、ギリギリまで残しておく。そうやって平和な日常の中で無駄なスリルを楽しむのである。楽しんだことを後悔することもあるけれど、その後悔自体を楽しむということもあって、なかなかにしょうもない話だ。
そういうしょうもない話の主人公を務める気は、宏人にはなかったわけで、なるならそんなものではなくスポーツ青春ドラマのヒーローとか、ファンタジー冒険活劇の勇者とかになりたかったわけだけれど、天はそのようなキラキラした配役は与えてくれなかったようである。代わりに、幼稚園の学芸会における「木」のようなつまらない役をくれたわけで、しかし、「木」ならただ突っ立っていればいいところ、宏人の役は動いたりセリフを言ったり、場合によっては殴られたりしなければいけなかった。
日曜日の夕方。終わりゆく休日に別れのキスをして、学校に行かなければいけない明日に呪いの言葉を浴びせる時間帯。
宏人はリビングを浸す夕闇の中、ソファに腰を落ち着けて、落ち着かない気分でいた。これからやらなければいけないことを考えると、ため息しか出て来なかった。ちらりと横を見る。
三人掛けのソファには、一人分の隙間を空けて、一人の少女の姿があった。一差年上の姉である。
姉は、夕方のテレビのニュースを見るとはなし見ながら、一方で組んだ膝の上に乗せたファッション雑誌をペラペラめくっていた。
――機嫌は悪そうじゃないよな……。
もっとも見た目が当てにならないことがあるのは、ここ十数年間の付き合いで分かっていた。おかげで、宏人は、女子に対するときは常に礼儀正しくするように心がけるようになった。一番身近な女の子である姉でさえいつ気分を害するか分からないのであれば、ましてクラスメートなどの他の女の子の胸にいつ苛立ちの黒雲が湧き起こるかなど測りようがない。機嫌良さそうに見えても、自制しなければいけない。
――藤沢は別だけどな。
志保に対しては遠慮する気は無い宏人である。もちろん最低限の礼は尽くすが、ご機嫌をうかがう気は無い。
宏人は、姉の横顔を見ながら、どう言って切り出したもんか、と考えたが、今さら考えるまでもないということに気がついた。友人に、姉のことを好きな男がいる。だから、紹介したい。それしか言いようがない。これには下心があるわけだけれど、それを姉に話すことはできない。
ふう、と姉は吐息を落とすと、リモコンでテレビを消して、目の前にある足の低いテーブルの上に置いた。同様に、雑誌を閉じて、リモコンの隣に置く。
「なに?」
それから弟の方に体を向けた。
いきなりまむかわれる格好になった宏人は、「え、な、なにが?」とまともに驚いた声を上げた。
「ずっとこっち見てるじゃん。気持ち悪いんだけど」
「き、気持ち悪いってことないだろ。弟が姉を見て何が悪いんだよ」
つい反射的に憎まれ口を返してしまった宏人だったが、じっと見てればそれは確かに気持ち悪いだろう、と姉の言い分が正しいことを認めざるを得なかった。
姉の目に硬い光が溜まる。
――まずい……。
と思った宏人は、この機を逃したらもう話を聞いてもらえなくなるかもしれないと焦り、
「あのさ、姉貴のことが好きなんだ」
口走った発言がとんでもないものだということに気がつくのに、それもまた焦りのせいでしばらくかかった。
「……は?」
「…………」
「……」
「…………」
「……」
きょとんとした顔の姉に、ようやく我を取り戻した宏人は、
「いや、違う! 違うから! そうじゃないって! そんなわけないだろ!」
シスコン疑惑を打ち消そうと躍起になって、否定の言葉を連呼した。
姉は、手を軽く上げるようにして、弟のテンパリを止めようとした。そうして、
「そんなに強調することないでしょ。弟が姉のことが好きで何か悪いの?」
言う。
「悪いに決まってるだろ! てか、オレ、姉貴のことなんか好きじゃないし!」
「素晴らしい日ね、今日は。いつも世話をしてやっている弟から嫌われていることが分かって。この素晴らしさを抱いて、お風呂につかることにするわ、じゃ」
そう言って、姉はソファを立ち上がった。
世話うんぬんというところに突っ込みたかった宏人だったが、そんな場合でもない。自分も立ち上がって、姉の前に立ちはだかるように、回り込む。
「ちょ、ちょっとタイム」
「なに? なんか用? わたしのことを嫌いな弟くん」
「嫌いとは言ってない、普通だよ。いや、そんなことどうでもいいから!」
「どうでもいい? ただ一人しかいない弟に好かれているか嫌われているか、それってどうでもいいことかな?」
姉は自問するように首をひねり、「うん、どうでもいいね」と言うと、
「あんたの用件もどうでもいい」
そう言って、かたわらをすり抜けようとするところを、更に回り込んで宏人が言う。
「分かったよ、姉貴。姉貴のことは尊敬してるから」
「へえ。どう尊敬してるの?」
実際はしていないのだから、どうと言われても答えようがない宏人は、
「プ、プリン!」
と、冷蔵庫の中に残しておいたおやつを敬意の印に捧げることにした。
姉は面白くもない顔で、しかし貢ぎ物は受け取ることにしたようである。
「プリンと風呂の前に、話を聞いてくれ」
宏人が言うと、一分で済ませてね、と時間に追われる大企業の重役のような答えが返って来た。
宏人は、姉のことを好きだと言っている友達がいて、彼から紹介してもらいたいということを頼まれているんだと話した。
それを聞いた姉は、腕を組んで、じっと弟を見た。
宏人はその視線に射すくめられるようにして、背筋を立たせた。
姉はなかなか口を開かない。
沈黙がものすごく怖い。
玄関ドアが開いた音がして、買い物に出ていた母が帰宅したようである。パタパタとスリッパを鳴らしてリビングに入って来ると、なにやら見つめ合う子どもたちに眉をひそめながらも、「ただいま」と声かをかけた。
「ヒロト、ちょっと来なさい」
姉は、「お帰り」と母に声を返したあと、弟に向かって言った。
宏人は、姉の背を追って二階へと行き、彼女の部屋に入った。
姉は部屋の電気をつけると、
「ヒロト、今まであんたに言ってなかったかもしれないけどさ。わたし、ケンのことが好きなんだ」
いきなり言った。
――知ってます。大分前から。
姉が隣家の幼なじみに特別な感情を抱いていることは、物心ついたときから知っている宏人だった。
幼なじみのことを語る姉の目には真剣な色があって、凛とした趣が頬に漂っている。そういう顔をしていれば、我が姉ながらなかなか見られる、といくらかシスコンチックなことを考えてしまった宏人はげんなりした。
「好きっていうかね、なんて言うんだろう、ケンはわたしのものなんだな。これはもう決まってることなの」
姉の確信ありげな声に宏人は、彼にとっても幼なじみの賢に対して心から同情した。
「だからね、ヒロト」
「う、うん」
「その子には断ってもらえる?」
「……姉貴、それは可哀想なんじゃないかな」
「ん?」
「断られるにしたって、せめて人伝えじゃなくて、本人から断られるくらいのことをされてもいいと思うけど」
――よく言う……。
宏人は自分で言っていてうそ寒さを覚えた。ひとづてに好意を伝えようとするような輩には、ひとづてに返事をすれば十分だろう。
宏人には、新たに友人になった少年の我が姉に対する恋路を応援してやろうなんていう気持ちは1ミリたりとも無い。その恋が成就する可能性がゼロであることもあるけれど、仮にほんの少しあったにしろ、とても身内を紹介したいような友人ではないのである。
にもかかわらず、彼を擁護する発言を行ったのは、例の下心のためだった。
――姉貴の口から断られれば納得するだろう。
「……あんたの言う通りかもしれないわ」
「え?」
姉は、これもいつまでもフリーでいるわたしがいけないんだしね、と言ってから、
「いつまでもフリーにさせておくヤツの方がもっと悪いんだけど」
と声を大きくした。まるで夕風に乗せて隣家に届けようとでもしているかのようだった。
姉は、明日の昼休みに彼を中庭に連れて来るようにと言った。
素直に聞き入れてもらえると、返って姉に悪いと思ってしまう宏人は自分の気弱を笑った。
「わりい、姉貴」
「いいわ。告白を断るのなんて慣れてるから」
「何回かあるんだっけ?」
「覚えてない」
「そんなに?」
「モテる姉を持った心境は?」
「なんでオレはモテないんだろうって、不思議な気持ちになる」
「あんた、もうモテる必要無いじゃん」
「なんで?」
「カノジョいるんだから」
「カノジョ……?」
そんな色っぽい存在がいたとは初耳だった。その割には全く色気のない生活を送っているのはどういうことなのだろう。
「ていうか、誰のこと言ってんの?」
「シホちゃんよ、決まってるじゃない」
あ、と宏人は口を開けた。
姉の中では、宏人と、彼女の部活の後輩である志保は付き合っていることになっているのだった。
「シホちゃんとはうまく行ってるんでしょうね?」
まずい方向に話が転換したことを感じた宏人は、風呂に入ったら、と姉に勧めた。
姉の目が冷たい色を帯びる。
「シホちゃんを泣かせたらただじゃおかないからね」
――オレが藤沢を……?
逆はありそうだが。
「今日、シホちゃんに電話したの?」
「電話?」
「そう」
「何の?」
姉は大仰なため息をついた。
「元気かどうか確かめるためでしょ」
「具合悪いって話は聞いてないけど」
「あんた、バカじゃないの? 本当にわたしの弟?」
残念ながら、という言葉を呑みこんで宏人が教えを乞うと、カレシたるもの、カノジョに電話もしくはメールもしくは直接出向いて、そのご機嫌伺いを毎日するのは当然だという鉄の恋愛ルールを示された。
そのあと、姉は片手の親指と小指を立てるようにして電話機の形を作り、それを自分の耳に押しあてた。
宏人は姉の命令に従うと、部屋を出て、自分の部屋に入った。