第116話:最初の贈りもの
他店で自分の服を選んでいた父が合流する。
怜の服の清算が終わると、母の携帯にメールが入ったようである。
「決まったみたいね」
携帯のディスプレイを見ながら母が言う。
どうやら都が、己の身を飾る服をどれにするか、決めたらしい。
怜は片手に、買った服を入れた紙袋を持つと、同様にしている父とともに母の後ろに従って、妹とそのアドバイザーであるカノジョの元へと向かった。
空は全くのいい天気で、通路をただ歩くだけでも体が火照るようである。
目標の店に着くと、その店先で、都が待ちわびたように、早く早く、と手を振って急かした。
「別に誰かに取られるわけじゃないでしょうに」
母が苦笑する。
いや、グズグズしていたらひょっとして取られるんじゃないだろうか、と怜は思ったが、いざ行ってみると妹の買いたい服はすでにレジカウンターの上にあって、清算だけすればよい状態になっている。考えてみれば、妹のそばには環がいるのである。彼女に限って、その種の疎漏があるはずがなかった。
「すごい可愛いやつ、タマキ先輩が見つけてくれたんだ。それを着たわたしを見れば、みんなびっくりするよ」
都がはしゃいだ声を上げている。
外見だけでも可愛くなるのならそれは喜ばしいことに違いないと思った怜だったが、ひょっとしてその外見に騙される不幸な男子が出てくるのではあるまいかと危ぶんだが、そうなったらなったで妹をその彼に押し付けることによって自分は彼女から解放されてよっぽど喜ばしいことになるではないかという結論に至った。
それはそれとしても、およそ可愛さのかけらもない妹を可愛くするという大事業を見事やり遂げてくれたカノジョを怜は、誇りに思った。
「ミヤコちゃんはもともとが可愛いから、何を着ても似合います」
環の力みのない穏やかな声は、聞く者に真実の音色を聞かせる力がある。
都は感動したように、瞳を潤ませた。
これで一通りの買い物を済ませた一行は、アウトレットモール内の一角にあるフードコートで昼食を取ることになった。洋食の店。既に十二時を回って、一時に近い時刻だった。
テーブルに案内されると、怜は椅子の一つを引いて、環を招いた。
「ありがとう」
環がそっと微笑んで座る。
「そういうことをどこで覚えて来るのか、我が子ながら不思議な子ね、あなたは」
感心したような、呆れたような口調の母は椅子の後ろに立ったまま動かず、我が夫に、息子を見習うよう態度で示した。
父が少し慌てたような様子で、母の椅子を引く。
一人残った妹の椅子は、仕方なく怜が引いてやった。
「ご苦労」
妹が女王然とした高慢な口調で言う。
環の真向かいに座った怜は、彼女が美しい所作で食事をするのを見た。それは単に食器やナプキンの使い方が正しいということだけではなく、食事中の会話を円滑にしてテーブルを楽しくするということを難なくこなしているということである。
怜は改めて感じ入った。
環の親と会食したときの自分とはエライ違いである。
会話に加わることを控えていた怜は、その代わりに、例のプレゼントをどのタイミングで環に渡そうかと、考えていた。家族のいる前で渡した方が彼女の虚栄心が満たされるだろうか、と考えてみた怜は、
――タマキに虚栄心……?
そういうものとは無縁そうであるし、仮にあったとしても、カレシの家族の前で渡されることで虚栄心が満たされるかどうか、そもそも不明であり、何より家族に、「カノジョに初プレゼント、嬉し恥ずかしショー」を披露する気持ちにはなれないことを考え合わせて、家族と別れたあとに渡すことにした。
食べ終わると、アウトレットモールを出て、近くの美術館に行くことになった。母の趣味である。
「ええー、美術館とかツマンナイよ! わたし行かないから!」
すぐに反対した都だったが、
「美術品を見るのは面白いよ、ミヤコちゃん」
と環が言うと、じゃあ行きます、とあっさり前言を翻した。
モールからいくらも離れていないところに美術館はあって、その堂々としたたたずまいを、夏の日の下にさらしていた。
それほどの人出はなく、駐車場はほどよく空いている。ゆっくりと見られそうである。
館内に入り、チケットを買って、展示室へと入る。
照明を抑えた室内はひんやりとしていて、広い空間を使って、ポツンポツン、と絵や像が展示されている。母の好きなアーティストのもので、アメリカの人らしい。
怜は、芸術には詳しくない。一応、文化研究部で、芸術についても調べたことがあるものの、芸術に関する知識を得ることと、それを理解をすることとは別のことだと思っている。
妹も兄と同じように芸術的センスに乏しいのか、じっと一つの作品を鑑賞することなく、ちょっと見たらすぐ次の作品に向かって行く。母は対照的にゆっくりと時間をかけて見ている。それに父が付き添っている。
環は、おおむね妹と同じようにすっと作品のそばを通り過ぎて行くが、時折、立ち止まっては、じいっと長い間一つの作品を見つめ続けていた。
展示室はいくつかのブースに分けられていたが、各ブースにはそれぞれ美術館員が立っており、美術品を盗み出すための下調べをしにきた怪盗的な人間がいないかどうか、視線を巡らせている。じっと立っているだけで微動だにしないその様は、薄暗い室内の中で不気味であり、まるで幽鬼のように怜には思えた。
ブース間の通路で、環を待つ。
窓から見上げる青空は美しく、楚々と歩いてくる少女もまたしかり。美しさというのは確かに存在するのに、それをここにある美術品に感じられないのはどうしてか。怜には不思議だった。
「分かる人にしか分からないんじゃないかな。だから、わたしは助かっているんだけど」
環は、美術館の静寂を尊重するような小声である。
何が助かっているのか分からない怜だったが、問い質すにはふさわしくない空間だった。
最後のブースを見て回り出口から出ると、先に展示室を出ていた都が、待ち合いスペースでソファに座って足をぶらつかせていた。
「デートするときは、美術館以外のところにします」
都はそう言うと、ソファを立って、怜に自販機でジュースを買うようにと命じた。
「自分の小遣いで買えよ」
「わたしのことなんだと思ってるの、お兄ちゃん。あったらとっくにそうしてるよ」
怜はため息をつくと、環に何のジュースがいいか訊いた。
「お前の分もついでに買って来るよ」
環は、ちょっと考えるようにしたあと、スポーツ飲料をお願いしますと答えた。
「わたし、紅茶」と都。
少し離れたところにある自販機まで行って、二本の缶を買って来てそれぞれに渡すと、都は早速プルトップを開けてごくごくと飲み出した。一息に飲み干した後、さすがにその缶を捨てに行くくらいのことは自分でする気になったらしい。都が缶を捨てに行く。
環はまだ開けていない缶に指をかけて、しかしその前に怜を見ると、お願いがあるんですけれど、と言ったまま口を閉じた。
怜は先を促した。「何だよ?」
「嫌だって言わない? レイくん」
「これまで嫌って言ったことあったか?」
「じゃあ、記念すべき日になるかもですね」
「言ってみろよ」
環は息を吸い込むようにすると、
「一本は飲み切れないから、半分飲んでくれる?」
言った。
怜は、待った。
そして、待った。
しかし、環はそれ以上言葉を続けようとせず、口を閉ざしている。仕方なく怜が、
「で、そのお願いっていうヤツを待ってるんだけど」
言うと、
「もう言いました。聞いてなかったんですか?」
環は驚いた顔で答えた。
「缶ジュースを半分飲めっていうのがお前のお願いなのか?」
「やっぱり無理でしょうか」
「タマキ」
「……はい」
「オレはお前のなんだ?」
「……カレシです。少なくともわたしはそう思ってるんだけど」
「じゃあ、それ相応の頼みごとをしてもらいたいもんだ」
「……え?」
「缶ジュースを半分飲めなんていうことで、そんな深刻な顔するなよな」
「根が遠慮深いんです」
「なるほど」
怜は、彼女の代わりに缶を開けてやると、それを手渡した。
環は、ちょっと横を向くようにすると、喉を伸ばすようにしてあご先を上げて、ジュースを飲んだ。
「はい」
怜は、環から半分がた中身が入った缶を受け取ると、その飲み口に唇をつけた。
喉から流れ込むスポーツ飲料が心地よく体を潤した。
飲み切って、缶を捨てに行き帰って来たところで、父と母が出口から出て来るのを見た。後ろから現れた妹はトイレに行っていたらしい。
「帰りましょうか」
母が言う。
車は帰路を取った。
まだまだ明るい日差しの中をワゴンが走る。
最後尾の座席にいる怜は、環が中心となって繰り広げられる車内の会話を聞くとはなし聞きながら、窓から空を眺めていた。いつの間にか雲が出て来ている。太陽は、自分を隠そうと企む白雲の縁を明るく染め上げるようにしていた。
車は安全に家路をたどり、五時前には環の家の近くに来ていた。
「先輩、今日はありがとうございました!」
都が心底からの感謝の意を込めたような温かな声を出す。
環は、どういたしまして、と返すと、母と父に礼を言った。
「また良かったら一緒に行きましょうね」
と母が言うと、父が大仰に同意していた。
車の外に環が出るのに続いて、怜も出た。
家族には、「タマキを送って行くから」と言って、先に帰るようにと告げる。
「あの、レイくん。とっても嬉しいんですけれど、わたしの家、すぐそこだよ」
「タマキ」
「はい」
「カレシとカノジョっていうのは平等じゃないとダメだよな」
「理想ですね」
「さっき一つお前の願いを叶えただろ。だから、今度はこっちの願いを聞いてほしいんだけど」
「分かりました。あんまり喉は乾いてませんけど、がんばってみます」
「いや、ジュースを飲ませる気はないよ」
そう言うと、怜は、環の家から少し遠ざかる方向に彼女をいざなって、小さな公園に入った。
他に人気はない。
怜は、環に目をつぶるように言った。
「目……ですか?」
「そう」
「分かりました」
環は長い睫毛を伏せるようにして、目をつぶった。
「オレがいいって言うまで開けるなよ」
「分かりました」
怜はポケットから、ビニールの小さな袋を取り出すと、その中に入っていた鳥のペンダントを出して、チェーンの留め金を外した。そうして、少女の首の後ろに手を回すようにする。髪の先が手の甲に触れて、怜はくすぐったさを感じた。
留め金が留まらない。
環の口元に微笑の影が差す。
怜は機先を制した。「タマキ、目だけじゃなくて、口も閉じてろよ」
「はい、でも一つだけ言わせてください」
「なんだよ」
「手伝いましょうか?」
「だったら、ちょっと黙っててくれ。どっちにしても口を閉じてるんだ、分かったな」
「はい」
いくらやっても留まらないので、怜は自分の不器用さにいらいらしてきた。仕方なく、怜は環の後ろに回って、直接留め金を見てやることにした。すると、つなげることができた。ふう、と安堵した怜が、彼女の前に回って、
「目を開いていいぞ」
言うと、環はゆっくりと目を開いた。そうして、唇に指を当てた。「口は?」の意である。
怜は、口を開くことも許可した。
「良かった。もしも口を開けなかったら、感動を伝えるために、他の方法を取るしかないからね」
環は、ペンダントトップの鳥を指でそっとさらうようにした。「綺麗……」
怜は改めて言った。「プレゼントなんだ。受け取ってくれる?」
環はふるふると首を横に振ると、
「気が変わったっていっても、もう返しませんから」
言った。
「そんなこと言わないよ」
「ずっと大事にしてもいいですか?」
環は微笑みを含んだ目をしていたが、そのうちにすっと笑みは消えて、真面目な色が残った。
怜は、もうお前のものだから大事にするなり捨てるなり好きにしていい、と答えた。
「じゃあ、そうします。ずっと大事にしますから」
そう言う少女の目に挑戦的な光が現れて、しかし、それはすぐに消えた。
怜は、改めて環を家まで送ることにした。
「この鳥、ほととぎす、ですか?」と環。
「多分な」
怜は、環の手を取った。
環は常になくふわふわした落ち着きのない歩き方をしていて、どこか危なっかしい様子である。
「大丈夫か?」
「モチロン。完全に平気よ。今なら空を飛べそう」
飛んで行かれたら困ると思った怜は、家までずっと、心持ち強く環の手を握っていた。