第113話:加藤家の恒例行事
「お兄ちゃん、起きて。お兄ちゃん!」
何かしら悪い夢を見た気がして、呼び声に応じて目覚めてみたら、そこもまた悪夢の内であった。
怜は、ぼんやりとした朝の光の中で自分を覗き込む少女の顔を見た。そのつるりとした卵型の顔は、優美さや淑やかさとは無縁の造形であって、いたずらが三度の飯より好きであるような小生意気な微笑で満たされていた。妹の都である。
怜は二三度目をぱちぱちさせて眠気を払おうとすると、ベッドの上に体を起して時計を見た。午前六時である。アラームは七時半にセットしてある。いつもは六時にセットしてあるのだが、今日は休日、少しゆっくりと寝るために一時間半余計にベッドの中に潜り込んでいられるように細工しておいたのだ。にもかかわらず、平日と同じように起きられる不思議。たまの休日にちょっと大目に寝ることさえかなわない我が身を、怜は憐れまないようにした。そうして、最愛の妹に――というのも、妹は一人しかいないので、「最も」という形容をつけても論理的に間違ってはいないハズ――どうして頼んでもいないモーニングコール役を自らイソイソ行ってくれたのか、尋ねた。
「今日はアウトレットモールに行く日でしょ」
「答えになってない」
「早く準備しようと思って早く起きたの」
「頼む、もっと分かりやすく言ってくれ。お前が自分の準備をするために早く起きたってことは分かったけど、だからって何でオレまで起こすんだ?」
「ヒマだったから」
怜は妹の意図を完全に理解した。そうして、そもそも理解する必要などなかったのだということに気がついた。なにせ妹は兄に対する思いやりという気持ちを全く持たない子であり、彼女の兄に対する行為はすべからく兄を害せんとする悪意に満ち満ちている。それが悪意であるということだけ分かれば、十分。その中身まで聞く必要は特に無い。
「幸せだねえ、お兄ちゃんは」
今まさに幸せを壊されているところなのに何を、と思う怜に、
「だって、身支度をしっかりと整えられるように早めに起こしてくれる心優しい妹がいるんだもんね」
今さっき「暇だったから」と言ったばかりの口でしゃあしゃあと言ってのける都。前言を華麗に翻して恥じない妹を恥ずかしく思った怜は、彼女から離れるためベッドから下りると、机の上に用意されている英語の問題集を手に取って部屋を出た。後ろから妹が追ってくる。
「お兄ちゃん」
「何だよ」
「お腹空いた」
「冷蔵庫が暗号付きでロックでもされてるのか?」
「何言ってるの? 寝ぼけてるの?」
怜は婉曲な表現を改め、もっと直截に言うことに決めた。自分で冷蔵庫を自由に開けて中に入っているものを何でも食べろ、と言ってやる。すると妹は階段を降り切るまで無言になった。分かってくれたか、などと胸を撫でおろすようなことを、怜はしない。彼女とは長い付き合いなのである。それが証拠に、ダイニングに入ってテーブルに参考書を置いたところで、
「お兄ちゃん。今日はわたしのご機嫌を取った方がいいと思うよ」
妹の静かに脅迫するような声が、怜の背を打った。
怜は冷蔵庫を開けて水の入った容器を取り出しグラスに注ぐと、ごくごくと喉を潤した。それから、トーストでいいのか、と妹に尋ねた。
「ちょっと固めに焼いてね。二枚。塗るのはバターとオレンジマーマレード。バターは薄めに、でもトースト全体に隅々まで塗って。マーマレードの方はたっぷりね。それから、ハムエッグとサラダも作って。飲み物はアップルジュース。食後に、バナナとミルクティね。ミルクティは砂糖あり。でも、甘すぎないようにして」
こういう要求に毎日ハイハイと答えているのだから、母とは偉大である。世の中で最も偉大な存在ではなかろうか。母親であることができたら世の中の大抵のことには耐えられるに違いない。特に、都のような子の。
朝の清々とした光が室内を白く染めている。
しばらくして妹の分まで朝食を用意した健気な兄に、
「うんうん、そうして素直にしておいた方が身のためだよ」
かけられたのはお礼の言葉ではない。怜は妹を無視して、英語のテキストに向かった。朝食を作ってやったのはけして妹の脅しめいた言葉に屈したわけではない。単に面倒になったのである。妹とあれ以上言い争う時間と労力があるのなら、それを料理の方に使ったほうが有効、と考えを改めたのだ。
「何で身のためなのか、聞きたい?」
「興味ない」
怜はトーストを食べながら、英語の長文の復習をしていた。昨夜読んだ文章をもう一度読み直しているのである。食べながら物を読むのは行儀の良い所作ではないが、礼儀作法を守るだけでは高校には入れない。読んでいるうちに疑問点が出てきて、テーブルの上にあったペン立てからペンを取るとノートにメモを書き込んだ。
先ごろ行われた一学期末の試験の得点は芳しいものではなかった。順位など詳しいところはまだ出ていないが、点数さえ分かれば十分である。勉強はかなりしたはずなのにそれが数字になって現れない。努力したものが成果にならないときの悔しさというものを怜は初めて味わっていた。苦い味がした。
「まったく勉強しなかったお兄ちゃんが、今じゃ、可愛い妹との会話よりも参考書と会話するようになるんだもんね。三年生って大変だなあ。わたしは今から勉強するようにしようっと」
是非そうして欲しいものだ。妹が来年受験生になったとき、受験のストレスからティッシュ箱を投げつけられたり、金切り声で叫ばれたり、壁を蹴られたりしたらたまらない。
朝食を食べ終わった怜は、妹にバナナとミルクティを給仕してやった。「お兄ちゃん、砂糖入れ過ぎ!」というお褒めの言葉をたまわったのち、怜はシャワーを浴びにバスルームへ入った。今日はこれから両親と妹と一緒に隣市のアウトレットモールに行って、服を買うことになっている。これは、加藤家恒例の行事である。
それに怜のカノジョも同行することになっているのは、妹のわがままの所為だった。妹は、もう両親と一緒に行動するような子どもではないので「お金だけくれればいい」と主張したが全く両親から認められないので、せめて同行者をつけて道中を華やかにしようと企んだのだった。怜としては、妹に付き合わせることなど罪悪であるとさえ思っているのだが、環は快くOKしてくれた。頭の下がる思いである。いずれ何かお返しする必要を怜は感じた。
シャワーを浴びて服を着替え、リビングでコーヒーを飲んでいると、両親が起きてきた。現在、七時半前。本来ならこの時間まで優雅に寝ていて、母が用意しくれた朝食をふわふわと食べ、それから加藤家の小旅行に備える、というスケジューリングであったのに人生はなかなか予定通りにはいかないものである。
「せっかく川名先輩が来てくれるのにどうしてそんな格好なの、お兄ちゃん?」
テレビの朝のニュースに飽きた妹が、ヒマつぶしの材料を兄の服装に求めた。怜の服装は、ポロシャツにタイを合わせ、下はデニムのジーンズという、確かに街頭でオシャレ雑誌の読者モデルに誘われることは無いだろうが、道行く人々からヒソヒソと後ろ指を指されるような格好でも無いと思われた。
「川名先輩、可哀想。いっつもそんな格好してる人と歩かなきゃいけないなんて」
しかし、妹の評価は違うらしい。
怜は妹の評価など気にしなかった。
「じゃあ、今日はオレの服をタマキに選んでもらうことにするよ」
軽く返すと、
「お兄ちゃんって将来奥さん無しじゃ何にもできなくなるタイプだね。『おい、オレのハンカチはどこにやった、靴下は?』みたいな」
ああ言えば、こう言う妹である。ひとりケタケタと笑う彼女のそばで、
――そんなタイプがあってたまるか。
怜はコーヒーをすすった。タイプというのは人間の類型という意味だろう。そんなピンポイントな類型があるわけないと思っていた怜の耳に、コホコホとむせるような音が聞こえてきた。ダイニングテーブルの方からである。そこには父と母しかいない。怜は音の方に目を向けるような無作法をしなかった。
環は約束の時間より五分前に現れた。それを一番に出迎えた都は、「川名先輩、今日はありがとうございます!」と意中の男性のハートを撃ち落とさんとするかのようなとびきり愛想の良い声を上げた。そんな声が彼女のどこで製造されるのか不思議である。少しはそういう声を兄に向けてみろ、とは怜は思わなかった。普段の妹を知っている分、そのギャップに気持ちが悪くなるだけである。
妹の後ろから近づいていった怜の目に、環の姿が映った。怜は、おや、と思った。環は大分地味な服装をしていた。梅雨空のような色をしたグレーのワンピースを身につけて、黒髪にちょうちょ型の青いリボンを留めてワンポイントとしている他には装飾が無い。何だか華やかさに欠けるような気がするのは気のせいか。
――ミヤコのためか。
環は都に気を遣ったのだろうと怜は思った。自分の影に、今日の主役である都を隠さないようにしようという心づかいである。怜は心の中で環に頭を下げたが、よくよく考えてみれば妹のために感謝の意を表すこともないのであった。それにそもそも、妹を主役扱いしてやる必要も特に感じなかった。
環は、玄関先で父と母に挨拶をすると、手に下げていた紙袋を、「母に言付かりました。頂き物ですが皆さんで召し上がってくださいとのことです」と穏やかに言って、大いに父母を恐縮させ、それからようやく怜に目を向けた。
「おはよう、レイくん」
その声は夏の朝の光のように軽さと明るさを合わせもっており、怜の心をふわりとさせた。面倒であるとまでは思わないがあまり面白くもない行事に色がついた瞬間だった。怜は妹のためではなく自分のために環に感謝した。