第112話:強いられた取引
一体どんなお宝を見せてくれるのだろうかと期待せず待っていた宏人の前で、信吾は何かを引き出しから取り出すと、背を震わせ始めた。ついで、ククククという不気味なしのび笑いをもらした。
――大丈夫か、コイツ?
いや、大丈夫じゃないと宏人の危機センサーが告げている。眉をひそめた宏人が今日はもう、グループに参加してもらうことを頼むのは諦めて、というか永遠に諦めて、早々にこの部屋を出た方が良さそうだと足に力を入れて立ち上がろうとしたちょうどその時、クルリと振り向いた信吾が瞳に、ねめつけるような傲然とした色を浮かべて宏人を見た。宏人は膝を立てた状態で、立ち上がるのをやめた。信吾の手がすっと宏人に伸びて、その手の中にある拳銃のような物が宏人に狙いを定めていた。
「フ、引き出しからエロいフィギュアが出てくるとでも思ったか?」
信吾は嘲るような口ぶりで言った。
「いや、思ってない」
「黙れ!」
「おい、一体何のつもり――」
「黙れと言っているんだ!」
隣室に響きそうなほど大きな声で信吾は叫んだ。それを聞きつけた誰かが隣の部屋から助けに来てくれないもんか、と宏人は思った。拳銃は当然モデルガンである。しかし、何やら造りが重厚であって、人を殺すことはできないにしても、怪我をさせる力はありそうだった。銃口はぴたりと宏人の眉間に向けられている。
「質問するのはこっちだ、ミスター・倉木。いったいなぜわたしに近づいてきた?」
信吾が言う。
いよいよもってヤバいヤツだと、宏人は焦りを覚えた。VIP気取りの浅井氏に、宏人はかける言葉が思いつかない。ていうか、なんなんだよ、「ミスター」って?
「お前がラノベ好きだと? バカも休み休み言え」
――いや、もとから言ってないんだよ、そんなこと。
「おれに近づいてきたのには何かわけがあるんだろう。吐いた方が身のためだぞ」
「おい、浅井――」
「黙れ! 質問に答えるんだ! わたしに接触してきた理由を言えい!」
そう言って、恍惚とした光を瞳に宿す信吾の様子を見て、ようやく宏人は合点がいった。どうやら信吾は何かの役に入り込んでいるようである。敵性戦闘員が潜入捜査官に銃を向けるというシーンはドラマや映画で見たことがあるし、そう言えば同じようなシーンが、浅井氏のフェイバリットコミック「テンス・ゲート」にもあった気がする。それを真似て楽しんでいるのだろう。
だとすれば、宏人のなすべきことはただ一つである。信吾の演技世界に入り込んで、期待された役を演じれば良い。そうすれば信吾は満足し、事なきを得るだろう。しかし、である。良くも悪くも宏人はノーマルな男の子。アホくさい芝居にノリ良く付き合えるような器用さは持ち合わせていない。
「あのさ、浅井――」
「質問するのはこっちだ! お前はただわたしの質問にバカみたいに答えていればいいんだ!」
何度目かの怒号。
こんなとき志保がいてくれたらこの場をうまく納めてくれるのに、とつい思ってしまった自分に嫌気が差す宏人である。女の子に頼ろうとするなど、男として情けない。とはいえ、芝居に付き合うことができないとすると、いったいどう対処して良いのか分からない。浅井信吾は完全に向こうの世界にイッちゃってしまっている。
「どうした? 答えろ。答えるんだっ!」
とうとう銃口は宏人の額を小突いた。冗談とはいえ、額をコツコツされて宏人はムッとした。こうなったら一発なぐってしまおうかと短気を起こしかけた。殴れば正気に戻るに違いない。しかし、確実に信吾との仲にはひびが入ってしまう。ひびどころか木っ端みじんに砕け散ってしまえ、と思わないでもない宏人だったが、そうすると作戦指揮官である志保に申し訳が立たない。八方塞がりである。
「ミスター・倉木!」
唾が顔に飛んだ。
テロリストゴッコをしたいクラスメートに付き合わされなければならないこの理不尽。なぜ自分がこんな目に遭わなければいけないのかという嘆きは、いい加減繰り返しすぎて擦り切れている。今が決断のときなのだろうか。演技の世界に飛び込む。古い自分を脱ぎ捨てて新しい自分になる時である。未来へ向かう跳躍。大いなる一歩。力強く踏み出した足が道を作る。……そうは言っても、なかなか思いきれないものがある。せめてアブノーマルな世界へ導いてくれるのが、信吾ではなく、可憐な少女とかであれば、まだ決心もできようというものだが。
グズグズと迷っている間に、信吾の興が醒めるのではないかという一抹の期待をした宏人だったが、
「どうしても言わない気か。さすがだな、タフガイ」
ますます乗ってくる様子を見せつけられて、ついに観念した。もうヤケである。彼の人生にいかなる力学が働いているのか、この頃ヤケになることがやけに多いような気がする宏人であった。
宏人は息をついた。それから、「わ、分かった。全部話す」と声を震わせた。この声の震え自体は演技ではない。茶番に付き合わなくてはいけないという絶望からくる震えである。
信吾は偉そうにアゴをしゃくった。堂に入ったものである。彼が中々の演技派であるということは認めざるを得ない。
宏人は、銃をつきつけられたまま、自分のいるグループに入るよう勧誘するために近づいたのだ、と正直に告白した。
「お前のいるグループ?」
「オレと藤沢と富永だよ」
「なるほど」
ようやく銃口が床に向いた。信吾は、下を向いて何かを考えている様子である。その真剣な様子に、どうやらドラマは終わったのだと思って宏人はホッとした。散々迷った割には呆気ない終焉であった。しかし、それが少しの時間であったとしても、おかしな人間に付き合って茶番を演じたという事実は消えない。これは自分史に燦然と輝く汚点になるだろう、と宏人は顔を暗くした。
「別にいいけどさあ、一つ頼みたいことあるんだけど」
宏人の気も知らぬげに、そうして事実知らないのだろうが、信吾が明るい声を出した。
宏人は王女に忠誠を誓う騎士のような膝立ち状態を直し、立ち上がった。
信吾はモデルガンを机の上に置くと、へへへへ、と照れたような笑いを見せた。まことに気色悪い。宏人が、頼みとやらを言うように促すと、ボソボソとした声で「好きな女の子がいるから協力してもらいたい」などという予想だにしていなかった話をし出した。
「で、オレにどうしろって?」
自慢じゃないが宏人は、これまで女の子とのお付き合い経験が無い。恋のキューピーちゃん役を命じられてもうまくできる自信など無い。
「別にそんなことはしてくれなくてもいいんだよ。ただ、紹介してくれればさ」
「紹介?」
これも自慢にならないが、宏人には親しい女の子の友だちもいない。紹介しろと言われても困る。と、そこで、宏人の脳裏をキュピーンと駆け抜けるひらめきがあった。ま、まさか、こいつ……。
――藤沢のことが好きなのか?
宏人が現在まともに話をしている女の子は志保しかいない。志保を紹介するなら話は簡単である。これは見物かもしれないませんなあ、と宏人はわくわくした。浅井信吾がグループに入るために出した交換条件が自分と仲良くしたいことだと知った志保はどういう顔をするだろうか。苦り切った顔をするに違いない。その顔を思い浮かべて楽しんでいた宏人だったが、
――何だ……?
不意に胸が重くなって、楽しい気分が沈んだ。思わず胸を押さえた宏人だったが、この苦しさの原因はあんまり追求しない方が良いような気がして、信吾に対し彼の要求通り、志保を紹介することを約束した。
「は? 藤沢? お前、何言ってんの?」
信吾はきょとんとした顔である。
「は?」はこちらである。志保のことが気になってるんじゃないのかと確かめると、信吾は露骨に嫌な顔をした。
「そんなわけないだろ。なんで藤沢なんか。あんなブス」
宏人の腕は信吾の胸元に伸びた。ハッと気がついたときはもう遅かった。それはほとんど反射的な行動だったのである。宏人の手は、信吾の胸倉をつかんで吊るし上げるような格好になった。
「倉木?」
苦しいというよりは、何が起こっているのか分からないような様子で信吾が口を開いた。宏人にしてもそんなことをした理由が分からないので、どうしようもない。かと言って何も言わずに手を放すわけにはいかず、数秒気まずい沈黙を流した上で、
「おい、ダチの悪口を言うんじゃねえよ! 次言ったら、殺すぞ」
と芝居がかったドスを効かせた口調で言った。
信吾の目に納得したような色が映った。さっきの三文芝居の類だと思ったのである。「に、二度と言いません、倉木さん」と、下っ端の不良のような声を出した信吾に、「気をつけろ」と一言言って、宏人は手を放した。
「結構ノリいいなあ、倉木も」
信吾は満足そうに言った。どうやら誤魔化せたようで宏人は胸をなで下ろした。しかし、果たして誤魔化す必要があったのかどうか、と言えば評価が分かれるところであるが、感情に任せて行動したことで一度失敗したことがある宏人にとっては、誤魔化しは適切な行動であるように思われた。
宏人は、志保でなければ誰を紹介すれば良いのか尋ねた。そうして、クラスメートの中にも部活の仲間の中にも紹介するほど仲良い女の子はいないことを断っておいた。
「倉木先輩だよ」
「姉貴?」
盲点である。姉のことは女の子の中に入れていなかった。
「おれ、倉木先輩のことが好きなんだよなあ」
体をくねくねさせながら、信吾は宣言した。
「チョー美人だし、優しいしさあ」
姉の評価についてはともかくとして、信吾には一ミリの可能性も無いことはハッキリと言わなければならない。
「何でだよ。先輩、付き合ってるヤツいないんだろ?」
「付き合ってる人はいないけど、好きな人はいるんだよ」
「ああ、それ、あれだろ。西村先輩。でも、正式に付き合ってるわけじゃないんだろ。おれ、そういうの気にしないからさ」
――お前が気にしなくても、こっちが気にするんだよ!
そう宏人は言いたかった。姉が隣家の賢少年の事を慕っている……というより、確実に将来の結婚予定相手としていることは、公然の秘密である。それにも関わらず、他の男を紹介するなどという無神経をしたら、姉の逆鱗に触れてしまうことは確実である。
「諦めろ、浅井。姉貴は何があっても賢兄以外の人に興味を持つことはない」
「紹介だけしてくれればいいんだよ。そうしてくれれば、お前たちのグループに入ってもいい」
じゃあ別に入らなくてもいいよ! と宏人は癇癪を起こしそうになった。先ほどの志保への侮辱の件といい、どうにも好きになれそうにない男である。嫌いな人間を入れるのでは新しいグループを作った意味が無い。しかし――
「分かった。ただし、期待はするなよ」
宏人は請け合った。よっぽど断りたかったのだが、子どもの使いをやる気はなかった。志保が信吾を必要としているのなら、その必要性を満たすのが今の宏人の務めである。宏人は、もはやラノベ趣味を偽装する必要も無くなったので、急用を思い出したと言って信吾の部屋を後にした。