第110話:『お似合いの二人』
前回の続きです。
自分で自分の気持ちがはっきりと分かる人間はどのくらいいるのだろう。
少数派であって欲しいものだ、と怜は思う。
怜には自分で自分の気持ちが分からなくなるときがある。自分の行動の意味が。その目的が。その目的を持つに至った動機が。よくよく考えてみると分からない。そういうことはこれまで、中三になるまでは無かった。ただ、それはこれまでは自分の行動の意味をはっきりと言葉で説明できた、ということではなく、そもそも自分の行動の意味などに疑問を持たなかったということである。
それがこの頃変わってきた。「何でこんなことしてるんだっけ、オレ?」と考えることが多くなってきた。それだけ、以前の自分と比べると突飛な行動を取るようになってきたということだろうか。あるいは、中三になってようやく自意識というものが芽生えてきたということなのか。どちらにしても、あまり歓迎された話ではない。
紫陽花を見にカノジョを連れていくというのもそういうよく分からない行動の一つである。怜は、純粋に環と一緒にただ花を見たかったわけではない。数日前、環の様子がちょっとおかしかったことがあり、その時家まで押しかけたわけだが、その後彼女の具合がどうなったのか知りたかったのである。それを探るために帰り道デートに誘ったというわけだった。そんな遠まわりをしなくても、「何かあったのか?」と直接訊けば話は早いかもしれないが、手軽な方法が正しいとは限らない。
あるいは、環の様子が分からなかったとしても、彼女の気晴らしになればそれでいい、とそんなことを思ったりもしたのだった。自分と一緒にいることが環の気晴らしになるかどうか、怜にはイマイチ自信が無いのだが、もし嫌だったらはっきり断るだろうから問題なしとしておいた。約束しないと一緒に帰らないカレシが、いきなり教室前で待ち受けていたのだから、それはいかにもわざとらしい話であり、環は何かを勘づいているに違いない。何かどころか全てを見透かされている気さえする。それは怜にも分かっていたのだが、それでもしたかったのだから仕方がない。
こういう気の回し方をするようになったということが不思議だった。これまで怜は人に対して積極的に関わりを持とうとしたことは無かった。他人に対してあまり興味が無かったのである。ところが、近頃になってそれが変わってきた。なぜ変わったのか。何によって変えられたのか。瞳を閉じて心の奥を覗けばそこに一人の少女の姿が鮮やかに現れる。それは、無念なことに、ただ今目の前にいる少女の姿と同じだった。
じっと紫陽花に見入っている環を少し離れたところから見ていると、どちらが花か見間違えるほどである。花の精というものがもしいたらそれは彼女のような姿をしているのかもしれない。そんなことをつい考えてしまった怜は、注意深く環から目を逸らした。彼女は目から心を読みとる術に長けている。こんな気持ちを読みとられたら、あとあと面倒なことになる。
「どうかした?」
環は花から人へと目を向けた。
「……何が?」
怜は今ちょうど環に視線を向けたばかりのような振りをした。
「変な顔でこっち見てるから、どうしたのかなって」
目ざとい子だなあ、と怜は内心ため息をついた。どうしたのか、と問われても、「君にみとれてた」というわけにもいかない。怖いもの見たさでちょっと言ってみたい気もするが、今日は自分のことは後回しである。結局、
「食べるなよ」
と一言。
環は目をパチクリさせた。
「物欲しそうに見てるからさ。紫陽花には毒性があるぞ。食べたら大変なことになる」
環は花のそばを離れ、つと近寄ってきた。
瞳に冷ややかな色がある。
怜は、手を差し出すと環の肩かけ鞄を受け取って自分の肩にかけた。肩がずっしりと重くなった。これが言葉の責任の重みというものだろうかと、怜は自分の軽はずみを後悔した。
身軽になった環は再び紫陽花の元に寄ると、清らかな青色に染められた。
怜もちょっとよたよたしてみせながら、カノジョの花見に加わった。
紫陽花は道路沿いに植えられており、どれも見事に咲きほこり、まるで一本の青色の帯のようになっている。薄暗い空の下で返って花の青紫が濃く映り、下葉の緑さえ美しく見えた。
「紫陽花の花言葉って、知ってる? レイくん」
怜は嫌な予感がした。というのも、環がニコニコしているからである。何かを思いついた顔。怜は、ちょっと考えてみてから、環の意図に思い当たるものがあり、自分の無駄な博識ぶりが嫌になった。
「さあ、知らないな」
怜は視線を逸らした。
どんなに絶望的な状況でもベストを尽くせ、という父のありがたい教えが胸をよぎった。直接口に出して言われたわけではないが、父親というものは背中で息子に語るものである。怜は父の無言の教えを忠実に守り、とぼけようとしたが、
「こっちを見なさい」
びしゃりとした声が耳を打つ。
怜はそれでも抵抗してみせた。
「確か、『高慢』だったんじゃないか?」
今ここにいる誰かさんのように――。とそこまで言う勇気は無かったが、同じことである。
環は整った眉を片方だけ器用に上げてみせた。
「時々、レイくんがすごく意地悪い人のように思えるんですけど、わたしの気のせいですよね?」
「時々ならいいだろ。あとの大部分の時間、九割九分くらいの時間は優しく誠実で紳士的なわけだ」
「十割にしてくれませんか」
「訊きたいことがあるんだけど」
「何なりと」
「『わがまま』っていう花言葉を持つ花は?」
「それを聞いてどうするんですか?」
「知り合いの女の子に贈ろうと思って」
「知り合い?」
「お前のことを言ってるんじゃない、誤解するなよ」
「…………」
これは勝ったかと思った怜だったが、
「あら、カノジョよりも先に花を贈られる羨ましい方はどこのどなた?」
もちろんそんなわけがなかった。怜は、己のさかしらによって、一度も恋人に花を贈っていないことをやんわりと責められる破目になった。貝のように口をつぐむしかなくなった怜の前で、環は話を元に戻した。
「『高慢』も確かに紫陽花の花言葉の一つだけど、一番有名なのは、レイくんも知ってる通り、『移り気』よ」
紫陽花は開花からの日数によって花の色が変化する。それを人の気持ちが変わることになぞらえたのである。
「今日ここに来たのは、なんらか、わたしへの批難ですね?」
環は容赦という言葉を知らない。こんなに物知りな彼女が知らないとは信じられないことである。
「変な誤解をするなよ。単に、カノジョと綺麗なものを見たいっていうただそれだけのことだろ。どこをどうしたらそんなひねくれた解釈になるんだ」
「わたし、もともとひねくれているんです。だから、今日ここに連れて来てくれたことの裏に何があるのかなって、さっきから考えてました」
環は試すような目で怜を見た。
怜は、恋人と花を見ているだけなのにどうしてこれほど緊張感を持たなければいけないのか、さっぱり分からなかった。
やがて怜は心を決めた。
「分かったよ。本心を言う」
「どうぞ」
面白そうな顔をしている環に向かって、怜は軽く咳払いした。
「この紫陽花を二人の戒めにしようと思って、ここに連れて来たんだ」
環は、繊細な顎先に指をつけて目をつぶり、うーん、と唸ったあと、
「六十点かな」
そう言って、目を開いた。
即興で答えたにしてはなかなか良い得点だった怜は、ひとまず安心した。一応、後学のため、模範解答を訊くと、環は首を横に振った。
「そんなもの、ありません」
「だと思った」
「人生に模範なんかないからね」
カレシが唐突にデートに誘ったことに対して環はもう訊かなかった。訊いても無駄だと思ったのか。それとも、訊く必要など初めから無かったのか。おそらくは後者である。
「今年ももう半年が終わるね」
あと数日で七月だった。
「ねえ、レイくん。どうして過ぎ去ったものを愛しく感じるの?」
紫陽花の花が静かに揺れた。
怜は、額を合わせられそうなほど近づいてきた環から身を離そうとせず、
「過ぎ去ったものを愛しく感じてるんじゃないよ。過ぎ去らざるを得なかったってこと、その他の選択肢が無かったってこと、それを愛しく感じるんだろ」
答えた。
「それはあるものがそのものであったっていうそのこと?」
怜はうなずいた。
「それはレイくんがレイくんで、わたしがわたしで、そうしてわたしがレイくん――」
そこで環は言葉を飲み込むようにした。
怜は首を傾げた。
「何だよ?」
「何でもありません」
「何か言いかけたろ。オレがどうかした?」
「何でもないです」
「でも、言いかけた」
「言いかけましたけど、言わないことにしました。だから訊かないでください」
「タマキはオレに何でも言わせようとするのに、公平じゃないぞ」
「女の子と男の子の間が公平だなんて誰が決めたの?」
「……誰も」
環は、そうでしょ、と得意満面に言うと、怜に手を差し出した。怜はその手を握った。
「鞄です」
「何だ。仲直りの握手かと思った」
怜は環の鞄を彼女に返した。
環は、自分の鞄を斜めにさげると、
「ありがとう、レイくん」
と言って改めて手を差し出してきた。怜はその手は取ったが、彼女が何に対して感謝したのかということは訊かなかった。環の声はどこまでも透明で、訊くことによって、その透明で純粋なものに何かしらの色をつけてしまうのではないか。それを恐れたのである。
紫陽花に背を向けて二人は歩き出した。
少し歩いたあと、環は、
「デンファレ」
と不思議なつぶやきを漏らした。
何のことを言っているのか、怜が訊くと、
「花の名前です。『わがまま』を花言葉に持つ花」
環は微笑んだ。
「その知り合いの方に贈ったあと、わたしにもください」
「驚いたな。自分が『わがまま』だって自覚があるのか?」
「いいえ、そんな自覚はありません。あじさいと同じようにデンファレにも複数の花言葉があるの。その知り合いの方には『わがまま』と共に贈ってあげてください。わたしには、デンファレの別の花言葉とともに贈ってください」
「別の花言葉って?」
「教えません」
「『秘密主義』とか、なんかそんなのか?」
「さあ。どうでしょう」
環は答えなかった。
「贈ってくれますよね?」
怜は不承不承うなずいたが、のちほど後悔した。値段が結構するということと、何より花言葉が恥ずかしかったからだ。プレゼントしたとき環は白い頬を染めて喜びを露わにしたあと、ちょっといたずらっぽい目をして花言葉を調べたか、怜に訊いてきた。怜はもちろん首を横にした。環は口元に微笑を灯すとそれ以上は何も言わず、赤い可憐な花を楽しげに見つめていた。