第109話:美しいものを美しい人へ
怜と環のお話です。
かつて怜は友人から訊かれたことがある。
「川名と一緒に帰るとき、何の話してんの?」
川名とは付き合っているカノジョの姓である。怜は答えに窮した。なにせ、大した話をしているわけでもなく、その時思い浮かんだとりとめない話をしているだけであるし、その上、そもそも話さないことの方が多いからだ。さらに言えば、毎日一緒に帰っているわけでもない。一緒に帰るのは約束したときだけである。
「信じらんない! カノジョの家まで送ってくのはカレシの義務でしょうが!」
これはそのとき友人の隣にいた女の子の言葉である。
怜は自分のおしゃべりを恥じたのち、カノジョからそのような要求を受けていないという事実を以って一応の抗弁を試みたが、
「バカじゃないの! そういうのは女の子が言い出すのを待つんじゃなくて、男の子の方から誘うもんでしょ!」
一蹴された挙げ句、そのあとたっぷり三十分の間、いかに自分がカレシとしての義務を怠っているかについて延々と注意を受けた。恋愛に疎い怜はそれまで、カレシという役回りにロマンティックなものを期待していたのだが、彼女から五十に渡る「カレシ心得」を伝授されたのちは、考えを改めざるを得なかった。カレシにはロマンはなく、あるのはこなすべき数々の義務だけである。
「たまにはカノジョの教室前で待ってあげること。教室まで迎えに来て待っててくれたっていうのは、女の子のプライドを満たすんだからね」
カレシ心得その十一。
待ち合わせは校門前で。ただし、たまには教室前へ迎えに行こう!
「そういうの恥ずかしくないのか、女子って。クラスのやつらにからかわれるだろ」
友人の言葉に、全くその通りではないか、と同意する怜。
少女は、やれやれと首を横に振った。
「恥ずかしがる振りはするけど、本気じゃないから大丈夫。心の中では、カレシいない子とか、いても迎えに来てくれない子に対して優越感でいっぱいなの。騒がれて注目されるのも嬉しいもの」
遅ればせながら、どうもこの世には知らない方がいいことがあるらしい、と気がついたのはその時のことだった。
それから二月が経っている。
怜はその日、六時限分の授業を終えて、掃除を済ませ、ホームルームを聞き流したあと、自分のクラスを出てから隣の五組へと向かった。五組の前の廊下の壁際に身を寄せて、同じように自分のクラスから出てきたクラスメートたちをやり過ごす。頃は六月下旬の蒸し蒸し期である。五組の廊下側の窓は全開に開け放たれており、木枠の窓を通して中のホームルーム風景が見えた。
やがて、五組担任のまだ年若い男性教諭が、「試験の後だからといって羽目をはずしてオレに迷惑をかけるなよ」というまことに率直な訓戒を施すと、五組は一日の業から解き放たれた。歓声を上げながら教室から出てくる五組生を避けながら、顔見知りに会釈したりなどしていると、そのうちにお目当ての人が現れた。
環は軽く驚いた顔をした。軽くで済ませた上に、すぐに目元に微笑をきらめかせられるところが、彼女の心力のしなやかさを表していた。環は、廊下の壁際で人待ち顔をしているカレシの傍に寄った。衆目の前でちょっと寄り過ぎじゃないかと思うほど寄ってきたが、そんなことを言ったら、
「じゃあ、誰も見てないところならいいの?」
とか何とか言い返されそうなので、怜は男らしく耐えた。
「太一くんに用?」
彼女の組にいる悪友の名を出された怜は、今のところ彼には何の用も無いし、これから用ができるとしてもきっと来世紀あたりだろうと答えた。そのあと、一緒に帰らないか、とここで突っ立っていた理由を告げた。
「そのためにわざわざ来てくれたの?」
「わざわざって距離でもないよ。六組からここまで十歩もあれば着く」
「でもこれまでしてくれたことなかったでしょ」
その通りだった。
怜は誰からのものであれ受けたアドバイスは尊重するが、しかしその通り行うかどうかは自分が決定するものだと思っていた。「たまには教室前で待つが吉」という忠告は、ちょっと行いづらいものフォルダに収納されて、ここ二カ月のあいだ日の目を見なかった。そのフォルダをほんの気まぐれからごそごそしてみたのだと、怜は言い訳した。
じっとこちらの目を見つめてくる環。
怜は彼女の瞳の中にいる自分にエールを送ると、できるだけ平板な声を出した。
「それで? 一緒に帰るのか、帰らないのか?」
「わたしでいいの?」
環は口元を笑みの形にした。
「他に誰が」
「ここ五組はカワイイ子ばかりですから」
「オレがカワイイ子に相手にされる訳が無い。だからタマキを誘ってる」
「とっても斬新なお誘いだわ。でも、わたし以外には言わない方がいいみたい。誤解されるからね」
怜は神妙にうなずいた。
環は、後ろから声をかけてきたクラスメートに別れの挨拶を返してから、
「ちょっと待ってね。今日のこれからのスケジュールを確認するから」
そう言って、しかし手帳的なものを肩かけ鞄から出すでもなく、ただ中空に視線を向けた。そのまま、しばし考える振りなどしているカノジョの前で、怜は礼儀正しく直立していた。
「いいよ。大した用じゃないから、レイくんの方を優先します」
それがどんな用であったのか、怜は訊かなかった。
生徒用玄関から外に出ると、空が低かった。うす曇りの空の下、校門をくぐり抜けると怜はいつもと違う帰路を取った。環は何も言わない。ちょっと遠回りになるけど、とだけ怜が断ると、環はうなずいた。
「部活はよかったの?」
「今は前と違って大所帯だからな。オレ一人来なくても何の問題も無い。というか、オレがいなくても気づかれない可能性さえある」
「円はどうですか?」
「部内でもっとも優秀で、やる気もあり、しかも可愛い。闇夜の月のように、部の中でひとり皓々と輝いてるよ」
「妹を褒められるのは嬉しいけど、その褒め言葉のあまりの素晴らしさに嫉妬しそう」
「これでも控えめに言ってるんだけど」
「カノジョのことも何かにたとえてみてくれません?」
怜は腕組みした。
「じゃあ、星にたとえよう」
「素敵」
「月明らかに星稀なり」
怜はこの前覚えたばかりの詩句をそらんじてみせた。漢詩好きの環はしかし、感心したりしなかった。月光はその強さによって周囲の星の光を隠してしまう。カノジョ以外の女の子を月に、カノジョを星に例えたあとに引用してよい詩句ではない。
「そこまでうまくは行かない。覚えたてだから」
怜は言い訳したが、環からは疑わしげな視線を受けた。信用が無いというのは辛いものである。
歩道を歩いていくと国道が前を横切っていて、車の往来が激しかった。怜は横断歩道を避けると、近くにある歩道橋へと向かった。階段を上るときに隣に手を差し出すと、すぐにほっそりとした滑らかな手が重ねられた。怜は、環の手をしっかりと握ると、階段をゆっくり上り始めた。やがて、上りきって眼下に道路を見たところで、
「一つ訊いてもいい? レイくん」
と環。前から歩いてきた大学生くらいのカップルとすれ違ったあと、怜は促した。
握られている手がぶらぶらと揺れた。
「こういうことはどこで習ったの? お父様? それともお母様?」
怜が父から習ったことといえば男は耐え忍ぶ生き物だということであり、母から習ったことといえば母の口撃に耐えられれば大抵のことには耐えられるということである。それらは確かに重要なことではあるが、人生にはもっとこまごまとしたこともあり、そういうテクニカルなことはもっぱら祖父母に教えられた。
「祖母に習ったんだ」
「おばあ様?」
「そう。『歩道橋を渡るとき小さな子がいたら手を引いてあげなさい』」
「訂正して」
「歩道橋を渡るとき可憐な女の子がいたら手を引いてあげなさい」
「前よりは良くなった。まだ、完全じゃないけど」
階段をくだり切ったので、手を放そうとした怜だったが、ぎゅっと掴まれたまま放してもらえなかった。周囲に人影はまばらであるものの、怜は一応批難の視線を送ったが、環は前を向いたまま知らぬ風である。
「前から気になってたの」
「何が?」
「ベンチを拭いてくれたりするのは誰の教えかなって」
「訊けば良かったのに」
「あんまり訊くと想像する楽しみがなくなるでしょ」
「オレはそういう楽しみを与えられるような人間じゃない。そこの水たまりくらい底の浅い男だから」
環は足を止めると、アスファルトにできた水たまりの中を覗き込むようにした。
「小さいね」
「その通り」
「誰かひとりを映すくらいで精一杯だね」
水たまりの中にどんな顔が映っているのか、怜の位置からでは見えなかった。
「ところで、そのおばあ様の教えを実践するのはわたしで何人目ですか?」
「いや、妹以外では環が初めてだよ」
「そう言うのもおばあ様の教えですか?」
怜は首を傾げた。環の言っている意味が分からなかったのである。
環は嬉しそうな顔をした。
大通りから外れて少し歩いたところで川に出た。この辺りを流れている大河の支流である。川を見下ろしながら川辺の土手の上にある細い車道を歩いて行くと、環が小さく息をのむのが聞こえた。
怜は目的地へついたことを知らせた。
「美しいものを美しい人に」
向けた片手の先に、清爽な青色の花が群生していた。
環は紫陽花に身を寄せた。
彼女に握られていた怜のもう一つの手は珍しく実に平和的に解放されたのだった。
次回に続きます。