第107話:恋とはどんなものかしら
男の子はどうだか知らないが、女の子はお母さんのお腹からオギャアと生まれ落ちてカッと目を見開いたその瞬間から、生涯の伴侶を探し始める。新生児室に、今はまだ人よりも多分に猿に近いけれど、将来カッコよくなりそうな人がいたら目をつける。もちろん、この時点では声をかけることなどできない。しかし、間違ってはいけない。これは言語能力が発達していないがゆえではなく、慎みの気持ちがそれを許さないのである。簡単に言えば、「恥ずかちい」のだ。そのような異性に対する慎みの気持ちはゼロ歳時をマックスにして徐々に消えていき、幼稚園(あるいは保育園)の年長さんくらいになるときれいさっぱりあとかたもなく無くなってしまう。
慎みの気持ちをなくした者たちで満ちた幼稚園は、もっとも低劣な戦場である。ここでは、カッコイイ男の子をめぐってよだれでよだれを洗う熾烈な争いが繰り広げられる。気になるカレを、おままごとという蜘蛛の巣に呼びこんで無理矢理ダーリン役をやらせるため、お昼寝の時間に自分の隣で寝かせるため、シーソーギッコンバッタンデートに誘うため、そこここでライバルの髪を引っ張り合い頬をつねり合ったりする。時には泥団子をぶつけ合うことだって辞さない。
小学校に入学すると、そういった力ずくというような下等なことはしなくなる。戦場には雅味が加わる。暴力の代わりに女の子の魅力で勝負するようになるのである。身なりに気をつけたり、笑顔を向けたり、ノリを良くしたり、口調をちょっと甘えたものにしてみたりする。気をつけなければならないのはやり過ぎは禁物だということだ。やり過ぎると同性を敵に回す。幼稚園時代と違い、小学生時代には「同性に嫌われていない」ということもステータスになるのだ。同性に嫌われて一人ぼっちでいる女の子を哀れむ美少年、などというのは恋愛コミックの中にしか存在しない図式である。
中学生になると、さらに戦い方が変わり、男子に媚びるというようなことをしなくなる。女の子は、己の性別の優位性というものを正しく認識し、男子は女子に仕えるものだという意識を持つようになる。召し使いごときに色目を使うなどプライドが許さない。「好きになってもらう」という意識は消え、「好きにならせる」という意識が現れる。小細工はいらない。正々堂々と自分というものを見せつければ、男の子から告白してくることになっているのだ。男子は惚れろ。
「そういうことなのよ、杏子。このように、戦いは既に十四年前から始まっている。それなのに、あんたと来たらさ。お姉ちゃんは情けないわ、ホント」
昼休みの教室である。
杏子は読んでいる詩集から目を上げもせず、続きを読み続けた。
そこにはイギリスの田園風景が広がっていた。
詩は素晴らしい。日常のあれやこれや、すなわち学校の勉強とか、部活動とか、友だち付き合いのこととかを忘れさせてくれる。言葉のかけらに詩人の想いが乱反射して、この世界に新しい世界を現出させてくれるのだ。さながらイリュージョンのごとし。いながらにして別世界である。想像の翼を駆って行こう、新世界へ!
「行くな!」
読んでいた詩集が取り上げられて、杏子は恨めしげに目を向けた。
瞳に凛とした光がある気の強そうなショートカットの少女である。
「返してよ、結子」
杏子が手を差し出すと、
「『ワーズワース詩集』? よくこんなの読む気になるなあ」
ぺらぺらとページをめくりながら彼女は小さくうめき声を上げた。その手から、杏子は革のカバー付きの文庫本を取り戻した。そうして続きを読もうとページをめくろうとしたところ、再び文庫本がするりと手から抜けた。
「ユイコも本でも読めば? 何か貸す?」
「友だちがわざわざお昼休みに訪ねてきたのに、そーいう態度ってある?」
友だちだからこそである。
彼女とは二年のときに同じクラスで親しくなり、その性格は良く分かっている。悪い子では全然無いが、間違っても昼休みに友だちを慰めにくるような細やかな性質の持ち主ではない。
「本田くんとケンカでもしたの?」
パッと思いついたことをそのまま言うと、結子は急にのどの調子でも悪くなったようにゴホゴホと咳払いした。どうやらビンゴであった。カレシと喧嘩をした腹いせに友人をからかいに来たというわけだ。しょうもない。
「いいわ、認める。わたしは潔いからね。でも、あんたのことを心配してるのは本当よ、アンコ。カレシがいないのはまだいいわ。わたしだってつい数か月前までいなかったんだから。でも、あんたは、カレシを作ろうともしてないじゃない。戦う前に諦めてるのよ。諦めたらそこで終わりよ」
人生の落伍者の烙印を押された杏子だったが、とはいえ、現に好きな子がいないのだから仕方ない。諦めるも何もないのである。杏子はこれまで恋というものをしたことが無かった。もちろん、カッコいいと思う男の子はいたし、現に今もいる。しかし、その気持ちを恋と呼べるのだろうか。本などを読んでいると、恋とはもっと狂気じみたもののようである。それがうまくいかないばっかりに、友人の昼休みの安らぎを破壊しようという悪行を行おうという気持ちになるくらいには。
「好きとか嫌いとかはとりあえず置いておこうよ」
一番大事なところである。
何とも無茶苦茶なことを言うと、結子は近くにいた男子に声をかけた。
「岡本くん」
近くの机で課題プリントらしきものをカリカリやっていた少年は、大儀そうに顔をむけた。
「何だよ」
「アンコと付き合わない?」
「付き合わない」
再びプリントへと戻る岡本少年。杏子はムッとした目を結子に向けた。別に彼に言下に断られたことに対してショックがあるわけではないが、さすがにそうはっきりと、しかも周囲にクラスメートがいるところで言われると女の子としてのプライドが傷つくというものである。
「ちょっと、何てこと言うのよ、アンコが可哀想だと思わないの?」
結子は自分に向けられた批難の視線を無視した。
「何でオレなんだよ?」
「何でってことないでしょ。岡本くん、アンコのこと嫌いじゃないでしょ」
岡本少年は机の上にあった消しゴムを手に取ると、
「この消しゴムが嫌いじゃないっていうのと同じ意味でなら、確かに田辺のことは嫌いじゃない」
落ち着いた声で言って、杏子の心をかき乱した。
――消しゴムと同じ扱いされたよ!
杏子は結子の手から詩集をひったくると、ワーズワースの書いたイギリスの湖水地方へと心を飛び立たせようとした。
「岡本くんだってカノジョいないんでしょ。いい機会じゃん」
「何だよ。いい機会って? オレは別にカノジョ募集なんかしてねえ」
「クールぶっちゃてさ。そういうのうけると思ってるの?」
「うけ狙いじゃない。オレは元からクールなんだよ」
「クールな人は自分からそういうこと言わないって。とにかくさあ、アンコにしなよ。まあ、あんまり可愛くないけど、そこまでひどくないし。ていうか、顔で女の子を判断する男ってサイテー」
「誰が顔で判断してるって? オレは清らかな心の子が好きなんだよ」
「アンコの心は、漂白したシーツみたいにキレイよ」
「その子がどういう子なのかはな、付き合ってる友だちを見れば分かるんだよ」
「それどーいう意味?」
「言葉通りだね」
英国の田園地帯で啼くカッコウの代わりに、ガアガアという烏が二羽かまびすしく鳴いて、飛び立った杏子の心は日本の田舎にしか着地できなかった。さようなら、ワーズワース。こんにちは、島崎藤村。
――でも、藤村も好き。
なおも他人のことで盛り上がる二人を背にして、藤村詩集でも借りに図書館へ行こうかと教室を出たところ、見知った顔を見た。教室の戸口から中をちらちらと窺っている女の子。
「こんなとこで、何してるの、更紗?」
と一応訊いてみたが、それは訊くだけ野暮な話だった。杏子と違って、通常の乙女の行動というのは全てすべからく一から十まで恋という一事に向かっているわけであるから、その点から解釈すれば、彼女が何をしているのかなど簡単に推測できる。
「入ったら」
「どっか行くの、アンコ?」
「図書室」
「そ、そお? ちょっとあんたに用があって来たんだけど、ま、いっか。放課後も部活で会うし。じゃあね」
そう言って、杏子が何か言う前に、さっさと自分の教室の方へ帰ってしまった。見え透いたことを、と杏子は苦笑した。長い付き合い。自分にまで言い訳することなんかないのにと思ったが、親しいからこそ礼儀が必要な場合もある。
杏子は教室の中を振りかえった。威勢良く口論している先の二人から少し離れた窓際に、すらっと綺麗に背が伸びた少年がいて、昼下がりの光を後ろにしていた。器量良し。性格も悪くない。同年代の男子と比べると落ち着いた雰囲気もある。しかし、だからと言って、そういうプラス要素が合わされば「好き」という意識が生まれるわけではない。恋をしたことがない杏子にも、恋愛というものが、階段を一歩一歩のぼっていったその先に至るようなものではないという予感はある。それはおそらく全的に与えられるものなのだ。いつのまにかそこにいて、そうしてそこからでしかそこに至る階段が見下ろせないような、そういう経験であるに違いない。ワーズワースや藤村の詩句にあったときに、どこがどう良いとは言えず一息に魅了されたように。