第106話:友だちを作る賢者の書
ドアを開けて志保が「ただいま」と言うと、その声に応じるかのようにトコトコと駆けよる影があった。小学校の低学年くらいの男の子である。男の子は、靴を脱いで玄関を上がる志保に満面の笑みを向けて、「お帰り、お姉ちゃん」と高い声を上げると、それからふと気がついたかのように姉の隣にいる見知らぬ男に目を向けた。
「お姉ちゃんのお友達よ。ご挨拶して、理央」
男の子は、小さな体をくの字にして一礼すると、自分の名前を元気よく告げた。
宏人も小さく礼をして姓名を名乗ったところで、今度は志保の母親らしき人が現れたので大いに慌てた。にこやかな笑みを湛えた柔和な物腰の人で、宏人のどもりながらの自己紹介を受けると、「後でお茶を持ってくわね」と志保に声をかけた。
近くにある階段を上り始める志保。宏人がその後についていくと、後ろから足音がして、理央少年が追ってくる。どうやら宏人のことを新しい遊び友達だと思っているらしい。志保の部屋らしきところに導かれて、初めて女の子の部屋に入った緊張を感じる間もなく、少年はどこからか持ってきたロボットを宏人に見せると、得意になって説明を始めた。
動物をモチーフにしたロボットに関して新たな知識を獲得したり、ロボット同士の模擬戦の相手をしていると、しばらくしてドアにノックの音がして、おやつの盆を持った志保の母親が現れた。
「あれ、お母さん、ボクの分は?」
姉とその友人にだけ給仕する母に不思議そうな声を上げた理央は、階下に戻るように言われて、「え~」と不満の声を上げた。しかし、良くしつけが行き届いているのか、見苦しい抵抗はせず、大人しく母に手を引かれていった。
宏人は改めて志保の部屋を見回した。
彼女の実務的な性格とは正反対の、なかなか可愛らしい部屋である。全体がピンクで統一されていて、調度類も装飾的である。窓にはレースのカーテンがかかって、また所々にクマやウサギのぬいぐるみが座っていた。アロマ的なものでも焚くのか、それとも志保のものなのか、室内には甘い香りが漂っていた。
「母の趣味だからね」
キョロキョロとぶしつけな視線を投げる宏人に、志保は釘を刺した。志保の新たな一面を見たと思っていた宏人はがっかりした。せっかく一つからかうネタができたと思ったところだったのに。
「それにしても、倉木くん、小さな子の相手がうまいね」
「簡単だよ。昔、姉貴にやられたことの逆をやってやればいいんだから」
志保の勧めに応じて、宏人は小さなテーブルの上に置かれた盆からグラスを手に取って口元に持っていった。オレンジジュースで喉をうるおしてから、ブッセをはむはむしていると、
「この前のこと覚えてる? 倉木くんがわたしの手を引いて家まで送ってきてくれたときのこと」
志保が唐突なことを言い出した。
宏人はムセた。志保の手を握ったときの気恥ずかしい感覚がにわかによみがえってきた。
――今度は何の嫌がらせだ?
警戒した宏人だったが、
「その時にさ、『可愛い子を紹介する』って言ったでしょ」
志保は、その件自体に深入りしたかったわけではないらしい。
「そう言えばそんなこと言ってたような気がするな」
宏人が思い出していると、
「今日、ご紹介しましょう」
志保が言う。
宏人はブッセを持っていない方の手の平を彼女に向けてその先を押しとどめた。読めた。どうせ幼稚園児の妹とかが出てくるに違いない。そうして、また演技力を鍛えられる破目になるわけだ。今度は犬よりは良い役をもらいたいものである。そんなことを思っていたのだが、しかし、事の顛末は宏人が思っていたものよりシュールだった。
腰まで届く濡れ羽色の黒髪を背にした、年の頃なら高校生くらいの少女が宏人に笑いかけていた。二重の愛くるしい瞳。肌は抜けるように白い。美少女と言っても良い。
「それで、オレにどうしろって?」
「彼女のことを良く知ってもらいたいの」
志保と知り合い、瑛子と話してから、宏人には女の子と仲良くなりたいという気持ちは薄れて来ていた。そして、それが生身でないとしたらなおさらであった。
宏人は、色鮮やかなカバーがかかったコミックを手に取って、描かれた美少女と見つめ合った。
「カレシが他の女の子を見るのを許すなんてことホントはしたくないんだけど、今回は仕方ないわ」
「できればもう少し説明をしてくれるとありがたいね」
宏人はパラパラとコミックスをめくった。
「何で今日ここに呼んだと思ってるの?」
「あれだろ。家族にカレシの初披露。今夜はお赤飯だな」
「バカ。浅井信吾の件でしょ」
クラスメートをグループに引き入れるのに、どうして美少女が出てくるコミックを押しつけられるのか、さっぱり意味が分からない。しかも、どうやら十五巻ほど数があるらしい。テーブルに積み上げられた本の山に志保の手が置かれた。
「これ買ったせいで一月分のお小遣いが飛んだわ。ほとんどは古本だけど、新しいのはちゃんと本屋で買ったからね」
「で?」
「人と仲良くなるのってどういう時だと思う?」
「さあ、話が合う時とかじゃないのか。だからオレたちは仲が悪い」
宏人の言葉のうち、皮肉の部分は無視された。
「浅井クンが好きなマンガらしいわ。まあ、好きなのはこのマンガだけじゃないけど、さすがに他のマンガは買えなかった。頼める?」
「冗談言うな」
「それは冗談よ。でも、こっちは冗談じゃない。これを三回は読んで詳しくなって欲しい。そして、色々と女の子のキャラが出てくるから、そのうちの一人について熱く語れるようになること」
つまりは浅井氏の趣味を理解して共感を示すことで、好意を引き出そうということである。その上で、グループに引き入れる。志保にしてはなかなかまともなことを考える、と感心した宏人だったが、その場で一巻読んでみると、考えはすぐに改まった。
世界の命運を偶然握らされた主人公の高校生が、彼を狙うどう見ても人にしか見えない人ならざるもの(みな決まって美少女)と争う。何の力も持たない平凡な主人公が、敵味方の美少女になぜかモテまくる、というバカみたいな話である。
漫画は嫌いではない宏人だったが、こういう完全に男に都合のいい漫画というのは嫌いだった。ただし、宏人の好悪に関わりなく商業的には好調のようで、志保によると、アニメ化、ノベライズ、ドラマCD化もされており、キャラクターのフィギュアもあるという。
「売れる漫画っていうのはそういうもんよ。少女マンガだっておんなじようなもんだからね。何の取り柄もないフツーのヒロインがなぜか美少年にモテまくる。それにみんな夢中になる。別に浅井クンが特別なわけじゃない」
「お前、コレ読んだのか?」
「もちろん。わたしは、ヒロインのライバルのアリエルが好きだな。言動が凛々しいし、なにより銀髪がステキ」
「何回読めって?」
「三回は読んで。生半可な知識じゃ興味無いことがバレる」
「一巻目を読んだだけでこの後の展開が読めるんだけど」
「十巻までは我慢して。十巻で劇的な展開があるから」
宏人はくらくらしてきた。面白くない漫画を最低でも十巻分読まなくてはいけないというのは、苦行に等しい。宏人はオレンジジュースを啜って気を落ち着けようとした。その間に、志保は布の手下げ袋に漫画を詰め始めた。
ずっしりとした布袋を持たされた宏人の気分もまた重い。何日貸してくれるのか尋ねると、今日を含めて二日だと言う。二日で十五巻分を三回、つまり四十五巻分を読まなければならないのである。楽しい二日間になりそうだ。
「とりあえず、それだけ。読み終わったら教えてね」
次の指示はその後出すと言う。
ミーティングが終わり、立ち上がった宏人の目に一枚の写真が見えた。籐製の棚の上に写真立てがあって、何人かの女の子が楽しそうに笑っている姿が映っていた。小学校の高学年くらいの年である。
「どうせ紹介するならさ、こういう子にしてくんない」
眩しいくらいの笑顔をしている一人の少女に指を差す宏人。心の内は分からないが、少なくとも外見は照り輝いている。志保は写真立てを倒した。
「残念ね」
「何だよ。昔の友だちかなんかなんだろ? けちけちすんなよ」
「そうじゃないわ」
「何が?」
「それ、昔のわたしよ。もう知りあってるわけだから、改めては知り合えない」
宏人は思わず倒れそうになったところ、足に力を入れて踏ん張って必死の思いでしのいだ。
色々マズいことを言ってしまった宏人がフォローとして言えたのは、
「お前、昔は可愛かったんだな」
取ってつけたようなセリフであった。
志保は部屋の戸を開けた。
「ありがとう。でも、この程度の可愛さなんて意味無いわ。倉木先輩くらいじゃないとね」
「意味って?」
「人を惹くためにってことよ」
十分に人を引き付ける。そう宏人は思った。現に引きつけられたことであるし。
宏人は、廊下に出てこちらが出るのを待っている志保をじっと見つめた。
もじゃもじゃの髪に半ば隠れるようになっている瞳が綺麗な光を宿すのを一度だけ見たことがあった。
「何してんの?」
宏人はいや、とあいまいに首を振った。
ちょっと思いついただけのことを頼むのは気が引けた。何より仮に宏人の思った通りだったとしても、だからどうだということになる。
部屋を出て階下に降りると、志保の母と弟から、またいつでも遊びに来るようにと優しい言葉をかけられた。二人の暖かな雰囲気から、家族が十分に志保の避難所になっているだろうことが感じられて、宏人はほっとした。そうして、そんなことを考えてしまう自分に思わず苦笑したのだった。
実に二カ月ぶりの更新になりました。
この二カ月、待ってくださっていた方、読んでくださっていた方、本当にありがとうございます。