第105話:策謀の季節
その日の放課後のことである。
幼稚園児が目いっぱい水色の絵の具で塗りたくったような気持ちの良い空の下――
グラウンド近くの一角を占める陸上部の部室。
今しがたその戸を閉めて部室に背を向けた宏人は胸を押さえた。
「この頃休みがちだけど具合でも悪いのか、ヒロト? 無理しなくていいからな」
思いやりの込められた言葉が耳に残っている。
ついさっき部活を休むことを告げたときの部長の返事である。
近頃ちょこちょことズル休みしている宏人に対して部長は優しかった。彼が優しいのはその性格にもよるのだが、宏人への信頼もある。これまで一年余の間せっせと部活動に励んだ宏人のことを信じているのだ。ズル休みなどするはずがない、と。
その信頼がいつまで続くかと考えるとうすら寒いものを覚える宏人である。頻繁に休めば、さすが温厚な部長であってもいつかは疑いの目で宏人を見るようになるだろう。それだけではなく、「お前の陸上への情熱はウソだったのかっ!」と怒りの形相で胸倉を引き絞られたり、
「やる気が無いならやめっちまえ!」
もしかしたら殴られたりもするかもしれない。温厚な人ほどいざキレると恐いのである。
もわもわと修羅場を想像した宏人が身を震わせながら歩いていると、
「あれ、倉木くん。今日も帰っちゃうの?」
体育着の少女に呼び止められた。
宏人は、体調が悪いからと言って顔を横にした。
「へー、でも、その割には顔色良さそうだなあ」
少女は同じ陸上部である。結構仲が良い。というか、陸上部は男女問わず和気あいあいとしているのだった。
わざわざ回り込んで来てまでこちらをじろじろ見てくる彼女の前で、宏人はごほごほと咳をしてみせた。
「あんまり近づかない方がいいよ、篠田。なんかしらの病気がうつるかもしれない」
「なんかしらってなーに?」
「なんかあるだろ、いろいろと。インフルエンザ的な」
少女はますます怪しむような顔を作ったが、それ以上は追及しなかった。その代わりに、倉木くんがいないとつまんないなあ、と言いながら後ろ手に手を組んで少し歩き、石など蹴っ飛ばしてみせた。短めに揃えた黒髪が彩る顔には一転、寂しそうな影が見えた。
宏人は今すぐ部室に戻って、やっぱ今日部活出ます、と言いたくなる衝動をどうにかこうにか抑えつけた。そうして、抑えつけなければいけない自分の境遇が何とも哀れに思えてきた。宏人は首を横に振った。自分を哀れんでも仕方がない。また明日、と言って少女に一声かけたのち、宏人は哀愁を払うように決然と足を進めた。
運動着を身につけてグラウンドに向かう一団をやり過ごしつつ、制服姿の帰宅組の後を追う宏人。気のせいか。どうも志保と付き合うようになってから失ったものが多いような気がする。クラスでの平穏、マドンナへの恋心、親友からの信頼などなど。これに加えて、部内での信用が失われる日も近い。いろんなものを失ってみて初めて宏人は自分が結構な物持ちだということに気がついた。それも価値あるものである。当たり前に思えていたものが実は当たり前のものなんかじゃなくて、大切なものだったのだ。
――それに気がつくことが人生で最も大事なことだったんだ!
宏人は真実に目覚めた。
そうしてしみじみ思った。
この世には知らなくても良い真実がある、と。
悟りを開いた少年が俗人どもに混じって歩いていった先に校門があって、少し出たところで一人の少女が佇んでいた。人待ち顔の女の子が待つのは当の自分。男子中学生なら誰もが憧れるシチュエーションだとちょっと前までは思っていたのだが、何事にも例外はある。宏人は全く心躍るものを覚えなかった。
――ヒロトくん、遅いよ。
――ごめん、ごめん。委員会が長引いちゃってさ。
――謝るだけじゃダ~メ。コンビニでアイスだからね。
――えー、マジで?
という感じのニュアンスで、怒るフリをする可愛いカノジョをこちらも宥めるフリをする。周囲のイライラ度が上がるのにも構わずにいちゃいちゃしながら帰る二人。ああ、青春。
しかし――
「遅いよ、倉木くん」
「別に遅くないだろ。授業終わってから速攻で部室行ってそれからすぐに来たんだぞ」
「女の子を一秒でも待たせれば遅いってことになる」
「忘れたのか。お前には男疑惑があるんだぞ」
「その疑惑には根も葉もない」
「どーだか」
「じゃ、確かめてみる」
「え?」
「二人きりのとき裸にでもなろうか?」
「バ……何言ってんだよ!」
現実はこんなもんである。
勝利のニヤニヤ笑いを浮かべる志保。その近くにもう一人少女の姿があって、少し顔を伏せるようにしていた。志保が名前を呼ぶと、少女は顔を上げた。頬を覆うほどの短めの髪の彼女は、柔らかな目元に微笑をきらめかせていた。
「友だちの晴山岬ちゃん。こっちがクラスメートの倉木宏人くん」
「何だよ。カレシって紹介しろよ。照れてんのか?」
志保が軽く睨むようにしてきたが、宏人は無視した。コホン、とわざとらしい咳をした志保は、カレシの倉木宏人くんです、といささか白々しい声ではあったが言い直した。えっ、と驚いたような顔をする岬に見られて渋い顔をする志保。宏人は満足した。一週間レンタルのビデオではないのだ。借りは即時返却が基本である。
志保の紹介に合わせて二人が少し話をしていると、やがて一哉が現れて、宏人からすれば理不尽極まりないことに、遅く来たことを全く叱られもせず、志保から指示を受けると、そのままおとなしやかな少女と連れ立って歩き出した。これから一哉が彼女を家まで送っていく過程で、女の子との話し方を岬がレクチャーしてくれるということになってるそうだ。宏人は志保の手まわしの良さに呆れ顔を作ったが、
「別に今日の今日で頼んだわけじゃないって。富永くんがグループに入ることをOKしてくれた日の夜に、もしかしたらと思って前もって頼んでおいたんだ」
と聞いて尚更呆れた。
「ミサキちゃんは女の子っぽいから適役」
「ぽい」という所がちょっと気になったが、そこは突っ込まないことにした。なにせ志保の友だちである。突っ込んだところから何が現れるか分かったものではない。触らぬ神に崇りなし。
何も言わず歩き出す志保の隣に宏人は並んだ。「女子の気持ちをわしづかみトーク」を習わなければならない一哉は分かるとしても自分がどうして呼ばれたのか。聞きたい気持ちはやまやまであるが、大して聞きたくない気持ちも同じくらいある。彼女の口から出る魔法の言葉は、きっと新たな世界に宏人を導くことだろう。その世界をワクワクして待つような、少年冒険漫画の主人公のような無鉄砲さは宏人には無い。
学校から離れ、いつぞや盟約を交わした誓いの喫茶店「シルビア」の横を通り過ぎる頃、周囲から制服姿がはけてくると、志保は用件を話し始めた。当然、「二組支配計画」の件である。彼女は一哉に続いて、二人目の仲間を入れると告げてきた。
「浅井信吾」
宏人は名前と顔を一致させるのに数秒の時を要した。三十数名しかいないクラスメートの中で思い出すのが難しい。そういう存在感の男子であった。
「金城明菜が、浅井クンのことを好きらしい」
新たな仲間の選別理由である。それで説明は済んだとでも言わんばかりの顔で志保は口を閉じた。そうして大体、彼女の意図するところが分かってしまう自分が宏人はあんまり好きではない。金城明菜は女子のメジャーグループのトップ付近にいる。リーダーの吉田と昵懇の仲である。
「浅井クンを仲間にしてうまく金城サンを引き寄せれば、女子グループの仲間割れを誘えるかもしれない」
恋を囮に友情を壊す。
つまりはそういうことであった。
「お前よくそういうこと考えられるよなあ」
「お褒めにあずかりました。でも、成功するかどうかは倉木くん次第」
「なにすればいいんだよ」
「まずは浅井クンと仲良くなってもらいたい」
「またデートしろとかいうのはやめろよな」
と言ってしまってから宏人は後悔したが、志保は、それも面白いかもね、と言って小さく笑っただけだった。てっきりまた瑛子との件を追及されるかと思っていたのだが、宏人の口が堅いので、さすがに諦めたのだろうか。
同じような形をした一戸建てが立ち並ぶ住宅街に入って、いったいどこに向かっているのかいい加減訊くか、と宏人が思い始めた頃、志保は一件の家の前で足を止めた。表札には「藤沢」とある。こじんまりとした門を片手で開いて、敷地内に入った志保は、宏人に入るよう促してきた。色とりどりの花で彩られた小道をちょっと上るとすぐに玄関である。
「ちょ、ちょっとタイム、シホちゃん」
振り返った志保は澄ました顔をしている。
宏人は手を差し出した。
「鏡持ってないか?」
志保は肩かけ鞄の中をごそごそした。宏人は、志保から受け取った手鏡で自分の顔をしげしげと検分した。毎日見慣れた、男の子にしてはちょっと細くて柔らかい線を持つ顔が映っている。特別変なところが無いことを確認し終えると、宏人は手鏡を返した。
「気が済んだ?」
「ああ……いや、ちょっと待て!」
「今度は何?」
「手土産! 手土産が無い!」
「要るわけないでしょ」
「これだから女はいやなんだ」
宏人は大きく両手を広げた。
志保は小さく首を横に振ると、戦々恐々とする宏人に背を向けて、玄関のドアノブへと手を伸ばした。