第104話:東から吹く風
風が弱くなった。
吹きつけるような風が少しやわらいだようである。
宏人は、ほっとした。
風は北から吹いている。
北風を恐れるとは情けない。そういう声もあろう。宏人としても、北から吹く寒風に敢然と立ち向かうことができる己でありたいと、そう願わないこともないが、実行に移すことは少ない。風にさらして赤くなった頬を見せて、「男らしい!」とか「か~わいい!」とか女子にきゃぴきゃぴ言われるならやってもいいが、当節ではめっきり赤丸ほっぺの需要は少なくなった。北風に立ち向かっても、一人波止場に佇むトレンチコートのダンディのごとく、何となく絵になるだけで実益が無い。
文より質、というモットーを持つ宏人は、北風吹くときは、家の中でおコタに入ってやり過ごしみかんを食べながら気を練り上げればよい、という考えの持ち主だった。行動するのは春になってから。地中の虫と一緒にもそもそと動き始めれば良いのである。
宏人にとっての春とはすなわち三年生時のことだった。現在の二年のクラスは、ちょっとしたトラブルがあって、一寸先は闇、宏人にとって極寒の地と化した。魂さえ凍てつきそうな寒さである。これを耐え、耐え抜いて、三年時という春を待つ。三年になればクラスが変わる。新しいクラスでのデビュー。忍耐の時期を一年持った宏人には、おのずと威厳のようなものが備わっていることだろう。「ヒロトくんって他の男の子とちょっと雰囲気違うね」「うん、大人だよね」的な感じで、一躍女子の注目の的となり、あまつさえ春風のように優しく繊細な少女との出会いなんかもあることだろう。
それまでの我慢である。
そんなことを思っていたわけだが、どうやら冬は九ヶ月後の三年時を待たずして早々に終わりそうだった。
「飲むか?」
給食後のお昼休み。教室である。ぺちゃくちゃとかまびすしい話し声の合間に時折おたけびのようなものが上がる。後ろで数人の男子が教室をプロレスのリングに見立ててじゃれあっているのだった。
差し出されたカップを宏人は受けた。カップといっても、水筒についているキャップである。宏人は中身を飲み干すと前の席に座った少年にカップを返した。まっすぐな眉と浅黒い肌に強靭なものを感じさせる少年である。彼はカップを手にすると、水筒から自分の為にアイスティを注いだ。富永一哉。それが彼の名であり、春の使いの名であった。
一哉を仲間に入れてから四日が経っている。
「富永くんをわたしたちのグループに入れれば、クラスから一目置かれるようになる」
という志保の言葉通りのことが起きつつあった。現に今も、遠巻きに視線を感じる。一哉の存在が女子の目を集めているのだ。これまで男子のルックスなど特別意識したこともなかった宏人だったが、よくよく間近で見てみると確かに人目を引く華やかさが彼にはあった。
「今日帰りにうち寄ってけよ、ヒロト」
「オレはもう犬にはならないって妹ちゃんに伝えてくれ。自分の演技力の無さに絶望したってさ」
「その絶望から救いたいんだよ。なんかお前のこと気に入ってるらしいんだよ、ミズホ」
「……兄の目から見てどう? 将来、美人になりそう?」
「さーな。あ、でも、アレだ。あいつがでっかくなったバージョンならこの学校にいるぞ」
「え? もう一人妹さんいんの? 一年生か。かわいい?」
「気持ち悪いこと言うな。妹がかわいい訳ないだろ」
「客観的にだよ」
「なおさら気色悪いだろ。何だよ。妹を客観的に見るって」
「写真とか持ってないの?」
「おい!」
優れているのは外見だけではない。ちょっと荒々しい所作があって人に誤解を与えるところがあるが、そして実際、宏人も付き合うまでは「怖いヤツに違いない」と思っていたのだが、予想に反し一哉はいいヤツだった。冬空のようにからりとした性質で率直、嫌味がない。小気味良い付き合いができそうな子である。
「あの、富永くん、倉木くん。わたしたちも混ざっていい?」
「混ざって何を話すんだよ? 昨日のバラエティ番組の話か? そんな話されて貴重な昼休み時間潰されたくないから、ダメだ」
宏人はショックを受けた二人の女子の顔を見た。勇気を出して話しかけたのにすげなく断られてすごすご引き返す二人。
このように率直が過ぎる所もあるが、本人に言わせれば、建前で人と付き合っても時間の無駄で得るものはないということだ。
「だから二年になってからクラスのやつとは誰ともつるんでなかったんだ。クソみたいなのしかいないからな、あのクラスには」
とは、初めて親しく話したときの一哉の言葉である。
「今んとこは、お前だけだ。ロクなヤツは」
「なんでオレ?」
「藤沢に聞いた。お前、あいつのこと助けたんだろ。ちょっとその時のシーン覚えてないんだけど」
あれで助けたといえるかどうかは分からない。今思えば激情に任せて給食のスープを周囲にひっかけてやるくらいのことはしても良かったのかもしれない。
「何の関係もない女をお前は助けたって聞いて。ああ、そういうヤツなのかって。お前らのグループに入ろうって思ったのは、それが半分。あとの半分は、藤沢の押しの強さだけどな」
「どういう勧誘の仕方をしたんだ?」
「勧誘って言うか、ほぼ脅迫だけどな。まず弟を手なずけて――何でも年の離れた弟がいるからお手のものらしい――次は妹だ。あいつ自分はあの髪なのに、髪の結び方とか知ってるみたいで、妹の髪を結んだりリボンをあげたりしてな。つれないヤツラだよ。これまで世話してやった恩を忘れて、たった三日で藤沢にべったりになりやがった。で、今度はお袋だ。仕事から帰ってきたお袋が夕飯を誘ったら、さっさと横に立って準備を手伝って、お袋にも気に入られた。それで、オレがグループに入るまで毎日来ると言う。毎日来られてみろ。兄の威厳は損なわれ、母親はついにカノジョができた息子を生暖かい目で見ることになる。お前なら耐えられるか?」
宏人は自分に置きかえて想像してみて、ぶるっと体を震わせた。
「だろ? だからこの前の日曜日に来た時に観念したんだよ。まあ、これはこれで楽しくていいけどな。クラスで誰か話すヤツがいた方がヒマつぶせるし、藤沢は面白そうなこと考えてるんだろうし」
志保が何を考えているにせよ、おそらく「面白い」ことではないだろう、と宏人は思った。それは既に骨身に沁みて分かっている。
「倉木くん、富永くん……あの、ちょっといいかな?」
幼い弟妹の世話という所帯じみた話で談笑していた二人のところへ志保が現れた。
ぼそぼそっとした声は対クラス用のカモフラージュである。
宏人と一哉は促されるまま席を立った。導かれた先は生徒用玄関である。何人かの男子が、まだ小学生時代をひきずっているかのように玄関前の廊下で鬼ゴッコに興じていた。下靴をつっかけてちょっと外に出たところで、志保はきょろきょろと辺りを確認してから、二人にまむかった。
「パンダ」
一言いって志保は口を閉じた。宏人は一哉と顔を見合わせた。
「富永くんのことよ」
二人の「こいつ何言ってんだ」的な視線に、志保は答えた。
「客を引き付ける客寄せパンダが富永くんの役割でしょ。さっきの何? 折角お客さんが来てくれたのにどうして威嚇したりすんのよ?」
そう言って志保は、先ほど女子が話しかけてきたときに追い返した件について、一哉を批難した。
「もっと客に媚を売ってよね。今日の夕飯抜かれたいの?」
一哉はつくづく感心したような顔で、志保ではなく宏人を見た。
「おい、ヒロト。お前、よくこいつと付き合えるなあ」
「慣れだよ、慣れ。それにお前にはオレがついてるから大丈夫だ、がんばろうゼ」
「二人ともやめてくんない、うっとうしいから。とにかく富永くんはもっと女の子に愛想良くして」
「ニヤニヤしてればいいのか?」
「にやけなくていいから。今みたいでいいじゃん。こんな感じで他の子とも話してよ」
「何か女子って苦手なんだよなあ。あの間延びした話し方聞いてると、『起きろ!』って肩を揺さぶりたくなる。今みたいにって言うけど、藤沢は例外だよ。お前、ホントに女子か?」
「……倉木くん、お願い、その辺から鈍器的なもの拾ってきて」
宏人は、残念ながら玄関前の清掃は行き届いている旨、答えた。
「仕方ないなあ。じゃあ、わたしの友だちで女の子っぽい子を紹介するから、その子で女の子とのおしゃべりの練習をしてもらうことにするわ」
「めんどくせーな」
「面倒くさいのよ。でも、やってもらう。放課後、時間空けてね。もちろん、倉木くんも」
それだけ言うと、志保は踵を返した。放課後は部活があるからと宏人が断る前に、彼女はさっさと下靴を上靴に履き替えていた。すがすがしいほど傲岸不遜である。
「ヒロト、お前、藤沢と付き合ってんだろ?」
心から同情するような一哉の声を聞いた宏人は、志保が自分史上二人目の「チョーイライラさせられる人間」だと言うことを以って答えとしておいた。