第103話:暮らすということ
暮らすということは片づけるということである。
部屋の整理を考えてみよう。
部屋は日々乱雑になる。新しく持ち込まれた物が整然とした空間を侵食していくのである。新来の客に居場所を与えてやらずおろそかにしておくとどうなるか。その辺にはしたなく散乱することになる。テーブルの上、ベッドの下、壁のそばなどに散らばって、部屋はとっても使用に耐えられなくなってしまう。
人生もこれと同じだと、環は思う。日々、自分という部屋にさまざまな問題が持ち込まれてくる。それをその都度ちゃんと解決しなければ、問題はうず高く積み上げられ、風通しが悪くなり、結果、心が淀むことになる。問題は、即、片づけなければならない。
「怒ってるよな、タマキ?」
隣からかけられた声はおそるおそるといった風だった。環が、いいえ、と静かに答えると、何を感じ取ったのかは知らないが、相手はちょっと身を引くようにした。そんな失礼な彼の名は、瀬良太一。クラスメートである。すっと高い背に整った顔立ち、他人を笑わせることがうまい社交的な性格でもって人気の男子だった。
二人がいるのは、学校の近くにある公園である。日没にはまだまだ時間があるが曇天のため既に辺りにある光は弱々しかった。園内では元気よく走りまわっている子どもたちがいて、彼らの大音声が陰鬱な空気を力強く打っていた。
しょんぼりと肩を落とす振りをする太一に、環は別に怒ってなどいないことを伝えた。問題にしたいことがあるとすれば時間である。できれば早く終わらせたい。今日はこれから塾があるので、あまり割ける時間が無いのである。
うなずいた太一は携帯電話を取り出すと気忙しげに電話をかけ始めた。抑えてはいるがちょっと強めの声を電話に向かって出すと、もう来るから、と環に向かってバツの悪い笑みを見せた。うなずく環の脳裏をふっとよぎる顔があって、彼女はつい自分の律儀さに思わず笑みをこぼした。
「どうしたの、タイチくん?」
自分の頬をつねるという奇矯な行為をしている少年に環は怪訝な目を向けた。
「いや、いい顔で笑うなあ、と思って」
「ありがとう」
「レイのこと考えてただろ?」
「いいえ」
「ウソつけ。タマキが怖くなくなるのは、レイがらみのときだけだからな」
「怖い?」
環は白い首を少し傾げるようにした。女の子に対する形容としてはなかなか秀逸である。タイチくんは何か勘違いをしてるんじゃない、とだけ言って環は口を閉じた。どうやら待ち人が来たようだ。
人を待たせておいてなかなかふてぶてしい態度でのっそりと歩いてきた少年は、同級生だった。クラスは違うが何度か顔を合わせたことがあり、言葉を交わしてもいる。太一と同じくらいの背をちょっと猫背気味にして歩いてきた彼は、環と太一の前で立ち止まった。アシンメトリーにカットした髪からのぞく左耳、そこにピアスが見えた。
少年はじっと太一に目を向けたが、太一がその場からちょっと離れただけでそれ以上動こうとしないので軽くにらむようにした。太一は視線を受け流すような振りで、
「頼んできたのはそっちだろ。オレには見届ける義務があり、そして権利もある」
軽やかな声を出した。
あまりに明るくからっとした声だったので、少年は怒る気力が失せたような顔をして、環の方を向いた。しかし、目は合わさずに、
「タイチに聞いたと思うけど……」
慎重な出だしから、
「俺さ、川名のこと好きなんだ」
一気に結論に持っていった。
環は神妙な面持ちで小さくうなずいた。
確かに聞いていた。放課後、下校しようとしたところで太一に呼び止められた環が、用件を聞いたところ、友人が話をしたがっているので時間をもらいたいと言う。何の話か聞くと、いつも陽気な太一が珍しく歯切れが悪い。強張る舌を無理に動かすようにして彼が言ったのが、つまりはそういうことだった。
「わたしに付き合っている人がいるってこと知らないの?」
などとは問わなかった。さすがにその辺りの事情は太一が斟酌してくれているはずである。それにも関わらず、あえて告白しようとする彼と、仲介の労を取る太一に対して、不快でなかったといえば嘘になる。とはいえ、不快なことが起こるのが人生なのである。それに対応するしかないのが人間である。
告白を受けてから環は少し時間を取った。いきなりのゴメンナサイでは、彼の立つ背がないし、また他にも言いたいことがあるなら言わせなければならない。
「一年のときからずっと好きだったんだ。加藤と付き合ってるのは分かってるけど、どうしても自分の気持ちを伝えたくて……」
それきり彼は黙ってしまった。
人から好意を伝えられて素直に嬉しいという気持ちはある。しかし、もし彼が伝えなかったら、その想いをずっと秘めたままだったら、彼にもっと好意を抱いただろう。カレシを持つ女の子に対して、彼女の気持ちを考えもせず、ただ自分の思いを押しつけようとしてくる行為には美が欠けている。それだけせっぱつまっていたと言えばそうだろうし、そういう焦心を笑うような不遜さを環は持っていないが、それを差し引いても、彼の行為は粗雑である。
――レイくんならそんなことはしない。
これは環の本意ではないが、非常に簡単に言うとそういうことでもあるのだった。
環は、好意は有り難いが付き合っている人がいてその人のことがとても好きなので告白の言葉だけしかいただけない、ということをはっきりと告げた。
相変わらずわんぱくな少年少女たちのにぎやかな声が響く中、小さな舌打ちの音が聞こえた。
「あのさ、聞いていい?」
ぶっきらぼうな声である。どうやらそれが彼の心内にある景色だったらしい。荒涼としている、と環は思った。
「加藤なんかのどこがいいの? 百歩譲って、瀬良なら分かるけどさ。加藤なんかより絶対俺の方がいいって」
馬脚を現すというのはこういうことを言うのだろう。かすかにあった彼への憐れみの気持ちはこの瞬間にきれいさっぱり霧消した。環は指先を手の平に食い込ませるようにした。自分のことはどう言われても痛痒は無いが、レイのことを悪く言われていつまで黙っていられるか、そんな自信は毛の先ほども無かった。それでもどうにか平静を保つことができたのは、こういう男に法を説いても仕方がないという深い諦めからである。
「加藤なんて全然パッとしないだろ。あっ、もしかして、そういう趣味の人なの、川名って?」
心の奥に凶暴な欲求が津波のようにうねりを上げるのを環は感じた。
言ってやろうか。
怜くんが花なら、あなたは雑草だと。
怜くんが詩なら、あなたは落書きだと
怜くんが月なら、あなたは電灯だと。
そんな雅趣のあることを言っても通じるかどうか分からない。もっと直截な言葉の方がいいかと思って、唇を開こうとしたところで、
「そこまでにしとけよ、武田」
傍観者が割って入ってきた。
「オレはお前に殴られたくない」
「は? 何で俺がお前を殴るんだよ?」
「親友の悪口をこれ以上言われてみろ、どうしたってまずオレがお前を殴らなきゃならない。当然、お前は殴り返してくるってわけだ。あ、そうだ、顔はやめてくれよ」
太一の冗談めかした声がその場の緊迫したムードを一気に白々しくした。武田少年は一度土を蹴って苛立ちを示すと、それで格好がついたと思ったのか、来た時と違って肩をそびやかすようにして去って行った。
環は握りしめていた手を開いた。爪の食い込んだ手の平がじんじんと痛みを伝えてくる。爪の痕がついた。
「タマキって結構簡単にキレるよな」
「わたしが?」
ちょっと離れたところから話しかけてくる太一に、環は平然とした声を出すと、キレそうだったのはタイチくんの方じゃないかな、と言って彼の顔を渋くさせた。悪かったよ、と謝る太一の言葉を背に受ける格好で、環は公園を後にした。努めて気持ちを落ちつけようと静かな足取りで歩道を歩いていると、一定の距離を置いて太一がついてくる。彼なりの罪滅ぼしのつもりなのだろう。一度断ったが聞き入れないので、好きにさせておいた。
環には今回の件に関する太一の真情が分かる気がした。彼は一見軽薄に見えるが、それだけではなく純粋な面を多分に持っている。おそらく今回仲介役を買って出たのも武田少年に同情したのだろう。もしかしたら彼に自分を重ねていっそう憐憫の情が湧いたのか、というところまで考えを進めてしまった環は、自分が少々意地悪いことを考えているのを感じた。気持ちがとげとげしている。
そんなとき、ふと着信を告げた携帯にメールを見せられてしまったのが、運のツキだった。メールは怜からである。友人同士の仲違いの仲裁役に彼を推薦してくれたことに対して、丁重な批難の文が書かれてあった。それに思わず、
「ごめんなさい」
と返信してしまった環はハッとして、しまったとほぞを噛んだが、むろん後の祭りだった。
自分は自意識過剰なのだ、そうに違いないと思いたかった環だったが、家の玄関に入ったときに男物の靴があるのを見て、幼い妹がきゃっきゃっと嬉しそうな笑い声を上げているのを聞いて、全てを諦めた。諦めて覚悟を据えた。今日は支払い日に違いない。日頃の不徳のつけを払う。
リビングで小学一年生の妹に抱きつかれていた怜は、環が入ってくるのを見ると軽く手を挙げた。それに応えられたのだから自分をちょっと褒めてやりたい。
「じゃあ、またね、アサちゃん」
立ち上がった怜に、妹は甘えるように抱きついた。
「えー、もう?」
「うん。今日はタマキお姉ちゃんに借りてた教科書を返しに来ただけだから」
「次はいつ来てくれるの?」
ぶうぶう言う少女の頭に怜は手をおいた。
旭はえへへと笑って、くすぐったそうに身をよじった。
玄関から門まで見送って行く格好で環が怜を先導すると、後ろから一度だけ怜の声がかかった。
環は答えなかった。それを答えと受け取ってもらいたいという意である。
そのまま通用口から外へと出ると、門の外で環は怜と向かい合った。
怜は立ち去らない。
じっとこちらを見てくる怜の正視に耐えきれず少し目を下げたところ、環は髪を撫でられるのを感じた。優しい手だった。びっくりしてそれでも少しそのままでいたあと、そろそろと目を上げると、環の目にあさっての方を向く怜の顔が映った。今日は夕日は沈まない。してみると、少し彼の横顔に赤みがかかっているのが、何を意味しているのか。それを考えたときに、環の鬱屈した感情は綺麗に晴れた。
怜の手が環の髪から離れた。代わりに目を環に合わせて、
「ま、アレだよ。タマキにもたまには頭を撫でられたくなるときだってあるだろ?」
確認するように言ってから、
「いや、頼むからあるって言ってくれ」
懇願口調にした。
「……あるって言ったら、もう一回してくれる?」
怜は少し笑ったようだった。
「もう必要ないみたいだな」
「ゴメンネ、レイくん。わたしってダメな子だな」
「だったら今からしっかりしてくれ。カップルがどっちもダメだったら目も当てられない」
怜は背中を向けた。その背に声をかけようとして、しかし環は思いとどまった。その資格はまだ今の自分には無い。いつか得られるようになるのかと言えば、それも非常に心もとない。ため息しか出てこないのだが、彼のためにため息をつける自分であることに喜びを覚えているのも事実である。
環はしばらく門前に佇んでいた。
地に広がりつつある薄闇の中で、遠ざかる怜の背だけが鮮やかな白だった。