第101話:仲直りの使者
努力しなければ良い結果は現れないが、努力すれば必ず良い結果が現れるかと言えば、そういうわけでは決してない。
たった今、一学期末定期試験の最後の科目を終えた怜は、世の無情についてしみじみと考えていた。昼下がりの教室である。怜の薄暗い気分を盛り上げてくれるためか梅雨時のためかは定かではないが、昼だというのに外は暗く、教室の中はなお暗かった。試験の為、怠らず勉強を続けてきたつもりだったが、どの科目もピンとこない手ごたえ。十全に解けた気がしない。中には全く手も足も出ない問題もあった。まだ本格的に勉強を始めて二カ月という短期間なのだから劇的な結果が出ないとしても当然。そう言って自分を慰めることはできるが、しかし怜には自分を甘やかすような趣味などないのだった。
「悔しい気持ちが持てるなら、それは本気で取り組んでいる証拠です。悔しさというのは、事に本気で向かっている人だけが感じられる特権なんですよ」
通っている塾の講師である山内女史の言葉が耳に響いた。いつか言われた言葉である。その言葉には励ましの色などは全く無かった。それだからこそ返って怜の心に届くのだということが分かっているのだとしたら、大した人だと言わざるを得ない。亀の甲より年の功。
「努力を結果につなげるのはわたしの仕事です。あなたは努力だけしてくれればいい」
矜持を秘めたそんな言葉を返されそうな気がして、怜は次の塾の授業のときに、努力と結果の相関関係についての見解を師に述べることは差し控えることにした。
幾分心穏やかになって、たまにはこちらから環を誘って一緒に帰ろうかなどと気まぐれを起こしつつ、帰りの支度をしているときのことだった。クラスメートが三々五々帰り始め空いてきた教室内に、新たに足を踏み入れた三人の少女がいた。怜は後悔した。己の力不足を嘆くなら誰もいない所ですれば良かった。男が泣くのは人目につかない所と相場は決まっているのに、
「加藤くん、ちょっと時間もらえる?」
さっさと家に帰らずにぐずぐず浸っていたりするから珍客の訪問を受けることになるのである。
怜は椅子に座ったままの体勢で、極力嫌な顔をしないように努めて、礼儀を守った。見慣れたお団子ヘアの少女が、眼鏡越しに真剣な目を向けてきている。大抵の場合、女の子が真剣な顔をしているときというのはロクでもないことを考えているときなのであるが、彼女はちょっと特別であった。田辺杏子とは二年余りの間部活動を共にした仲であるが、君子の交わりは淡きこと水の如しのたとえ通り、これまでのところ馴れ合うことなくやってきたのだった。彼女の場合、真剣な顔をしていても怜に害意は無いはずである。しかし、この事実は怜を全く安心させなかった。ロクでもないことでないとすればそれは大事なことということになって、無論そちらの方がずっと厄介だからである。
怜は杏子の隣に目を向けた。神経質そうな顔で控えていたのが、やはり同じ文化研究部の水野更紗である。どこか悄然としたたたずまいで元気が無い。そして、もう一人杏子のやや後方からこちらを鋭く見ていたのが、昨年同じクラスだった佐伯澄だった。親類縁者の女の子を除くと、最も苦手としている女の子である。
怜はかばんを肩にかけると大人しく連行されることにした。この包囲網を突破するのは不可能だった。一対一でも男子は不利なのに、まして一対三ではひとかけらの希望も無い。
導かれるままに校庭の一角に連れて行かれる怜。試験が終わったばかりであるにも関わらず、サッカー部は早々に練習を始めていた。
「折り入ってお願いしたいことがあるの」
威勢の良い掛け声が聞こえてくる中、話の口火を切ったのは杏子だった。
「サラサの話なんだけどね」
怜がちらりと目を向けた先に、視線を宙に漂わせながら居心地悪げにしている更紗がいる。人づてでないと話せないということは、よほど込み入った話に違いない。怜は話を聞く前から軽くげんなりするものを覚えた。しかし、話は全く複雑なものではなかった。それどころか恐ろしく単純なものだった。
怜と杏子、更紗が所属する文化研究部に塩崎輝という男の子がいる。先ごろ転校してきたばかりの子である。彼と更紗がちょっとした誤解から仲違いをしたので、その仲を取り持ってもらいたいということだった。なるほどシンプルである。定期試験で疲労した頭でも問題なく理解できた。ただ一点を除けば。
「何でオレが?」
「加藤くんは塩崎くんと仲いいでしょ」
予想済みの質問だったのか、滑らかに答える杏子に、輝とは特別なつながりなどないと怜ははっきり告げた。転校してきたばかりなのである。仲を深める時間など。
「でも、わたしたちよりは仲いいだろうし、何と言っても男の子同士だからね」
女の子同士には何らかの連帯感があるのかもしれないが、男の子同士にはそんなものは無い。少なくとも怜は、単に性別が同じだからという理由で友情を感じるような経験は今までに無かった。
「つべこべとさあ! 男らしく『はい』か『いいえ』で答えたら!」
業を煮やしたように脇から声を上げたのは澄だった。彼女は、ずいっと前に出て至近距離から男子をにらみつけるという、淑徳のかけらも感じられない非常に女の子らしい詰め寄り方をしてきた。半歩あとずさらざるを得なくなった怜の頭に、いったい澄がどのようにこの件にからんでいるのかという問いが浮かんだ。杏子は分かる。更紗とは小学校来の友人関係にあると前聞いたような気がする。しかし、澄は? ちょっと考えてみただけで全く聞く気などなかったのだが、澄は自分から話し始めた。
何でも初め更紗と杏子は、澄の所に来たということなのである。それは澄に仲直りの仲介を頼みたいということではなかった。澄のカレシに五十嵐俊という少年がおり、これは怜の友人でもあるのだが、彼に依頼をしたかったから、その前段階としてカノジョである澄に会いに来たということだった。
「話を割るようだけど、その筋で行くともしかして……」
「取ったよ、タマキの許可」
澄が当たり前のように言った。怜はあとで、自分のマネージャーを気取る少女に抗議のメールを送ることに決めた。
さて、依頼を受けた俊は即座に断ったらしい。事情を聞いて侠気を感じた澄がわざわざ更紗と杏子に同行して、澄自身から頼んだにも関わらずである。まことに男らしい行動。そうして自分の代わりにと言って推薦したのが怜ということだった。
「ボクがやっても多分うまくできない。でも、レイならできる」
そんなことを力強くのたまったそうだ。抗議メールを送る人間がもう一人増えた。
「……シュンがあんなに素っ気ないなんて思わなかったな」
怜から目を逸らして誰に聞かせるという風でも無くぼそりとこぼす澄。自分が間に入った願いなら聞き届けてくれるはずという期待があったのだろう。細い肩を落とす澄に、
「信じてないのか?」
注意深く力みを消した声で怜が言った。
「信じる?」
澄の目を軽く見返しながら、
「シュンのことだよ。あいつがそう言ったのは、そう思ったからそう言ったってだけで、他に意味は無い」と怜。
俊はそういう子なのである。けして自分でするのが面倒であるとか、心根が冷たいとか、そういう類の話ではない。
澄はムッとしたようだった。女の子というのはカレシのことは世界で一番自分が知っていると思いこんでいる節がある。自分以外の人間に知った風な口を叩かれてイラッとしたのだろう。余計なことを言ってしまったのは試験疲れであると思いたい。怜は、友人の期待に応えたいのはやまやまであるが、仲直りの使者など柄では無い旨伝えて、断ろうとしたが、
「女の子三人に頭を下げさせて断るなんて、加藤くんはそんな人だったの。男の風上にもおけない!」
澄の憤然とした声に遮られた。
怜はよくよく三人の少女を見てみたが、三人が三人ともその愛らしい顔をまっすぐ前に向けていた。その先に見ているのはどんな未来なのだろうか。願わくは、その未来予想図の中に自分を組み込まないようにしてもらいたいものだと思った怜だったが、
「この次にオレ以外に当てはあるのか?」
と訊いて、
「そんな気持ちで頼むような半端なものじゃない!」
という答えを得たとき、全てを諦めた。だとすると是が非でも怜に依頼する気だということになる。そんな覚悟を持たれた女の子相手に抵抗するだけの気力は今の怜にはなかった。今後持てるようになるかというとそれも怪しい。期待はしないようにとだけ念を押した怜は、かばんの中から携帯を取り出して、向こうの都合が良ければ今から会いに行ってくる、と告げた。
「え、これから?」
驚いたような声を出す澄に、怜は軽くうなずいた。問題を先延ばしにしたくない。番号を呼び出すと何度目かのコールで輝が電話に出た。話がある旨を伝えると、ちょっと戸惑いながらも快く承諾してくれた。既に学校を出て家に帰っている途中だということだが、戻ってくれるらしい。輝が戻ってくる道の途上にあるボウリング場前で待ち合わせることにした。
「じゃあ、あとで田辺の携帯に電話することにするから」
この中では彼女の番号しか知らないのである。女の子軍団からようやく解放されると思ってホッとした怜が歩き出そうとすると、ちょっと待って、と呼びとめる声がする。まだ何かあるのか、と警戒した怜に、お団子眼鏡の少女が、まだ更紗と輝の仲違いの顛末を話してないと言う。
「ちょ、ちょっと。アンコ」
慌てて友人の腕を取る更紗に、
「頼みごとをするんだから事情を話すのが礼儀でしょ」
杏子がなだめるような声を出した。
更紗の事情になど全く興味が無い。さすがにそうは言えない怜は、話したくないことを無理に話す必要はないと丁寧な言い方をしたのだが、杏子は頑として受け付けなかった。良識があるのも時に困りものである。怜は全然関心の無い話を真面目に聞く振りを演じなければならなかった。
話によると、先週の委員会活動のとき、更紗が輝に対して不適切な発言をしてそれ以来、輝が更紗に冷たいというのである。聞く所によると、怜もその更紗と輝の仲に亀裂が入った決定的瞬間に居合わせたそうなのであるが、全く覚えがなかった。とはいえ、その場にいたと言われたら覚えてないとも言えず、思い出した振りをしておいた。振りに振りを重ねてそのうち本当の自分が分からなくなるのではなかろうか。一部始終を聞き終わった怜は、
「それなら自分で謝りに行けばよほど早い」
とは言わなかった。さすがにそのくらいのことは分かった上で頼みに来たのだろう。
「わたし自身はね、別にサラサは悪くないと思うんだけど、ただわたしがどう思うかは大事じゃないからね。大事なのは、サラサが塩崎くんと仲直りしたいってことだから」
杏子は行き届いたことを言った。自分のことでないとはいえ、我意を抑えることができるとは珍しい女の子である。一方、澄は納得の行かない顔をしていた。そんなに下手に出ることはないんじゃないかという色がありありと見える。
「よ、よろしくお願いします」
軽く頭を下げてきた更紗に、怜はやるだけはやってみるよと言ってから、薄暗い曇り空のもとを校門に向かって歩き出した。
ようやく更新できました。
もし待ってくださってた方がいたら嬉しいなあ。
次話に続きます。