第100話:この世界に君がいるということ
怜は環を誘った。木陰になったところにベンチが一基佇んでいて、若い恋人同士を待っていた。怜は、ポケットから出したティッシュでざっと座面の汚れを取って環を先に座らせ、礼儀を通した。環の隣に腰を下ろすと、旭が友だち二人と園内を縦横無尽に走り回っている姿がよく見えた。先ほどサッカーをしていた子たちは遊び場所を変えたようである。
怜は背もたれに背を預けると、そのまま上を向いた。キラキラという煌めきが目を柔らかく刺した。重なり合った青葉の隙間で光が踊っているようだった。
「アサヒがねだらなくても来てくれました?」
環はいきなりそんなことを言った。
「タマキひとりだったら、来いなんて言わないだろ」
目を閉じた怜の耳を、
「レイくんは乙女心を分かってない」
軽い批難の声が打ったが、怜は気にしなかった。
「乙女心も分からないし、乙女じゃないヤツの心も分からない。世の中、分からないことだらけだ」
眠気を誘うような昼下がりだった。あくびをかみ殺す怜に、
「膝枕でもしますか?」と環。
目を開いた怜は、一瞬だけ、挑戦を受けてやろうかという気になったが、ぎりぎりで自分を保った。じゃあ頼むよ、と返した瞬間に、平然とジーンズの膝を揃えて差し出されそうな気がして怖い。君子危うきに近寄らず。とはいえ、既に手遅れのような気も若干している。
「定期試験対策の方はどうですか?」
「どうもこうもない。できることしかできないわけだから、やるだけやってあとは天命を待つさ。タマキは?」
「レイくんとおんなじです。人事は尽くしました」
「おなじじゃないだろ。お前には余裕がある。アサちゃんを遊びに連れだしてやってるくらいなんだから」
「だったら、レイくんは?」
「オレはただ優先順位の高いものを優先しただけだよ。妹の言葉は全てに優先する」
「ミヤコちゃんは幸せですね」
「あれは妹じゃなくて、妹になりそこねた者だ。まあ、あっちから言わせれば、オレは残念な兄ってことになって、つまりはどうしようもない兄妹ってことだな」
「それはわたしも同じかな。アサヒはレイくんを、マドカはスズちゃんを慕ってて、どちらからも慕われない姉ですから」
「どっちもタマキを慕ってるよ。ただ、前と同じようではいられないだけだろ」
「レイくんもそういうことあるの?」
「十年前までは都のことを可愛いと思ってたっていう恥ずかしい事実を言わせるつもりだろ。存分に笑ってくれ」
環は笑わなかった。しばらく落ちた沈黙を訝しんだ怜が目を向けると、軽く口を結ぶようにした白い横顔に葉の影が差している。
「……ねえ、レイくん。変わらないものってあると思う?」
「変わらないもの?」
「そう、ずっとずうっと続くものよ。この世の終わりまで」
「この世の終わりまで生きたことないからなあ」
こちらに顔を向けた環の目から鋭い視線を感じて、怜は態度を改めた。
「万物は流転するって言ったヤツもいる」
「ヘラクレイトスでしたっけ?」
「行く川の流れは――」
「絶えずしてしかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまることなし……もっと暗唱してみせましょうか?」
「タマキ、『慎み』って知ってるか? それを持っていると多くの人に愛されるらしい」
「知りません。それにわたしはそんなに欲張りじゃありません。ただ一人に想ってもらえればそれで十分です」
「お前にそんな風に思わせる子がいるのか?」
「レイくんがよくご存知の人です」
「名前は言わなくていい。顔を会わせるたび同情の目で見そうだから」
少女の体が少し怜の方に寄せられた。ベンチは三人がけくらいの長さで、それ以上近づかれると逃げ場がない。怜は慌てて付け足した。
「もちろん、同情の気持ちの倍くらいは羨ましいけどな」
「倍……ですか?」
怜が十倍に水増しすると、環は不承不承納得したような顔を作って話を元に戻した。
「昔の人が言ったことを知りたいなら自分で調べます。わたしが知りたいのはレイくんの考え」
駆けまわる幼子たちのキャッキャッという楽しげな声が風に乗って響いてきた。
怜は、念を入れてベンチから立ち上がると、環の方を見ずに言った。
「まだ見つけたことがないけど、でも、もしあればそれは美しいものに違いないだろうな」
目前に広がるこじんまりとしたグラウンドの先に家並みが見えて、その上には青空が広がっていた。ところどころに浮いた白雲がふわふわと気ままに流れている。
「わたしは見つけました」
軽やかな声が背にかかって、興味を持った怜が振り向くと、同じように環も立ち上がっていた。木陰から少し出る位置に立った少女の黒髪は、柔らかな日の光に濡れてしっとりと輝いていた。
「この世界を見つけた。この世界はこの世の終わりまでずっと続くと思う。そうして、わたしの今のこの世界はね、レイくんと出会って始まったんだよ。それは確かに美しくて、優しくて、とっても清らかだった」
思わず見惚れてしまうほど綺麗な微笑みを見せられた怜だったが、早まる動悸は美少女から愛の告白めいたことを言われたからではなかった。
「いつだったのか教えてくれ」
怜は喉から言葉を押し出した。
「何のこと?」
「いつタマキの世界は始まったんだ?」
初めて会ったのはいつだったのか、と怜は尋ねた。
「六年生より以前に同じクラスになったことは無かったよな?」
「それはその通りですけれど、でも同じ学校に通ってたんだから、他にも会う機会はあったんじゃないかな。たっくさん」
その口ぶりからすると、小六になる前に複数回会っていることになる。全く覚えがなかった。一学年三クラスしかない小学校だったので、もちろん川名環という少女がいることは知っていた。委員会か何かで一緒になったこともあるかもしれない。が、親しく話したりはしなかったはずである。自信は無いが。
「じゃあ、一つだけ。五年生のとき、バレンタインデーにチョコをあげたわ」
「待て待て!」
バレンタインデーに女の子がチョコをあげるという行為が何を表しているのか。恋愛に疎い怜でもさすがにそのくらいは知っていた。そんな行為を受けて、忘れているなどということは、いくらなんでもそれは無い。無いと思いたい。
「告白はしてません。チョコはその時の五年生の男子全員にあげたから」
怜は慄然とした。そんなことをして無駄に男心を惑わして何を得るつもりだったのか。
「ホワイトデーのお返しです。スズちゃんとどっちが多くもらえるか勝負してたの。ちゃんと、レイくんもお返しくれたわ。クッキーの」
はにかんだような笑みを見せる環には悪いが、全く覚えが無かった。
「そのクッキー、今でもあるとか言わないよな」
「おいしくいただきました」
「じゃあ、証拠は残って無いわけだ」
「心の法廷に証拠なんか要りません」
そこでは、裁判官と検事役を環が務めるのである。裁判内容は近代以前の非合理なもの。弁護をしてくれる者もおらず、被告人すなわち怜は常に有罪とならざるを得ない。
「ジュースでもおごるよ」
粛粛と罪を認めた怜は、自らに罰を科した。いんちきバレンタインの他に話をした機会について尋ねた怜だったが、環は答えなかった。どうやらサービスタイムは終了したようである。再びベンチに腰を下ろした環は自分の隣を手の平で指した。そこに座れという合図である。少し強い風がザワザワと葉ずれの音を奏でた。環は乱れる髪を気にもせず、怜を見ていた。
「どうしたの?」
いつまでも立ち尽くすカレシを怪しむ環。怜はできるだけ素知らぬ顔で、何でもない、と彼女から少し離れて座ったが、環はそれほど甘い子ではなかった。開いた手に滑らかな手がすべり込んできてしっかりとロックされた。すぐそばから花のような香りを感じた。
「タマキ、知ってるか。恋人同士っていうのはお互いの思ってることが分かるらしい」
心の中にあるものを話したくなくて、怜はあがいてみたが、
「じゃあ、今、わたしが思ってることも分かるはずでしょ。話してください」
と切り返されて、完全に捕まった。諦めた怜は、環と初めてあったときのことをなぜ覚えていないのか分かったかもしれない、と正直に告げた。
「それで?」
少女の目はその長い睫毛を数えられそうなほど近くにあって、微笑を宿した瞳は星の瞬く暗黒だった。
「この世界にタマキがいるってこと、ずっと前から知ってた気がしたっていうそれだけだよ。ずっと前から知ってる気がするから、返っていつ会ったか、はっきりと思い出せないんじゃないかってさ」
「ずっと前って?」
「ずっとはずっとだよ」
「いつですか?」
どこまでも容赦の無い子である。怜は憮然とした顔を作ってみせた。
「そんな顔してもダメです。さ、言ってください」
「……分かったよ。生まれる前からだ。満足か?」
怜の手は無事に解放された。環は不意に立ち上がると、飲み物はわたしが買ってきます、と言って公園の出入り口へと足を向けた。その足取りはいつもと変わらず静かなものだった。ゆっくりと遠ざかる華奢な背を見送っていると、怜の耳に元気の良い足音が近づいてくるのが聞こえてきた。