第10話:ガールフレンドの魔法の鑑
たまに、ほんのたまにであるが、親にいらいらすることがある。それは、部屋に勝手に入られ掃除をされたときだろうか? それとも、一時間勉強をして休憩を取っているときに限って、理不尽にも「勉強しなさい」と注意されたときだろうか? そうではない。そんなことでいらいらしていたら、毎日がストレスとの飽くなき戦いとなってしまう。良い子ぶるわけではないが、親には素直に感謝の念を捧げている。プライバシーを侵害されようが、軽く精神的ダメージを与えられようが、そのくらい何ということもない。感謝を言葉にはしない。そこは思春期ということで許してもらおう。怜にとって、心乱されるときとは、親が不意の気まぐれを起こすときである。
「あなたがお付き合いさせてもらっているその環さんを今度、家に連れてらっしゃい」
夕餉の食卓で真向かいから発せられた声を聞くと、怜は、それには答えず、じろりと横にいる少女を見つめた。彼女は取り澄ました顔で、夕食を楽しんでいる。
「怜、聞いてるの?」
母が続ける。
「どうして、突然?」
そんな話になったのか、一応訊いてみると、
「突然ってこともないでしょう。あなた、もう三、四ヶ月、お付き合いしてるんでしょ」
との答え。母には、環と付き合っているということは、はっきりと伝えた覚えはない。そうすると、なぜそんなことを知っているのか。考えるまでもない。怜に関する情報ソースはこの家には一つしかないからだ。横で、妹が箸を煮物に伸ばしているのが見えた。
「あなたも大事な時期なんだから、どんなお嬢さんとお付き合いしているのか心配になるのが親心というものよ」
なるほど、三、四ヶ月前から付き合っているのにも関わらず、これまで全くカノジョのことを訊いてこなかったのに、突然家に連れて来いという。親心とは、突発的に起こるものらしい。怜は一応了承したが、相手にも都合があるということは釘を刺しておいた。
「じゃあ、ゴールデンウィーク中にお邪魔することにします」
携帯電話で事情を伝えると、環はすぐに返答した。今はすでにゴールデンウィークの中盤である。行動が早いのが彼女の魅力の一つだった。軽く目をつぶる怜の耳に、
「いつがいい?」
と環の楽しげな声。
「そっちの都合に合わせるよ」と怜。
「わたしはいつでも大丈夫。お母様にお会いできるなら、たとえ予定があってもキャンセルするわ」
携帯電話の向こうで彼女がどんな顔をしているか、見える気がした。
「あ……でも……ちょっと待っててね。折り返します」
そこで何かに気がついたかのような声で、環は電話を切った。五分後に電話が来た。
「怜くん……一つ問題があるんだけど。実はね……」
問題とは、着て来る服のことであった。外出用のお気に入りの服をクリーニングに出しているというのである。社交パーティに行くわけではない。服など何でもいいだろう、と思わず口にした怜は、電話越しにたっぷり五秒の沈黙をプレゼントされた。
「悪かったよ。じゃあ、その服が戻ってきてからにしてくれ。ゴールデンウィーク中じゃなくてもいつでもいいから」
「そのことなんだけどね。この頃、新しい服を買ってもらってないから、母に頼んで何か買ってもらおうかなって思って。それでね……」
続けられた言葉に、怜はすぐには二の句が継げなかった。が、訊き返したり逡巡したりしなかったことは評価してもらいたい。
「分かった。じゃあ、明日」
そう言って怜は電話を切った。
翌日の十時頃、怜は環の家の前にいた。柄にも無く少し緊張しているようだ。鼓動が速い。インターホンを押すと答えはなく、代わりに玄関のドアが勢い良く開き、朝の清々しい大気の中に、見知った顔によく似た顔の小さな女の子が現れた。彼女は、たったっと、玄関から駆けてくると、門の横にある通用口を開けてくれた。
「レイ」
少女に抱きつかれた怜は緊張が少し和らぐのを感じた。
「こんにちは、旭ちゃん」
「レイ、抱っこ」
顔を明るくして両手を伸ばしてくる少女の頭に手を置いて、あとでねと言って軽くかわした怜は、彼女に手を引かれて通用口から門のうちに入っていった。
「アサヒ、怜くんは、環お姉ちゃんのカレシさんで、あなたのじゃないのよ」
玄関から優しい声がした。ストレートの黒髪を肩を隠すくらいまで長くした三十台後半のたおやかな女性がにこやかにこちらを見ている。当然ではあるが、環にそっくりだった。彼女の母である。
旭は軽く口を尖らせながら怜から離れた。怜は一歩前に出ると、
「始めまして、加藤怜です。環さんとお付き合いさせていただいてます」
と、淀みなくはっきりと言って、軽く頭を下げた。環の家には前に来たことがあるが、その時は他にもクラスメートがおり、環と付き合っているということを言う機会がなかった。当然、環は自分のことを話しているはずだが、それは怜には関係ない。
「娘がお世話になっています。環の母です」
と深く頭を下げた環の母は、
「今日はごめんなさいね。急にお呼び立てして。娘の我が侭にはお互い手を焼かされますね。苦労するでしょう、環と付き合うのは」
と微笑みながら言葉を継いだ。
怜が答えに窮していると、
「お二人で何のお話ですか」
と外から助け舟が入った。
膝丈までの飾り気のないチュニック姿の環は、母親の横に来ると、おはようと怜に言ったきり、口を閉じた。彼女はいつも微笑んでいるが、その微笑が今は少し深い。怜にはその理由が分かっていた。
「ごめんなさい、怜くん。父は今、出張中なの。言わなかったっけ?」
聞いていない。横を向いて礼儀正しく笑みを抑えようとしている少女に、怜は少し目を細めた。環の目に映っている自分は相当滑稽なのだろう。ついさっき、理容店で、綺麗にカットされた髪と制服姿の自分を姿見で見たときの気分を怜は思い出していた。
つまりはこういうことであった。
昨夜、環が告げたことは、新しい服を買うからそれに同行してくれというものだった。どの服がいいか見定めてもらいたいらしい。それだけなら問題はなかったが、スポンサーである母の車で行くというところに難がある。当然、環の家まで行くことになるが、その時に、娘のボーイフレンドを一目見ようと考えるであろう環の父と、またもちろん母にも挨拶する必要が出てこよう。母親とは面識があるが、父親とはまだ会ったことがない。初対面であることを考えると、できるだけ印象のいい外見で行くのがカノジョへの礼儀である。図らずも――ここは怪しいところがあると怜はにらんでいる――環の服よりも前に、怜は自分の服選びをしなければいけなくなった。自分のことになれば、環の気持ちも少しは理解できた。結局、着て行く服は学校指定のワイシャツと制服のズボンにすることにし、それほど伸びてはいない髪を朝一番で軽くカットしてもらったということである。いかにも、という感じになってしまったが、だらしなく見えるよりはマシであろう。
「ねえ、怜くん、怒った?」
環の母が運転する乗用車の後部座席に座り、窓から外を見ていると、隣から腕をつつかれた。環はおそるおそるといった振りをしていたが、相変わらず面白そうな顔をしている。
「いえ、怒ってません。お父様にご挨拶できなかった上は、環サンに笑ってもらえればむしろ嬉しいくらいです」
環の母の手前、丁寧な口調で答える。半分は本心である。カノジョの笑顔も見られないのであれば、こんな格好になった甲斐が無い。
「ありがとう」
と環がうるおいのある声で言った。それは今の怜の言葉に対する感謝ではない。
「順番が変わっただけだよ」
怜が言うと、
「次はわたしのターンね。心配?」
と環がいたずらっぽい顔で訊く。
「オレ……ボクが?」
「全然?」
「全然です」
「でも、少しくらいは……」
「少しも」
「本当に?」
「本当の本当に」
「聖人の言葉にこういうのあるの知ってる、怜くん。愛情の反対は……」
そのあとの言葉を怜は言わせなかった。彼女の言葉を遮って、
「やっぱり少しだけ」
いう。
「やっぱりね。怜くんのご両親の前で何か失敗したら手を差し伸べてね」
「差し伸べた手をどうするんですか?」
「引っ張るかも」
「だと思った。一緒に穴に落ちるじゃないですか」
「落ちた先に新しい世界がある」
「そんな新世界の開き方は嫌です」
「じゃあ、魔法の絨毯に乗せてくれる?」
「絨毯に乗っても世界は変わらない。変わるのは自分自身です、ジャスミン」
「あら、負けちゃったかな。では、勝利の褒美として汝に姫の荷物持ちの栄誉を与えよう」
「ありがたき幸せ。お召し物は一着だけですよね、姫?」
「そのつもりだけど、女は移り気なもの」
くすくすという抑え切れないような笑い声が、運転席から聞こえてきた。
「娘の新たな一面が見られて今日はいい日だわ」と環の母。
「お母さんにショックを与えちゃったみたい。わたし、家ではいい子で通ってるから」
環が人差し指を頬に当て少し首を傾けて、カワイイ顔を作った。
街の目抜き通りで下ろされた二人に、二時間の猶予が与えられた。
「ちょっと少ないかもしれないけど、家で円がお昼を作ってるから。それに間に合うようにね。加藤くん、お昼ご一緒していただける?」
「はい」
怜の返事を聞くと、満足そうにうなずいた環の母は、オープンカフェで待つので、何を買うか決まったら呼びに来るように告げた。
「環とそっくりだな」
環の母の後ろ姿を見送りながら何気なく言った言葉だったが、それは不注意なものだったらしい。
「……親子だから」
とだけ答えた環の声に珍しく張りがない。怜の言葉に何を思ったのだろう。何にしても失言である。謝った方が良さそうだ。そう思った怜を環が楽しそうに見つめている。
「何だよ?」と怜。
「怜くんでも緊張するんだなと思って」
機先を制された格好になった怜は、謝罪の言葉を引っ込めて、攻める方向を変えた。
「するだろ。今だってしてるよ」
「今? どうして?」
「可愛い女の子が近くにいれば、緊張もするだろ」
「あら、デート中に、他の女の子に目移りですか?」
環はわざとらしく辺りを見回した。怜は、こほんとわざとらしい咳払いをすると、
「オレの目に映るのは君だけだよ」
と大仰に言った。環は声をあげて笑った。機嫌は直ったらしい。
横を歩く環の様子を窺いながら、怜は彼女の新たな面を垣間見たような気がした。それは彼女にとっては不測のことだったのだろうか。分からないが、どちらにしろ、それよりも大事なことがある。彼女の新たな面を見たことによって、怜自身が行動を変えたということだ。それは取るに足らないほどの変化だったが、大事なのはそれが変化だということである。すると、環を見ていたようでいて、実は彼女を通して自分自身を見たということになる。そういう経験は他になかった。環と付き合うということはそういうことの繰り返しなのだろうか。だとしたら、それは良いことなのか。ただ、嫌な気分ではなかった。
「こ、ここに?」
数分後、怜はうろたえた声を上げた。
今度は作ったものではない。本心からのものである。
怜の目の前で、明るく開放的な婦人服店が彼を待ち受けていた。