第1話:桜の蕾の綻ぶころ、曇天の下、家路の二人
「ここではないどこかへ」
春の日の夕方の曇り空からふと降りてきたのは、そんなフレーズだった。
それは、流行の歌でもなく、古い詩句でもなく、ドラマのセリフでもない。
どこかで聞いたことがあるような、初めて思いついたような。
今の気持ちを、ざわめきを、違和感を、ピタリと表現してくれる言葉。
いや、違う。
気持ちを言葉で表現するのではない。
話は逆であり、言葉が気持ちを創造するのだ。
言葉が表したものが、そのまま今の気持ちになる。
新しい気持ち。
晦冥の宇宙に光を与えたその言葉は安らぎとともに不安をもたらすものだった。光が差さなければ、宇宙もその暗さを知らなかったのだ。闇に一筋、射したもの。突如現れたその明るさ、その温かさは、どんなにか心惹かれるものであることだろう。しかし、限りない怖れを抱かせるものであった。今は一筋のその光が、いずれは暗黒の全てを真白に染め抜いていくだろう。闇が光に変質するのだ。
創造はなされた。
その言葉を消すことは、もうできない。
ここではないどこかへ――
頭の中に浮かんだその句を何度か繰り返していたとき、
「怜くん」
後ろから軽やかな声がかけられた。
怜は、町の公立図書館の自動ドアを抜け、何歩か歩を進めたところだった。振り向いた彼の目に、同じように自動ドアを抜けて歩み寄ってくる一人の少女が映る。怜と同じくらいの年の、十四、五歳の少女。白のシフォンのワンピースをそよ風にふわりと舞わせた、黒髪のショートボブの彼女は、まるで曇り空から舞い降りた天使かと思われた。不覚である。思っているだけではなく、それをつい口に出してしまった。
「ありがとう」
少女は大げさな賛辞に驚くでもなく、しかし嬉しそうな様子でそれを受け入れると、怜の顔を覗き込むようにした。
「なに?」と怜。
「何か良いことがあったのかなってね」
その目が笑っている。
「良いことがなくちゃ、カノジョを褒めちゃいけないって?」
「そんな決まりはないけどね。でも、その通りなんでしょう?」
怜は答えず、歩き出した。彼女もその横に並ぶ。
しばらく二人無言のまま、先に沈黙を破ったのは少女の方だった。
「図書館へは本を?」
借りに来たのか、と訊いてきた。
怜は首を横に振った。「春休みの宿題の残りをやってたんだ。どうにか終わったよ」
「どうにかって量だった?」
二人が通う中学校では、長期休暇中の宿題はあまり出されない。
「オレにとってはね。環は?」
「わたしは本を返しに来て、少しゆっくりしてた」
「何か借りたの?」
「漢詩集だよ。美しい詞がときどき無性に読みたくなる時があるの。そういう時ってない?」
「あるね。カノジョにいらいらした時とか」
「カレシに冷たくされた時とかね」
そう言うと、環は笑った。怜は少女の横顔を見ていた。
まっすぐに前を見るその瞳にさやかな光がある。
綺麗な子だな。
素直にそう思う。
付き合い出したのは、三ヶ月くらい前のことである。中二の一月上旬のこと、冬休み。寒がりな怜は、身を切るような冬の風に震えながら、最寄りのコンビニから家に帰るところだった。そこで偶然出会った彼女から、カレシになって欲しいと、突然に告白されたのである。
彼女、川名環のことは、もちろん知っていた。同じクラスのクラスメートである。成績優秀、容姿端麗な才媛というのが、怜の評価だった。そして、それはクラスの男子の、いやクラスばかりでなく当時の二年生の男子の総意でもあった。それまでにも同じクラスであったり、またそもそも小学校も同じであったりしたので話はしていたが、告白されるような熱情を持たれているとは思ってもおらず、怜は戸惑った。しかし、受け入れた。
断る理由がなかった。好きだというわけではない。が、嫌いではなかった。それでも良ければ、ということははっきりと言っておいた。そういう物言いが、自分勝手なもので彼女の気持ちを考えていない行為であるのは承知の上だった。しかし、はっきりとそう言った。正直を美徳だと考えているわけではない。ただ、彼女に対してはそれがフェアであるような気がしたのだ。環がそれを聞いてどう思ったのかは分からない。気分を害していないことを祈るだけだったが、害していたとしてもどうしようもないことである。
「もうすぐ咲きそうだね」
環が言った。
歩道に沿って整然と並ぶ桜の木の末に、ちょこちょこと小さな蕾が見える。
「わたし、桜は、咲く前が一番好きだな。咲いたらあとは散るのを待つだけだもの」
いつ散るか心配しながら花を見ても落ち着かない、と彼女は続けた。
「だからあんまりお花見とか自分からは行かないんだ。誘われたら行くくらいで」
「オレは散り際の方が好きかな。花びらが舞うのを見てると、まるで『来年の再会まで忘れないで』って、別れを惜しんでくれているように見えるから」
環は微笑んだようだった。
怜はその微笑に対して何も訊かなかった。おかしな人だと思われたのか、似合わないロマンチストだと思われたのか。どう思われようと、それは怜の興味のほかである。自分の言葉が人にどう思われるか考えてから言わなければいけないとしたら、窮屈なことだ。
「『散るからますます桜は素晴らしい』って歌った歌人がいたけど、そういう感じ方とも違うね」
環が静かに言った。
「散るからますます素晴らしいなんて、おかしなこと言うよな」
怜が感想を述べた。
「だって、散らない桜なんて無いんだから、散るからますますなんて話にはならないだろ」
また、環の口元がほころんだ。ほころんだがそれだけで、怜の言葉に対して、同意も反論も示さない。彼女には自己の主張というものが無いように怜には思えた。そのことを悪いとは思わない。
むしろ、その逆である。声高に自己主張して人の意見を容れないような人間は醜い。そう思う。環に自己主張がないように思えるのは、彼女の中に芯が無いからではなく、しっかりとした芯があるからではないだろうか。芯があるからこそ、特に自己を主張することなく誰の意見でも受け容れられるだけの強さがあるのではないかと怜は感じていた。
「ヒナちゃんにね、レイくんと一緒に歩いているとき、何を話してるのか訊かれて、こういうこと話してるって言ったら変な顔されちゃった」
「じゃあ、倉木は賢と何を話してるの?」
「さあ、昨日のドラマの話とか、好きなバンドの話とか、次のデートの話とか、定期試験の話とか、友だちの噂話とか、じゃないかな」
怜は、昨日のバラエティ番組の話を始めた。
環はくすっと笑った。
「やっぱり、今日は、レイくん、良いことがあったみたいね」
怜は歩きながら少しの間だけ目をつぶると、目を開き、先ほど思い浮かんだフレーズのことを彼女に話した。別に隠しておくことでもない。
「ここではないどこか――」
環は何度かそのフレーズを口ずさむと、
「ね、レイくん。そのどこかにわたしも連れていってくれる?」
そう言って立ち止まり、そのほっそりとした手を怜に差し出した。
怜も立ち止まると、環の顔をじっと見つめた。彼女は微笑んでいる。その微笑にはどこか挑戦的な光があるように見えた。
怜の手は、彼女の手を掴むことはなかった。その手は代わりに、持っていた傘を差した。
曇天からはらはらと雨が降り出してきていた。
黒い飾り気のない傘が二人の上に広がった。
環は差し出した手を引っ込めると、怜のそばに寄った。
「用意がいいね」
「親に持たされたんだよ。いつまで子ども扱いするつもりなのか」
「レイくんのお母さんに感謝するわ」
環は、傘を差す怜の腕に、自分の腕を軽くからませた。あまりに自然なその所作に、彼女がそうするのが当たり前のように感じるのが怜には不思議だった。
細かな春雨の下に咲く傘の花の一つになって、二人はまた無言のまま歩いた。
「送ってくれて、ありがとう」
二階建ての瀟洒な家の前で、環が礼を言った。
「ちょっと雨宿りしていく?」
環の誘いを怜は、もう遅いから、と言って断った。
「じゃあ、またね。明日は始業式だね。三年生でもまた同じクラスになれるといいね」
そう言って、環は傘の下から離れた。そのまま、玄関まで縁石を渡って行き、玄関で手を振ってよこした。それに軽く答えた怜は家への帰路を取った。
雨はもうやみそうだった。