Part 9
ごう、という音が聞こえた次の瞬間、オレの周辺がまばゆい光に包まれた。同時に、パーティーホール内の気温が急速に上昇する。
炎だ。床にこぼれたアルコール度数の高い酒が揮発し、キャンドルか何かによって引火したのだろう。
たちまちホール中に燃え広がり、オレと〈ギルディング・フール〉を取り囲む。メメントの鏡の身体に映り込んだ炎が、まるで悪魔の吐息のようにゆらゆら蠢いている。
オレは浅く腰を引き、両腕を顔の高さまで挙げて構えた。対するギルディング・フールは、こちらの動作を鷹揚に眺めている。オレが何をしようとしているのか、この動きが自分に何をもたらすのか、見極め理解しようとしているふうに見えた。
オレがわずかに右足を踏み出すと、向こうもピクリと身じろぎした。鏡面の身体が、皮膚のように生々しくたわむ。
オレは吸い込んだ息を吐くと同時に前に出た。右肘をうしろに引いて弾みをつけ、メメントの顔に一発、右拳を叩き込む。続けて胴体にジャブの連打を繰り出し、顎への右フックでよろけさせた。
ギルディング・フールの感触は、その見た目や剥がれたときの様子から連想させるものと違い、カエルの表皮のように柔らかく、ぶよぶよしていて気持ち悪い。だが、筋肉の手応えはある。
たたらを踏んだメメントは、倒れることなく、片方だけのぎょろ目でオレを睨んだ。傾いた体勢を整え、おもむろに両腕を上げる。
その姿は、オレのファイティングポーズを真似しているかのようだった。
「オレはそんな素人くさい格好しねえぞ。オレを参考にするなら、もっとピシッとしろよ」
ギルディング・フールが、プロのありがたいアドバイスを無視して仕掛けてきた。まずオレの顔めがけて右ストレート、次に連打、最後に顎を狙う。オレの動きをそのまま真似ている。すべて回避したが、もし喰らえばなかなか重そうだ。
身体が鏡面だから、相手の動作を映しとる習性なのか? それとも、戦い方を探っているのか。
数回攻防を繰り返すうち、身体を慣らすために、まずオレの真似をしたのだと気づいた。メメントの攻撃パターンは徐々に変化していき、やがて独自の動き方にシフトしていった。
パーティーホールを満たす炎が、オレとメメントとの戦いの熱気をも加速させる。
オレのワンツーをブロックしたギルディング・フールは、交差したオレの腕を掴んで背負い上げ、炎に向けて投げ飛ばした。オレは炎に触れる一歩前で受け身をとり、素早く起き上がる。舞った火の粉が頬をかすかに焼いた。
メメントが目前に迫っていた。両手を刃物に変化させ、闇雲に振り下ろしてくる。オレは剣撃を左右に受け流したあと、すかさず回し蹴りを放った。
しかし蹴りはブロックされ、一瞬だが、オレは奴に背を向ける形になった。そこへ奴の剣が突き出される。オレは振り返らずに、条件反射で奴の剣を腕に抱え込み、鏡の顔に裏拳を数発叩き込んだ。割れた鏡の破片が、オレの拳にまとわりつく。
メメントが怯まなかったため、オレは肘で奴を突き飛ばし、どうにか距離を空けた。
ギルディング・フールの方へ向き直ろうとしたそのとき、右下から迫る刃物の斬影を捉えた。突き出されたその腕を、オレはとっさに左手ですくい上げて絡めとった。バランスを崩したギルディング・フールがつんのめる。
いい位置に顔がきたな。オレは奴の顔面に膝蹴りを喰らわせ、下腹部にも同じものを見舞った。追加で首筋を数回殴打し、絡めとったままの奴の手首を、思いきり捻りあげた。ぶよぶよの皮膚に覆われた筋肉を通して、奴の骨が折れたのを感じた。
骨折は大ダメージのはずだが、ダーマンテと違い、こいつは呻き声ひとつ漏らさない。人間だったときはあんなにヘタレなくせに、我慢強いねえ。
オレは再び距離を空けるため、ギルディング・フールを突き飛ばそうと腕を伸ばした。すると奴は、オレの腕を健在な方の手で掴み、自分の方に引き寄せた。
まずいと思ったそのときには、鏡の頭がオレの顔面にめり込んでいた。
「うぐッ!」
痛みと衝撃が脳にまで届き、一瞬目の前が暗くなる。オレの注意が殺がれたその隙に、奴はオレの首を掴んで、手近な壁に押しつけた。
強靭な力で、ギリギリと締め上げてくる。これがメメントの腕力か。血が頭に昇ってオレの顔は火照り、視界がチカチカと瞬く。
ギルディング・フールの片方だけのぎょろ目が、無感情にオレを見つめた。その目が勝利宣言をしているようでムカつく。
「くっそ、ざけんな……ッ!」
オレは壁に両手をあて、渾身の力で弾みをつけた。背中が壁から離れた瞬間、オレはその場でターンしながら拘束を逃れ、メメントの背後に回った。ノーガードのメメントの背に回し蹴りをヒットさせ、さっきまでオレがいた壁に、今度は奴を叩きつけた。間髪入れず無防備な膝裏を蹴る。くずおれたギルディング・フールの後頭部にとどめの一蹴。奴の顔面が壁にめり込んだ。
動かなくなったメメントから離れようとしたオレだが、あまり距離を空けられなかった。というのも、炎がすぐそこまで狭まってきていたからだ。
いつの間にか炎の規模は、オレやメメントを呑み込む寸前までに拡大していた。熱気は肌を焦がして喉を灼き、全身の水分を奪いにかかっている。充満する煙が目に沁みて、オレは何度も瞬きを繰り返した。
もうじき室内も崩壊するだろう。ぐずぐずしていたら炭になっちまう。
あのメメントはこのまま燃え尽きるに任せて、脱出するべきかもしれない。物事の決着はきっちりつける性分だが、時と場合によっては別の選択肢も必要だ。
オレはメメントを放っておくことにして、踵を返そうとした。
そのとき。
壁と一体化していたギルディング・フールが、ゆっくりと立ち上がった。緩慢な動きでこちらを向く余裕は、オレが与えたダメージなどなかったかのようだ。
「ちッ。本物の化け物は、さすがにしつこいな」
勢いを増した炎を映す鏡面の肉体は、それ自体が熱を発しているかのごとく、赤く照らされている。あれを倒すには、やはり【イノハヤ】が必要らしい。だが肝心の得物は、すでに失われている。
オレの肉体もマトモじゃないが、さて、特定の武器でしか殺せない相手に引導を渡すにはどうするか。
迫り来る敵を前に、オレの身体は無意識に戦闘態勢をとっていた。
そうだ。四の五の言ってる暇はない。勝つには戦るしかないんだ。
――来い。
「イタチ!!」
炎の中で、オレを呼ぶ声が聞こえた。一瞬、声のした方に注意を向ける。
灼熱の壁の向こう側から、聡明な蒼い光が宙に舞い上がる。それは炎を飛び越え、オレとギルディング・フールの間に落下し突き刺さった。
冴え冴えとした蒼輝を湛える、ひと振りの機械剣が、どこぞの英雄伝説よろしく、真っ直ぐに屹立している。
なぜそこにあるのかなどとは考えなかった。思考より先に身体が動いていた。
オレと化け物が駆け出したのは、ほぼ同時だった。
その身に劫火の虚像を映すギルディング・フールは、刃に変えた両腕を広げて迫り来る。
オレは走りながら、床に突き立った蒼い剣を引き抜き、斜めに構えた。
グリップに仕込まれたスイッチに指をかけると、キイイン……という小さな音がして、刀身が冷気に包まれた。グリップを強く握ると、冷気は勢いを増し、氷風を巻き起こす。
彼我の距離が残り二メートルを切った刹那、オレは最後の一歩を大きく踏み出し、氷結の剣を振り上げた。
蒼く輝く刀身が、化け物の左脇腹をえぐる。更に力を加えれば、刃はギルディング・フールの胴体に、斜め一直線の軌跡を描いた。
冷気の剣が化け物の右肩を突き抜け、雪のような氷礫を降らせる。凍結した斬痕は、炎の熱気によってたちまち溶けた。
胴が二つに分かれたメメントは、ゆっくりと崩れ落ちる。床に触れた瞬間、けたたましい破砕音を立てながら粉微塵に砕け散った。
もはや原形をとどめていないギルディング・フール、いや、ロイ・ヴィアネットだったモノの欠片たちは、硫黄に似た臭気を放ちながら、蒸気を立てて消滅していく。だがその蒸気と臭いは、炎と煙に呑み込まれ、まるで何事もなかったかのように、哀れな化け物が存在していた証は失われた。
パーティーホールを支えていた壁が、炎に耐えきれずに倒れた。天井からも建材が落下してくる。
「やべえ、早く脱出しねえと」
オレは痛み始めた目と喉をかばいつつ、炎の壁に向き直る。蒼い剣がまだ冷気を維持しているのを確認し、炎の壁を一刀両断するがごとく、大きく縦に振り下ろした。
冷気と熱気が衝突し、蒸発した水分が押し寄せる。暑さのあまり思わず腕で顔を覆ったオレだが、炎の壁が一瞬だけ切り開かれたのは見逃さなかった。
急いで火の中を通り抜けた先で、目の前には氷の剣の持ち主がオレを待っていた。
オレとレジーニは言葉を交わさず、ただ浅く頷き合う。
決着がついたことを告げるには、それで充分だった。
絢爛豪華なサイプレス・ハウスが焼け落ちたのは、オレたちが脱出して間もなくのことだった。
大規模な火災に発展したものの、的確な消防活動のおかげで、敷地外に被害が及ぶことはなかった。
表と裏、両方の上流社会の象徴がひとつ、街から消えた。それだけのこと。
オレとレジーニは、火災現場から少し離れた雑木林のそばで、サイプレス・ハウスの最期を見届けていた。冷気の機械剣〈ブリゼバルトゥ〉は今、主の手の中に戻っている。
しばらく無言だったが、オレの方から口を開いた。
「おつかれ」
声をかけると、レジーニはニヒルな笑みを浮かべて応じる。
「おつかれ」
レジーニと目を合わせたオレの脳裏に、ふとレイコさんやネズミたちの顔が浮かんできた。今頃どうしてるだろうか。レジーニの相棒を巡る騒動に巻き込まれている気がしてならない。
まあ、レイコさんもクロイヌもいるし、どうにかしてるだろ。オレがいうのもナンだが、いろんな意味であの二人こそバケモノだ。それにネズミの奴は、ひょろっちいが性根はしっかりしている。オレがいなくても大丈夫。
と、そんな思いを馳せていると、草を踏みしめる音がして、長身の黒影がどこからともなく近づいてくるのが見えた。
影の主はジェラルド・ブラッドリーだ。こちらに歩み寄りながら、優雅な仕草で拍手している。
「二人とも、お疲れ様でした。見事に解決してくれたね。やっぱり若い子ががんばって身体張ってるのを見るのは爽快だね。おじさん元気出ちゃったよ」
元気出た、が、健全な意味合いであることを願う。
隣のレジーニを見やると、レジーニもオレの方を見て、やれやれとばかりに首を振った。
「さて、それじゃあ」
ブラッドリーは両手を打ち合わせ、今もなお夜空に黒煙を立ち昇らせるサイプレス・ハウスを振り返った。
「そろそろ消防の出番が終わりそうだから、次は解体業者を呼ばなきゃダメだねえ、コレ。“後片付け”はボクがやっておくから、君たちはもう帰っていいよ」
「アンタが片付けを?」
オレが顔を顰めると、ブラッドリーはおどけた様子で肩をすくめた。
「こう見えて表の方にも顔が利くんだよ。助けてもらったから、あとの面倒事は引き受けよう。早くここから離れないと、騒ぎを聞きつけたマスコミやら警察やらが大勢来てしまうよ。そうなると困るでしょ?」
まあ、それは一理ある。
だが、ここを離れる前に、オレはひとつ確かめなけりゃならない。
「なあブラッドリーのおっさん。アンタひょっとして、クロイヌを知ってるか?」
クロイヌの名を出すと、ブラッドリーは片眉を上げた。ビンゴだな。
「クロイヌのいうのが君の依頼人か? イタチ」
と、これはレジーニ。オレは返事の代わりに頷いたが、目線はブラッドリーから逸らさなかった。
「アンタは最初にオレを見たときから、オレが誰なのかを察してたよな。オレが引き受けた今回の仕事に、アンタも絡んでたからだ。裏でクロイヌと繋がってたんだろ」
隣のレジーニが「そうか、なるほど」と呟いた。オレの一言で、今回の騒動の裏に描かれていた筋書きに気づいたんだろう。飲み込みが早いと、説明する手間が省けて助かる。
これは推測だが、合っている自信はある。
今回の仕事、クロイヌがオレのところに持ってくる前に、すでにブラッドリーとの間で取引が成立していたんだ。
いつからかはさすがに分からないけど、ブラッドリーはヴィアネットの謀反に気づいていた。先手を打って始末することはたやすい。だが、ヘタレだろうと一応は支配階級であるヴィアネットを殺すには、角が立たないようにしなけりゃならない。
そこで目をつけたのが〈塔の街〉の仕事人。
〈塔の街〉とアトランヴィル・シティは、これまで一度も接点を持たなかった。ヴィアネットを始末できる人材を手配しても、身元が割れるまでに時間がかかる。うまくすれば、まったく正体を知られずにコトを済ませられるかもしれない。何より〈塔の街〉には、ブラッドリーの取引相手がいる。
ブラッドリーは〈塔の街〉に――おそらくクロイヌに直接コンタクトを取り、始末人を一人派遣してくれるように依頼したのだ。
そうしてクロイヌは、オレをこの地に送り込んだ。
「いいタイミングだったんだよ。ちょうど〈塔の街〉で、密造クロセストや、メメントを素体にした生物兵器が出回っていて、クロイヌくんはその出処を探っていたときだった」
ブラッドリーは明朗快活に真相を語る。
「ボクは、そのプロフェッサーとやらが誰なのかなんて知らなかった。でも、公平な取引を結ぶいい機会だと思ってね」
レジーニが話を引き継ぐ。
「〈塔の街〉の仕事人に【鵺】や【イノハヤ】のルートを調べさせれば、遅かれ早かれヴィアネットにたどり着く。そうして奴を倒せば密輸ルートは絶え、あなたにとっても〈塔の街〉にとっても都合のいい結末になる」
「そういうこと」
ブラッドリーは食えない笑顔で、満足げに頷いた。
蓋を開ければなんてことない。シナリオはすでにお偉方が用意していて、オレはうまく乗せられたってワケ。
オレはため息をつき、後頭部を掻いた。
「んだよ。仕込み万端だったってコトか。だったらさ、レジーニの相棒の件もコミコミだってのか」
「いや、彼のことは予想外だったね」
首を振るブラッドリー。レジーニは一歩前に出る。
「あなたはプロフェッサーの正体と目的は知らなくとも、ヴィアネットが罠に嵌めてエヴァンを〈塔の街〉に送り込んだ情報は掴んでいたはずだ。なぜ放置しておいたんです」
ここまで冷静だったレジーニの口調に、わずかながら苛立ちが含まれたのを、オレは感じ取った。
「エヴァンだけじゃない。あいつに対する人質として、アルも巻き添えを食うことは、充分に予測できた。以前あなたは、アルの身の安全は保障すると言ったでしょう」
「うん、言ったね。ごめんね。でもロイを泳がせておいた方が、うまく油断してくれると思ったからさ。それに、ロイのせいで〈塔の街〉にメメントみたいなのが蔓延することになって、あちらに根に持たれるのも嫌だからね。今後取引がないとしてもさ、コトはスマートに納めなくちゃ」
ブラッドリーは、柳眉を吊り上げるレジーニに、不敵な笑みを向ける。
「エヴァン君を信用したからこそだよ。経緯はどうあれ、あちらに行けば、あの子はきっと【鵺】を倒すだろう。一緒にアルちゃんがいても、絶対に守るだろうから心配いらないってね。まあ、帰って来てボクに文句を言いたいなら連れておいで。いつでも聞いてあげる。さあ行った行った」
ブラッドリーに促されるまでもない。オレとレジーニは雑木林に沿って歩き出した。途中レジーニは、冷めきった目線をブラッドリーに投げ、ブラッドリーは飄々とその目線を受け止めた。
「あ、ねえねえ君」
ブラッドリーのそばを通り過ぎたとき、オレは一度だけ呼び止められた。
「お名前、なんていうの」
「イタチ」
「本名? それとも〈塔の街〉では、そういう呼び名をつけるのが習慣?」
「アンタにゃ関係ないね。もう関わるこたァねーんだから、知る必要もねえだろ」
「いいねえ、その反骨精神。クロイヌ君に言っておいてよ、お礼に今度とびっきりのバーボン送ってあげるって。じゃあね、イタチ君。どうもありがと」
ブラッドリーはひらひらと手を振ると、オレたちに背を向け、携帯端末でどこかに電話を掛けはじめた。
レジーニの姿はすでに遠く、オレは駆け足で後を追った。
雑木林を過ぎて路地裏に出ると、レジーニはそこでオレを待っていた。表通りの方は、集まってきた警察や野次馬、マスコミの喧騒に包まれている。警察車両や緊急者の赤色ランプが、夜空を照らしていた。
夏の夜風が、火照った肌に心地いい。
出来れば今夜は夢も見ないで、ぐっすり眠りたいもんだ。