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忘却に至る花

作者: とと


 ひとは、死んだら花になる。その命の灯火が掻き消えた瞬間、遺体の代わりに花が咲くのだ。死んで、咲く。終わったがゆえに始まって、いつか朽ちる時まで咲き遺る。

 その命を誇るように、その最期を嘆くように。花になる。花が咲く。


 墓場には、死人の花が至るところに咲いていて。ああ、あの世の匂いだ、と。"私"は目を細めた。


 色とりどりの花は、たくさんの人々の嘆きを聞いている。それを横目に見て、私が向かう先にあるのは白い花だ。白に、ほんの少しの青を溶かしたきれいな花。

 貴方の花だ。とうとうほとんど白くなってしまったその花の前に膝をつき、花瓶の中の水をかえようと手に取る。どろり、と甘ったるい香りが鼻をついた。


 ――彼岸の匂いだ。生者を誘い、手招く香り。花が白く染まるほどに強くなるその香りに顔をしかめ、いつもの手順で水をかえる。

 苛立ちからか、少しばかり乱暴な手つきになってしまっていたようだ。ばしゃ、と水が袖にかかったのを見て、溜め息をつく。水のかかった部分は、青い色に染まっていた。


 ひとは、二回死ぬらしい。まるで悟ったような凪いだ目でそう言ったあの人を、泣きたくなるくらい鮮明に覚えている。どうか忘れないでくれと、あの人が懇願するように呟いたのを。

 ひとは二回死ぬ。心の臓が止まったときと、忘れられてしまったとき。どこかで聞いたような話だが、なるほど真理だ、と。あのときの私はそう納得した。


 花を見る。白い花を。朽ちる寸前の、白い花を。


 忘れられるたびに、この花は白くなってゆくのだとか。この花だって、最初は、この空のように澄んだ青い色をしていたことを覚えている。

 共にいた日々が誰かにとって思い出になるたびに、色は水の中に溶けて消えていった。笑顔が、声が、約束が過去になる度に、花は白く染まっていく。


 完全に白くなった花は、水の中に解けて消えるらしい。断言できないのは、誰もそれを見たことがないからだ。

 忘れられたから、誰もその花を見ようとしていなかったから。だから、誰も知らない。


 かなしいな。他人事のようにそう思った。こちらの一角には、白い花だけが置かれている。私以外誰もいないこの一角の花はすべて、朽ちてしまう寸前なのか。

 それは、かなしいことだ。白い花だけの花畑にも見える光景を見回して、そう呟いた。花だけが、その人が生きていたことを証明してくれることを知っていたから。

 花が朽ちたら、無かったことになってしまう気がした。死んだら花しか残らない。生きていたことが世界から完全に消えてしまうというのは、なんとも残酷なことだと。そんなことを考えている。ずっと。


「また来るね、葵」


 せめて私だけは。そう思って、まだ鮮明な記憶の中の名前を呼んだ。

 ――なぜか、耳慣れない響きがした。





「ねえ、僕が死んだら、どんな色の花になるのだろうね」


 彼が何を言ったのか、一瞬だけ理解できなかった。彼のいつも通りに凪いだ目は、花瓶の水をかえる私を見つめている。目があって、言葉の意味を理解して、手に持った花瓶を投げつけてやろうかと思った。一瞬後、窓辺に置き直したが。

 彼の目に不安があったなら、その声に恐怖があったなら。私はいっそ救われたのに。彼の様子は恐ろしいくらいにいつも通りで、自分の死をその程度にしか考えていないことを理解した。

 頭に血が上りかける。感情のままに怒鳴りつけたくなるのを堪え、平静を装った声で返した。


「不吉なことを言うな、馬鹿」


 声は、多分震えていた。悲しみなんかでは決してなく、怒りから、だ。

 病室にある、備え付けの古びた椅子に座る。ぎい、と軋む音がした。目線が同じになる。

 私の視線が苛立ちを含んでいることに気がついたのか、彼は困ったように口元を歪めた。下手くそなそれが、彼にとっては精一杯の笑顔だと知っている。

 そんなことを知ってしまうくらい、長い付き合いになったのだ。だから、私がなぜ怒っているのかも、彼は理解しているのだろう。理解していて、この態度。腹が立つ。


「あはは、ごめん。でも、気になってさ」

「私は気にならない」


 貴方の花なんて、見たくない。そう伝えるように断言した。彼は少しだけ気まずそうに目を逸らす。

 その視線の先で、真っ白な花が風に揺れていた。彼の家族が持ってきたというその花の名を、私は知らない。


 彼が花になったのは、その二日後のことだった。花になった瞬間を誰にも知られることなく。朝、真っ白で清潔なベッドの上に、空色の花がぽつりと置かれていたらしい。

 きれいだった。かなしいくらい、きれいな花だった。彼の心は、きっと、その花に似た色をしていたのだろう。その澄んだ色を見て、私は一度だけ泣いた。


 懇願なんてされなくても、忘れることなんてできるはずがない。私はそう思った。想っていた。

 たとえ誰が忘れても、私だけは。と、空色の花に向けて約束した。一方的なだけの誓いだった。


 それでも、昔だって約束をした。忘れないでくれと懇願されたあの時に、忘れるはずがないと笑った日に。小指を絡めて約束をした。

 細くて白い、骨と皮だけのような指だった。その指を思い出して、空色の花を見て、面影さえも死んでいく現実から目をそらしていた。





 花が白く染まっていく。彼岸の匂いが濃くなっていく。誘うように、手招くように。それでいて、忘れることを許すように。そう、赦すように。


「私は、貴方を殺したくない」


 水をかえる。その行為に意味がないことは知っていた。ただ、それ以外に何ができるのかが分からなかっただけのことだ。毎日毎日、こうして白い花の水をかえる私を、誰かが見ていれば嘲笑うだろうか。無意味なことだと、愚かなことだと。


「忘れたく、ない」


 いなくなったことを偲んで泣くことも、あの日以来なくなっていた。薄情だと笑われるだろうか。そう考えて、笑う顔さえ思い出せなくなっている事実に気がついた。

 ゆっくりと、それでも確実に、彼の記憶が死んでいく。許し難い事実だった。それでいて、逃れ難い現実だ。


 この一角にある花が、入れ替わっていることを知っている。忘れられた花たちは、私の知らないところで朽ちていったのだろう。

 それは多分、とてもかなしいことだ。そう思うと同時に疑問が生じる。それは一体、誰にとってのかなしみだろうか、と。私はそれを、初めて疑問に思った。


 忘れた人は、悲しむのだろうか。死人の記憶が薄れ消えて死んでしまっても、花が朽ちたことを悲しむだろうか。首を横に振る。忘れてしまえば、悲しめない。

 この一角には、私以外誰も来たことがないのだ。それは、きっと、そういうことだ。花は悲しむだろうか。いいや、死んでしまえば何も感じることはできない。

 だったら、そう。これは、ただの私の感傷に過ぎないのだろう。そう考えて、久しぶりに笑えてくる。かなしいこと。忘れられるのは、忘れてしまうのは、きっとかなしいこと。


 それでも、必要なことだと。必要なのだと。随分前に、真っ赤な花が言っていた。朽ちた花は言っていた。

 誰の言葉だったのか、誰かが本当に言ったのか、もう思い出せはしないけれど。彼女が花になったとき、自分がひどく泣き喚いていたことは、なんとなく覚えている。


「……忘れない」


 彼岸の匂いがする。毒にも似た、甘い匂いだ。

 彼が死んだ日のことを思い出す。しとしとと、淡い雨が降っていた。三月の、まだ肌寒い時期だった。空は、花の空色とは似ても似つかない灰色に染まっていて。


 私は、確かに悲しくて泣いていた。


 忘れたくない。そう、思っている。きっと誰もが同じだった。冷たいから忘れたのではない。薄情だから花が死んだのではない。

 あの時の、足元が崩れていくような悲しみはもう感じない。私も忘れていく。私も忘れている。その事実が、ひたすらに、悲しい。


 だから、あの日以来、初めて。私は泣いた。子供みたいに、涙を流して泣いた。





 忘れていく。忘れていく。彼岸の匂いが、それを許すように溶かすように、墓場を覆う。


「……? あれ、私、なんで」


 化かされたような気分で、頬を伝う涙を拭う。夕方の墓地は、花畑と見紛うような風情でも、その成り立ちのせいで薄気味悪い。

 本当に化かされたのだろうか。なぜここにいるのかも、なぜ泣いているのかも思い出せず、ただひたすらに困惑する。


 目の前には、花瓶があった。花の生けられていない、墓の花瓶が。なんとなく気になって、中を覗き込む。そこには、水の一滴も入っていなかった。


「……忘れられた、のかな」


 少しだけ、悲しみにも似た感情が過ぎった気がした。それだけだ。

 私は、不思議なことがあったなと。首を傾げ、帰路につく。


「忘れていいんだよ。多分、花が咲くのはそのためだ」


 風に紛れ、小さな声がしたような気がして、振り返る。見送るように、真白な花々が手を振った。

初投稿です

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