萩野古参機関士 帰還
ブレーキの軋む音と共に列車がホームに滑り込む。ホームでの『列車が止まるまでお待ちください』の放送が聞こえる。二重コンプレッサーの独特の音が聞こえ、またタービン発電機の甲高い音、注水器の澄んだ音、そして駅弁売りの声が入り交じる。一番前の客車で聞くすべての音が何だか喜ばしく感じられる。扉の取っ手に手をかけ、列車が止まると同時に開ける。乾燥した風邪が吹き込み、思わずからだが震える。ホームには赤色の警戒標識が出ており、強風と示してある。あれは機関士から確実に見えるようになっており、安全運行のために欠かさないもので、正式名を『鉄道気象告知板』という。強風警戒か。あの手の警戒が出るのは遅いから多分そろそろ解除だろう。
ホームに踏み出して、ともかく歩く。改札口に並ぶ。地獄のように長い改札待ちの列。そりゃ帰りのラッシュだからね。死んだ魚のような目をしながらひたすら切符を見続けている改札係に切符を渡して出る。
そして、煤と油の匂いに満ちた機関区へと歩いて行く。突放を知らせる8620形の甲高い汽笛。そして、年寄りの断末魔のよーなB6の汽笛。あのB6はもう廃車の筈だ。明治時代以来の旧型機関車は老兵は去るのみとばかりに消えて行くのだ。
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ごみごみとした居酒屋。機関士たちに連れてこられた。いつもなら居ない筈の萩野機関士も居た。みんな凄くうきうきしているような雰囲気が漂っている。機関士の一人が立ちあがり、音頭をとる。何故かボクだけビールで、あとの皆は焼酎とホッピーだ。
「我が機関区ノォ、新しい見習機関士にィ、乾杯‼」
「「「乾杯‼」」」
一口つけて、誰からともなく、『轟け鐵輪』の合唱が始まる。
とどろーけ、鉄りーん 我が此の精神
輝ーく使命ーは 儼たり 響けり
栄ーあれ 交通 思へよ国うーん
ほーう公ひとへーぇに 身をもて献げむ
国鉄 国鉄 国鉄 国鉄
いざ奮へ我等
わーれー等ぞ、だいー家ぞーく二十万人
奮へ我等
(著作権切れの為、掲載)
皆興が乗ってきたのか、和気あいあいとなんか話したり、愚痴を言ったり、ワチャワチャだ。と言うか、ボクが帰ってきた事にかこつけて呑む口実作りだったんだろう。飲み屋の喧騒のなかに、機関士たちの声が溶けて行く。
そう言えば、機関士の育成所で、何度か貞操の危機を感じたこともあったし、さらには予想通りとは言え、周囲の目線も大変だった。そんな中、鉄道小荷物で色々とこの機関区の仲間たちが送ってくれたもののお陰で乗り越えられた。ただ、寄せ書きのど真ん中に書かれた『我が機関区の娘っ子へ』の文字に心を折られた気がしたのは、秘密だ。送られたものだから、消すとか塗り潰すとかも気が引けたので、上から襤褸布切を被せた。それでも、この機関区の仲間は、本当にかけがえのないものだと再確認出来た。そして、また再会出来た。それも『見習機関士』として。酔ったせいか、それとも皆と会えた高揚感からか、妙に気分がいい。
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「明日、お前は休みだから、ゆっくり休め。明後日から、始まるぞ。さあ、早く帰れ。」
萩野機関士は、それだけ言うと、別れた。何故萩野機関士がボクの仕業の行路を把握しているのだろう?いいや、飲み過ぎて頭が回らない。取り敢えず早く寮に帰って寝よう。明日は二日酔い、大変そうだ。