8話 譲(おれ)の出発した後の日本 その2
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※第三者視点です
日本海海戦の結果が歴史通り(平賀の書類通り)になったことを受けて、ある謀が動き出した。
まず、大本営陸軍部参謀次長の長岡外史の唱えていた樺太占領作戦の発動である、本来7月に始まるこの作戦が日本海海戦終了直後に動き出したのである。
6月7日に南と北より2個旅団(合計14000人)が上陸し、6月末には完全に占領を完了している。
さらに艦隊はウラジオストック近海を遊弋して緩慢ながら艦砲射撃を行い、樺太の占領部隊は間宮海峡を渡ってウラジオストックのある沿海州をうかがう姿勢を見せた。
その間にアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが講和を仲介し、最初は渋っていたロシア皇帝であったが日本海海戦の結果と樺太方面の戦況から講和のテーブルに着くことになった。
そして日本国内である変化が起きていた。
奉天会戦までは日本軍の勝利を新聞は熱狂的に取り上げ続け、人々もこれに熱狂していた。ところが、日本海海戦前頃からその新聞の論調に変化が訪れたのである。
政府寄りの新聞が連戦連勝を祝いながらも大量の徴兵により農村が疲弊していることを指摘するようになり、{十分に勝利している今講和を行い農村に働き手を!}と論説を寄せるようになった。
その後は他の新聞も与謝野晶子が発表した『君死にたまふことなかれ』 を引き合いに出したりし始め、早期の講和会議を求める記事が出始めた。
また、最初は巨額の賠償金や大陸への権益を声高に主張していた大学の博士たちが急に早期講和を説くようになったのである。
その情勢の中講和会議がアメリカのポーツマスで開かれることなり、全権大使に伊藤博文が任命された。
伊藤は明治天皇より特別に「国民生活の旧に戻る日を一日でも早く願う」との異例のお言葉をいただき、「我が一身に代えても必ず」と答えてアメリカに発った。
ポーツマスではロシア側全権大使セルゲイ・ウィッテが待ち構えていた。彼は皇帝より「一にぎりの土地も、一ルーブルの金も日本に与えてはいけない」 と厳命されておりその使命を果たすためにはアメリカのマスコミを味方につける作戦しかないと思っていたがここでその思惑を崩された、全権大使の伊藤がマスコミを集めて先制攻撃を仕掛けてきたのである。
「我が国はイギリス、アメリカだけでなく多くの国より更なる支援として国債などの引き受けも申し出ており後十年でも戦える、だが、世界の情勢、満州、朝鮮の安定こそが最優先としてルーズベルト大統領の要請に応えるのが信義であると確信しここに来たのである、ロシアは自他とも認める大国である、その国が僅かな土地や些細なお金にこだわるとは思えない、この講和会議は実りあるものと確信している」
その為出鼻をくじかれたウィッテだったが戦勝国のように振る舞いこちらもいつでも戦う準備があると放言した。
だがこの情勢下である出所不明のうわさが駆け巡った、日本が陸兵を乗せた艦隊を密かに欧州に派遣したというものである。
ある者によるとそれはロシアの首都サンクトペテルブルクに送った1個師団に及ぶ決死隊であり皇帝の宮殿に切り込む作戦であるとされた。
またそれは水雷艇を中心とした艦隊でバルチック艦隊の抜けたバルト海で暴れまわるのだとされた。
この怪情報は異様な速さで伝播してロシア皇帝の耳に入った、調査を命じると当時友好国だったフランスの記者がポーツマスに伊藤全権大使が出る直前に日本を出発した艦隊がいることを突き止めた、取材するとイギリスに向かうと関係者が口にしていたと言う。
さらに当時イギリス領になっている香港に日本の艦隊が燃料補給のために立ち寄っており情報が正しいと言う補強となった。
さらにウラジオストックの陥落も考えられる事態にウィッテも困惑し、皇帝に講和のための譲歩を進言する。
やむなく皇帝は樺太の割譲のみ認める返電を寄越した。大津事件や旅順要塞攻略で日本の野蛮さを内心恐れていた皇帝は首都への殴りこみもありうると恐怖したのである。
そして数回の交渉の末に以下の条件で講和が成立した。
日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
ロシアは樺太を永久に日本へ譲渡する。
ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
9月5日に講和条約が調印された。
その少し前にある人物が密かにポーツマスに呼ばれていたのには関係者は誰も気が付かなかった。
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