23話 明治と言う時代
ある人の死亡フラグ折れました。
※3/15修正
第三者視点
1914年3月24日 明治天皇崩御
すでに1911年頃より糖尿病により極度に健康を損ねておられた陛下であったが、「わしが死んだら明宮はどうなるのかまだ死ぬわけにはいかん。」と訴えていた、皇太子であった明宮嘉仁親王の健康状態に不安があったからである、このため孫に当たる迪宮の成長を見届けたいとの思いから最先端の医学の治療を受けることになる、食事療法から当時まだ存在自体ほとんど知られていないインスリン治療を受けたのはその思いからであった、病状が末期であったので医師も「ここまで持ちこたえられたのはひとえに陛下のお気持ちの強さと言う何物でもない」言ったと言われる。
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「星が落ちたな」
「ああ、大きな方だった」
譲の秘密を知りながらそれを信じてここまで改革を進めさせてくれたのだ、その英断は尊敬に値する。
「乃木さんは後を追わないかな?」
「陛下自ら迪宮と日本を頼むと言われては自刃はせんだろう」
譲の心配を本郷が心配ないと請合う。
「ちゃんと監視もしてるし」
「どんだけ組織でかいんだよ!で、これからどうなるんだ?」
「山縣さんも伊藤、山本大臣も思いは一緒だよ」
「やはり摂政を置くことになるか」
現在軍籍に入り任官している裕仁親王が大正天皇の摂政として国事の代理を務めることになる。
「今上陛下(大正天皇)は御病弱だからな、公務の負担が増せば命に関わることになるだろう」
これは全員の意見が一致した結果である。
因みに、譲の秘密は明治天皇自ら今上(大正)天皇と皇太子にして摂政を勤める裕仁親王に伝えられておりみだりに教えてはならないと釘を刺している、裕仁親王の弟宮たちにも伝えるなと言うほどの念の押しようであった。
さらに、乃木希典と東郷平八郎を枕頭に召し、特別にお言葉を与えた。
「両名ともこの後は国難であった日露の戦いを指揮した武人として後進の者たちに伝えて欲しい、軍を起こすということは、国民を護るための最後の力と心得よ、決して求めて戦いを起こしてはならんと」
このお言葉に両名は涙に咽びながら誓いを立てた。
乃木にはさらに言葉をかけられた。
「そなたは日露の戦いの報告の時に自栽したいと申しておったが、我が命続く限り生きよと言ったがこの言葉違えねばならん許せ、そなたには裕仁の事を見て欲しい」
その言葉に乃木は号泣し摂政裕仁親王の相談役として生きることを誓った。
「わしらも表向きは隠居するよ」
伊藤博文も山縣有朋も共に政界から引退することにしたようだ、もちろん元老としては遇されてはいるが表舞台に立つことはない。
現役で秘密を知る者は山本だけとなるのだが新たに斉藤実と牧野伸顕を仲間に引き入れることとなった、基本リベラルな所から選ばれた。
基本方針は変わらず、米英とは協調して大陸に関しては、遼東半島の租借といくつかの地下資源の採掘権を得るだけにしていた、かつての旅順要塞と港に僅かな軍を駐留しているのみである、これは関東軍のような大規模な部隊を置いて暴走するのを防止するためである。
南満州の鉄道はアメリカとの共同経営になっているが実際の所は、株を半分持っているだけで運営はアメリカ側が行っている、大韓民国も日米英で保護国化しているが鉄道など一番インフラ投資をしているのはアメリカで、イギリスは国の財務の面倒を見て、日本は教育関係の支援を行っている、教師になる予定の人物の教育と学校の建設の助成である。
尤も保護国ということで内政に関しては極端な強制は3カ国は行わなかったためアメリカが必要とする以外の交通インフラや都市整備などは進んでいなかった。流石に戸籍も持たない奴隷同然の階層があることは問題になり、国民として認めるように3カ国で要求し認めさせるなどしたが、あくまでも{他国}であるために国内の開発は自前でしなければならなかった。
そのため人口は横這いが続き植林なども行われないままに水害で飢饉が起こり難民が発生し難民は満州へ行くかアメリカに移民した、だが年々増加する移民にアメリカは脅威を感じ移民制限法を制定することになった。
日本にも密入国する者が跡を絶たずその対策に苦慮した政府は沿岸警察隊を設立して対応した、後の海上保安庁である。
大陸や半島に向かわなかった分は東北、北海道、樺太、台湾への投資に回された。また日本窒素肥料株式会社が発電用ダムを国内に作り新工場を設立した。当然のことながら公害などは出せないように児玉内閣時に環境省が設置され法律も整備されたので公害の予防になっていくのであった。
こうして明治と言う時代が終わり大正へとなるのであったがその最初の年は波乱の始まりでもあった。
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