幕間話17話 ビスマルクを巡る戦い ~ある海軍士官の見た海戦~
※本作品は架空戦記創作大会2018夏 の御題②として書かれたものです
お断り 昨今小説家になろうにて無断転載される事例が発生しております。
其の為此処にてお断りしておきます。
この作品は 私ソルトが書いたもので小説家になろうにのみ投稿しアルファポリス・ツギクルにリンクが張ってある以外は無断転載になります。
※本作品は架空戦記創作大会2018夏 の御題②として書かれたものである。
欧州派遣艦隊に配属された新米の海軍士官の視点で書かれています。
尚参考とさせていただいた『なにわ会』(海軍兵学校第72期、海軍機関学校第53期、海軍経理学校第33期の合同クラス会)のホームページに掲載されている戦記(会報に載せられていた物を纏めたもの)のようにクラス会の会報に掲載されていたものという体裁を採っています。
(なにわ会については検索して一読される事をお勧めします。流通している本に書かれて居ない事などが体験談として載っており参考になります)
或る海軍士官が見たビスマルク追撃戦
1.任官と欧州で初陣
士官養成過程を終了した新米少尉である自分が任官したときに欧州での戦いが始まった。最初の配属であった駆逐艦楡は旧式艦で大戦(第一次)を戦った古強者であった。主に大西洋でUボートと戦っていたと聞いていたが大戦が始まる前に後継の松型駆逐艦の配備に伴って改装されるのが決定しており僅か二ヶ月という短い勤務であった。(その後の楡は打撃艦204号(※1)と改名されて太平洋で活躍する事となる)
次に配属になったのが夕雲型駆逐艦の風雲で竣工し立てでどこもピカピカのフネに乗れたのを皆喜んでいた。自分は砲術長の下で砲術士兼分隊士を勤める事になり、初陣が欧州と聞き同期(クラス※2)で同じく駆逐艦勤務になったクラスメイトたちと酒を片手に気勢を挙げたのをまるで昨日のように覚えている。
欧州へ向かう船団護衛が最初の仕事であった。船団の総指揮を執るのは戦闘指揮艦『夕張』に座乗する木村昌福少将で海上勤務一筋の猛者であるはずなのだがあのトレードマークというべき髭や伝え聞く御人柄は猛者というよりも田舎の村夫子のようであるとの評判であった。(後に連合艦隊司令長官に抜擢された時には皆仰け反って驚いたものである)
練習航海で海外に行った経験はある物の、今回は実戦で同じ艦に乗る諸先輩方からは『インド洋は英軍の庭とは言うが油断するなよ。Uボートを甘く見るな』と繰り返し言われ緊張しつつスエズを越え、初めての地中海に感動したり、途中で合流したイタリア海軍の陽気さに驚き(イタリア人は何処でも女を口説くと言うのが話し通りだったのにも驚愕!)初めての敵の襲撃に緩んだ螺子の締め直しをしたりと、あの航海の事は今でも鮮明に思い出せるのである。
英国に着いた我々であったが僅かな休みの後にはUボート狩りを専門とする対潜掃討隊に組み込まれ海中に潜む敵との戦いを繰り広げた。私の配置は砲術なので潜水艦狩りは専ら爆雷を担当とする水雷と探信儀を扱う水測が忙しく偶に浮上してきたU-ボートがあると水上砲戦準備が掛かるのだが大概降伏したため撃つ事は無かった。制空権も此方が握っており、海上では独逸機が襲撃してきたのに会った事が無い状態で僚艦の砲術と腕が鈍ると良く言ったものだった。
その後『夕張』に座乗する木村提督の指揮する大規模救出船団がアントワープに向かうと言う事で我々もその露払いを受け持つ事になりこれまでに無い潜水艦の攻撃を受ける事になった。我々は船団の道を開く為と信じて潜水艦の群狼戦術と死闘を繰り広げた。我々砲術が遅い初砲撃を為したのはこの時で、浮上して攻撃してくる潜水艦に艦砲を向けさせて撃ち方始めが来てからは頭が真っ白になり打ち方止めが入り部下に言われるまで気がつかなかったのであった。
尚も掃討作戦が続く中船団が無事入港しユダヤ難民を無事救出したとの知らせを受けたが、船団が大幅な南下迂回コースを取っていたのを始めて知った。これは艦長以下誰も知らなかったので情報の漏洩を恐れて完全なる無線封止状態で行っており此の時初めて我々は木村提督に対して此れは只者でないと印象を受けたのであった。
風雲はこの時にUボートを撃沈確実5とし{潜水艦キラー・エース}の仲間入りを成し遂げた。又浮上してきた一隻を拿捕している。
作戦終了後は暫くは英本土を根拠地としてローテーションを組んで北海の対潜哨戒に当りUボートを追い回したが、其の内ある作戦が隊内を賑わす事になる。それが表題に在るとおり、ビスマルクに絡む物であった。
この頃独逸海軍はUボートの損害が大きくなっている事を受けて水上艦艇を使って北海で通商破壊工作を行っており、我々とは別の部隊が遭遇し戦闘になっていたりした。
敵さんは駆逐艦が主で其の中に軽巡洋艦などが混ざっており戦果の方も一進一退であった。其の均衡を破ったのが鉄血宰相の名を受けた戦艦ビスマルクであった。最初にビスマルクに遭遇した部隊の長は{子供の喧嘩に親が出た}と言ったそうだがいきなり遭遇したとなれば其の気持ちは判らないでもない。幸いにしてこの時は我が友軍は其のあぎとから逃れたものの犠牲者は直ぐに出た。ビスマルク狩りと称して出撃した英戦艦プリンス・オブ・ウェールズとフッドが返り討ちに会いフッドが撃沈されるという事態になって遂に我が軍も本気になったと思いきやビスマルク討伐を兼ねて独逸の軍港の中で重要な位置を占めるヴィルヘルムス・ハーフェンを襲撃するという非常に投機的な作戦であった。其の作戦に置いて指揮を執るのは一人しか居ない、木村提督に其の命が下った後我等風雲も所属部隊ごと召集されて臨時編成の強襲部隊が出来上がった。
編成を下記すると
旗艦 戦闘指揮艦 夕張
第五戦隊
重巡洋艦 那智
妙高
羽黒
第三十三駆逐隊
山雲
風雲
巻雲
夏雲
第三十五駆逐隊
初月
新月
冬月
涼月
第五十八駆逐隊
杉
樅
樫
檜
楓
第百十五哨戒隊
118号・122号・131号・133号・138号
これに途中まで対潜掃討隊として101・112駆潜隊が付き航路の安全を図った。
これには流石に艦内でも喧々諤々の騒ぎになり『何故戦艦退治に戦艦を出し惜しみする!』『駆逐隊の雷撃でビスマルクを仕留めるつもりだ』など色んな話が飛び交った。今でこそダンケルクで行われた{ソウルクラッシャー作戦}の為に戦艦を温存していたというのが判るが当時は神ならぬ身ゆえ裏でその様な事が行われているとは思わず同期たちと酒場で悲憤慷慨した物である。
其の中でも木村提督は出撃まで飄々とされていたと幾人かの手記にも書かれているが、当時風雲の艦長をされていた東日出夫少佐が会議のために夕張に出向くと舷側で釣りをされているのに出くわし『司令、釣れますか?』と尋ねると『おおっ!大漁だからこれを肴に一杯やろう』と酒をお相伴して帰ってきて『あの方は真の将だ、俺は今日確信した』と言われ艦長が其処まで言うのに驚いたものだったがやがて出撃の命が下ると其の言葉を証明する事となった。
2.ビスマルクと遭遇して
命令一過、部隊はスカパ・フローを出発した。この部隊には実は正式な名前が無い事が出撃直前に判明した。それまでは皆暫定的に{討ち入り部隊}とか{カチコミ部隊}とか呼んでいた。前者は赤穂浪士に引っ掛けており後者は任侠映画からである。呆れた事に欧州派遣軍内でも決まっておらず、{殴りこみ部隊}{強襲艦隊}{特別編成隊}などの名称で皆勝手に呼んで書類に残している始末でそれが現在まで尾を引いており戦記物でもてんでばらばらに呼称しているのは其の為である。出撃直前に正式名称は{木村艦隊}と決まったのでこの手記内でもそう呼称することにする。
そうして独逸本土に向かっていくと、先行していた哨戒隊から独逸艦隊発見の報が届く。
{敵艦隊電探により探知、尚戦艦が居る模様}
この電文を聞いた先任士官が艦長に「こいつは大当たりですな」と言い、艦長は「畜生!勝ち札を買っておくんだったな」と返していたのを今でも思い出す。後にビスマルクは僚艦として戦艦ティルピッツ、巡洋艦プリンツ・オイゲン、Z5型駆逐艦六隻の艦隊であったことが判明したが当時はビスマルクの名前が先行して他の艦はその他扱いであった。
すると『夕張』より電文が入ったと通信長が艦長に見せていたが、「あれ使うのか!」と艦長が素っ頓狂な声を出すのを始めて耳にしたなと思っていると「噴進弾戦用意!」といきなり発令され、砲術長が復唱するのを聞きながらこれはえらい事になったと思った。噴進弾と書くと今の若い者は横文字を使いたがるので書くがミサイルの事である。
だが今でこそ主力兵器ではあるが当時は試作兵器であり戦果が期待できるか担当の自分でも良く判らなかったのだ。当然だが新兵器の運用のために配属前に講習を受けたが講師役の技術士官は命中率の高さを挙げてこの兵器の有用性を説くのだが北千島の射爆場の動かぬ的を狙うのに100キロ離れた所から命中させても我々は非常に実用性に?であったのだ。
だが命は下されて、自分の部下に「噴進弾用意」を命じた。艦隊の中で噴進弾を装備しているのは旗艦夕張と三十三駆逐隊、三十五駆逐隊、五十八駆逐隊である。意外だったのは戦時急増艦であるはずの五十八駆逐隊の松型が搭載していた事である。これは後に聞いた話だが軍令部や艦政本部も頭が上がらないお偉いさんがこれからは噴進弾が戦争の帰趨を決める事になると搭載を命じたとか聞いたが正に其の通りとなりその先見性に脱帽したのであるが其の当時は不安で一杯であった。夕雲型は新造時より前級に無い噴進弾発射機を備えていたが其の分後部主砲が一門少なくなっており砲撃戦になった場合はどうするのか?噴進弾発射機の連中に敵の位置情報を知らせやがて発射体制が整った。
「目標東方約五十海里先の敵艦隊、噴進弾撃ち方始め!」
旗艦のこの命令に風雲と其の僚艦が一斉に発射を開始した。白煙を引きながら空の彼方に飛んでいく噴進弾に皆不安気な顔でいたのを思い出す。
戦果確認の方は羽黒が搭載ヘリを飛ばしていたのですぐに判った。此の時発射された噴進弾は三式誘導噴進弾(勿論試作品である)なのだが正式採用年よりも三年以上早いのはどうなのかと思ってしまう、誘導方式は赤外線なのだが、此れは飽くまでも暫定で最終的には複合誘導方式を導入するとされていた。そのための三式なのだとの説明があったが我々としては新兵器の実験台扱いで酒の席で相当愚痴の肴となったのであった。結果的には約百発発射して命中が四十六発でこれはかなり近くまで寄っての砲撃よりも命中率は良かった。だがビスマルクは流石に独逸が誇る戦艦であった。そのうちの二十発近くが命中したにも関わらずビスマルクを仕留められなかったのであった。
沈められなかった原因は色々言われているが矢張り弾頭の問題であろう、『夕張』には技術本部の技術士官が乗り込んでおり此れは使用された新兵器の情報収集の為乗り込んでいたのであるが、丁度夕張にいた同期生が情報収集したのを会戦後聞いたものによると本部でも噴進弾によって重装甲の戦艦を沈められるか疑問視する意見があり数種類の弾頭を用意していたとの事であった。因みに我々三十三・三十五駆逐隊には戦艦の徹甲弾に近い構造の物が使われ五十八駆逐隊は成型炸薬を使った弾頭、『夕張』は多目的弾頭と仕様が違って居るとの事であった。
ビスマルクが沈まなかった事で艦隊司令部ではこのままビスマルクを追撃し撃沈に追い込むべしという意見と本来の目的である軍港襲撃を続行するべしとの意見に分かれたが木村提督は作戦は予定通りに行うとしてヴィルヘルムス・ハーフェンへの進路を採った、ビスマルクは北上しキールへ逃げ込む進路を採っていたため追うと大幅な航路の変更となり燃料の問題上ヴィルヘルムス・ハーフェンに行けなくなるというのもあったが司令官は「ビスマルクは他に任せよう、本隊は予定通りヴィルヘルムス・ハーフェンを攻撃する」と言われたという。
其の為、艦隊は予定通りに行動しヴィルヘルムス・ハーフェンに近づくと駆逐艦や魚雷艇による襲撃を受けたが難なくこれを追い散らし艦砲射撃を行った。ここでは出番の無かった第五戦隊が張り切って砲撃をしており、軍港機能にかなりのダメージを与えていた。敵の航空機の襲撃もあったが我が方の戦闘機隊が蹴散らしてくれたので殆ど被害は受けずに済んだ。
作戦は成功したがこの作戦自体はダンケルクに集結したドイツ軍を叩く {ソウルクラッシャー作戦}の陽動作戦であったのを知ったのは無線封止が解除になった後、作戦が終了して戻る途中であった。我々の作戦が独逸海軍の耳目を集めていた為ダンケルクの独逸陸上戦力は海上からの援護を受けられずに壊滅したのだが、味方でありながらその話を知らなかった事で釈然としなかったと当時の日記に記していたが作戦の秘匿が守られていたという事で現在は納得しているのである。
その後我々は無事に泊地に戻ったわけだがその後のドイツ艦隊について最後に記さねばなるまい。噴進弾攻撃はビスマルクに重大な損害を与えていた。全ての主砲は使用不能になり艦橋と煙突を破壊され、至る所にダメージを受けていた。艦橋に詰めていた艦長以下は全員戦死し煙突をやられた為速力も出せなくなっていたが奇跡的に機関と舵は無事だった。ティルピッツも主砲を半分と非装甲部分をやられ、プリンツ・オイゲンは火災を起こし、駆逐艦は一隻が沈み、二隻が大破して彼らはキールへ向けて帰還しようとしたのだった。敵艦隊が自分たちを追って来ると思い込んでいたのだ。だが、網を張っていた我が方の潜水艦が見逃さなかった。ドイツ海軍の御株を奪う群狼戦術で襲い掛かった潜水艦部隊はまずティルピッツを血祭りに上げる。堅牢さが売りのドイツ戦艦だが片舷に指向した魚雷四発には耐えられず横転沈没し、重巡も駆逐艦も被雷した。その中でもビスマルクは満身創痍ながらも魚雷を躱していたが遂に引導を渡される事となる。遅ればせながら登場した赤城・天城を中心とする機動部隊が到着したのだ。これが鉄血宰相狩りの本命でついに北海の藻屑としたのであった。
ここまで読んでいただいた諸氏にはすでにお分かりの事と思うが我々の噴進弾攻撃や機動部隊の攻撃は戦時中は秘匿されており潜水艦による攻撃で沈んだことになっているビスマルクであるがそこに至るまではこのような事実があったのである。対艦誘導噴進弾はアメリカとの開戦まで秘匿されハワイ沖海戦でのアリゾナ撃沈という偉業を成し遂げるがそこには陰に隠れた戦いがあった事を此処に記すのである。
おうみ会 会報 昭和60年春版掲載(この拙文は軍事雑誌日の丸昭和59年6月号に掲載された物を会報用に加筆した物である)
※1 当時は誘導噴進弾が秘匿兵器であった為そう呼称されていた。後にミサイル艦と呼ばれる事となる
※2 士官養成課程で同期だった者はそう呼んでいた。経理部門や機関部門等課程は違うが同期卒業はコレスと呼んでいた。所謂海軍用語である。
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