前編
追われていた。
柳はジャンパーの裾をはためかせて走り続けた。垣根の角を曲がり、薄暗い路地に出た。柳は、はぁと息を吐き出した。流石の彼も疲れていた。石塀にもたれかかり、肩で息をする。ポケットを探り、缶ジュースを取り出した。柳は力任せにプルトップをこじ開け、口にジュースを注いだ。急いでやったために何滴かが零れ落ちてしまったが、最早そんなことに躊躇している暇はない。
柳は石塀からそっと顔をだし、通りの様子を伺ってみた。
街灯に照らされた夜の街がただ静かに佇みを見せている。柳は唇を舐めた。手にはしわくちゃになった女性ものの下着が握られている。迂闊だった、と柳は自戒の念に苛まれていた。何となくいける気がしてしまったのだ。何、こんな何てことない日くらい警備の手も休んでいるだろう、そういう頃合だろうと高をくくったのが過ちの元だった。
くそ、と心の中で毒づく。何がいけないんだ。
(僕は彼女を愛している、しかしそれは決してやましい意味ではない。僕が抱いているのは純粋な好意であり、そして彼女という存在に対する憧れ、尊敬なのだ。一方的に相手を性行為の対象と見做すような下品で低俗極まりない自分勝手な心理とはわけが違う。)
柳は下着をジャンパーの内ポケットに大切そうにしまい込むと、空になった缶ジュースを投げ捨てた。天使のマンションにはもうS.E.Tの機動部隊が駆けつけている頃だろう。聞き込みの結果既に自分の身元も割れているかもしれない_そうなったら、家に戻るのは危険だ。柳は自分が追われることに関しては一向に構わないが、親に迷惑をかけるのだけは嫌だった。
柳は固く両拳を握り締め、立ち上がった。
逃げてやる。どこへだって。いつまでだって。今の僕は追う側ではなく追われる側なのだとはっきり実感していた。そして、果てもなく逃げていればいつかまた天使と会える日が来るのだと、柳は心の底から信じ切っていた。
_ストーカー殲滅権団豊島本部
黒川最高幹部は苛立っていた。
まさかこの後世に置いてまだストーカーなどという悪質かつ下劣な行為を働く者がいるとは、甚だ憎らしいものであった。慌しく走り回る隊員たちを尻目に、渋谷に駐屯している蓮見に電話をかけた。
「………………もしもし、私だ。」
「はい?」
「私だ、といっておるだろうが。」
「ああ、黒川さんでしたか。」
「ハントの状況はどうなってる。兎は今どこに?」
「…………ええ、はい。」蓮見はしばし口を置いた。「ちょっと待っててください、いま資料を。」
席を離れたのか、蓮見の声がぷつりと途切れた。
黒川は苛立ちながら携帯の画面と睨めっこをしていたが、やがて蓮見の間延びした声が戻ってきた。
「近所の証言から元がとれました。兎の本名は柳啓輔、22歳。都内の一軒家に両親と3人で暮らしており、現在はフリーターとして生計を立てているとのことですが……。」黒川は蓮見の話を遮り、オフィスの机を手の平でばん、と叩いていった。「そんなことは、どうでもいい!奴はどこへ逃げたのだ?」
そのあまりの剣幕に、付近で作業をしていた隊員たちがびくりと慄いたが、黒川は気にも止めなかった。
「…………ええと、そうですね。現在も行方を追っている最中ではありますが、被害者のマンションから北、どうやらセンター街の方面へ逃走した模様です。」
「よし、総力をあげて宇田川に隊を注ぎ込め。何としても、新宿に逃げられる前に捕えるのだ。」
「了解であります。」
黒川は携帯の電源を切り、現場にいた隊員たちに指示を出した。「原宿駅及び付近の交通機関を押さえろ。それと、スクランブル交差点の街頭ビジョンに兎の写真を表示するんだ。」
「それは流石に、予算がかさむのでは…………。」
「黙れ!」黒川は横から口を出した一人の隊員に鬼の形相で一喝した。「金なら私が持つ。そんなことを気にしている暇があったら、少しでもハントに貢献しろ!」
黒川はその後もてきぱきと指示を出したのち、渋谷支部との共同ハントのためBMWに乗り込んだ。窓に流れる煌びやかな夜景を横目に、黒川は物思いに耽っていた。
黒川本人によってS.E.Tが設立されたのは五年前のことである。当初は隊員十数名余りのちっぽけな集団であったが、今や警察と同等の権力、位を冠する一大組織へと成長した。その台頭には、当時の日本社会の時世が強く影響している。度重なるストーカー_一個人に対する執拗なつきまとい行為。こうした問題が叫ばれるようになったのは何も最近のことではない。人々のストーカーに対する根強い嫌悪の意識は常にそこで燻っていたのである。
そんな彼らの感情に火をつけたのが、同じく五年前に起きた蓑枝ストーカー殺人事件だった。その被害者_考えるだけでも腸が煮えくり返りそうになるが_は何を隠そう黒川の交際相手だったのだ。黒川は彼女を愛していたし、彼女も黒川を愛していたはずであった。二人はちょうど一年後に結婚式を控えており、順風満帆な道を歩んでいた。が、その幸せな日々は突然に打ち砕かれたのだ。
彼女の元交際相手だという男がストーキング行為を働いていると聞かされた時には憤慨した。彼女によれば無言電話はもちろん、通勤途中の待ち伏せ、度重なるメール他、監視カメラによる盗撮行為など様々な方法で嫌がらせを受けていたという。
男のいい分はよりを戻そうということだったが、黒川に納得できるはずがなかった。黒川は何度も男の元へ詰め寄り、つきまといをやめるよう諭したが、男は聞く耳を持たなかった。心身のストレスから彼女との関係も雲行きが怪しくなってきており、口げんかも増えた。自宅にて彼女が無残な姿で見つかったのは、もうこれ以上は我慢ならないと、警察に訴えることで彼女との意思が一致した、まさにその矢先であった。
黒川は深く絶望し、怒り狂った。
空想の中で男を八つ裂きにして殺し続ける生活も長くは続かなかった。黒川はその怒りのみを原動力としてS.E.Tを作り上げたのだ。勢いに乗った黒川は国民の熱狂的な支持を後ろ盾に半ば強引に「ストーカー根絶条例」を制定、ストーカー行為に対しては面倒な手続きなしでその場でハント(現行犯検挙)ができる、といった内容であった。
ハントされた兎(容疑者)は南海の孤島に建設された強制収容所に移送され、刑期を終えるまでの間一秒もかかさずカメラによる監視を受けることになる。かかるストレスは相当なものだろうが、黒川は同情などこれっぽっちもしようとは思わなかった。ストーキングを受けた被害者たち_そして彼女もまたこの屈辱を味わったのだ。本来なら死ぬまで閉じ込めておくことで罪を償わせるのが道理なのだが、流石にそれは通らなかった。それでも、もしも被害者に接近した場合周りに一切の影響を与えずに一瞬で心臓の動きを止めることのできるマイクロマシンを兎の体に注入することで、再犯は100%防げる。
またS.E.Tの活動により右肩上がりだったストーカー事件の数はみるみる内にその数を減らしていった。ここ1ヶ月ハントは行われておらず、これで平和な日本を取り戻すことができた、と安堵していた所だった、その矢先である。渋谷区のマンションからS.E.Tに通報があったのは。
被害者の女性_文野凜子(20歳)によれば、ベランダに干してあった洗濯物類を漁っていた男と偶然目が合ってしまったらしい。男はすぐさま逃走、駆けつけたS.E.Tが今現在後を追っている、といった状況であった。
黒川は唇を噛み締めながら柳という男の顔写真を思い出していた。小太りで、特徴のないのっぺりとした間抜け顔。思い浮かべるだけでも無性に腹が立った。
「………………世に蔓延るストーカーは、この私が、成敗してやるっ!」
(つづく)