セイフティブランケット
最近になって新しい店舗がいくつもできた東口とは対照的に、駅の西口はいつものようにひっそりとしていた。いつものように、とは言っても、夜の九時を過ぎた駅になんてきたのは何年振りか自分でも覚えていない。
何年振りかは分からないけど相変わらず外灯まで暗い感じで静かなのかと、わたしは水色の看板をぼうっと光らせているコンビニの、置かれたタバコの自販機の前でぼんやりしていた。
タスポだかなんだか、そういえば成人識別のために自動販売機でのタバコ購入にはカードが必要になったと、そんなニュースは耳にした記憶がある。タバコなんて買うことはないし自分には関係ないことだと思っていたから、気には留めていなかった。タバコを吸ったのなんて、二十歳の頃にほんの数本だけだ。十年以上も前。当時好きだった人が吸っていたのを真似したくて、けれどむせただけで終わった。二本くらいに火をつけてみて、残りは捨ててしまったのかあげてしまったのか。
「タバコ……、」
でも今日は無性にタバコが吸いたかった。
自動販売機の前でお金はあるのに買えないということにショックを受けつつ、だけどコンビニの店内に入ったら買えた。銘柄なんて分からなかったから目についた赤い色のものを指差して、横に書いてあった数字を恐る恐る口にしたら、ちゃんと出てきた。ライター、とつぶやいたら、使い捨てのでよろしいですか、とそれも出してもらえた。ただ、記憶していたよりずっと値段は上がっていたらしくて、小銭入れの中に入れていた唯一の千円札を崩さなくてはならなかった。
そのまま表に出て、灰皿の置いてある隅っこでわたしはタバコを吸っている。まともな吸い方なんて知らないから、肺に入れることができなくてただ吹かしているだけだけど。
十月も終わりに近い夜は鈍く暗い紺色をしている。風はそうないけれど、パジャマ代わりのフード付きワンピース一枚なんて格好では、長袖といえども肌寒い。
上着を羽織る暇もなかったのだ。
目についた小銭入れだけポケットにねじ込んで、携帯電話も持たずに飛び出したから。
二歳の長男は寝かせてあった。五ヶ月になる次男は泣いていた。大変なのはいつもと変わらなかった、仕事帰りに保育園へふたりを迎えに行って、帰ってからお風呂に入れて、洗濯をしてご飯の用意をして、途中で授乳して子供の相手をして、そうこうしてるうちに夫が帰ってくるから晩ご飯にして。
次男は眠くなるのかごねて泣き出すから、おんぶする。長男にご飯を食べさせながら次男もあやして、自分も食べたんだか食べてないんだか分からない晩ご飯を終えて。洗い物をする前に長男があくびをしだすから、慌てて歯磨きをさせて布団に入れるとぐずって泣いたから抱っこして。子守歌を何回も繰り返しているうちに寝てしまったから布団に入れて、ついでに寝た次男も下ろそうとしたら目を覚まして泣いた。
赤ちゃんだから。
泣くのが仕事だし。
まだ夜中に何度か目を覚まして授乳する必要があるから、わたしの寝不足は仕方がないものだけど、それでも今の時期だけだし。日中保育園で哺乳瓶のせいか、わたしがいるときは哺乳瓶をいやいやして拒否するのは甘えているからだろうし、こんな小さな小さな生きものは可愛くてたまらないから当然甘やかしてやりたいし。寝不足なのは仕方ない、頭がぼんやりするのも仕方ない、肩こりだっておんぶするから仕方ないし、長男もまだ二歳で赤ちゃんみたいなものだから手がかかるのは仕方ないし、仕方ないし、仕方ないし。仕方ない、で自分の疲れも誤魔化してなんとか一日を過ごしていたけれど、泣いた次男を抱っこしながら居間に戻って、なんにも片付いてない食べ散らかした晩ご飯の残骸を見てため息が出て、一緒にどっと疲れも出た。木曜日。明日と明後日、仕事に行ったらそうしたらお休み。だから頑張れ頑張れ頑張れ自分、後ちょっと頑張れ頑張れ、と、なけなしの元気を振り絞っていたところにお風呂上がりの夫が通りかかった。
まだ片付けてないし、赤んぼ泣かせてるし。
なんて。
そんなことを言うから。
悪気がないのは分かってる、多分悪気がないのは、でもわたしの中でポキンと芯が折れる音がしたのは確かだった。
きっとぽかんとした顔で夫を見つめていたと思う。
なんだよ、と夫は笑った。
わたしは泣いている次男を夫に黙って差し出して、首からタオルをかけて濡れた髪をしたままの夫は反射のようにそれを受け取った。きっと皿を洗うからそれまで抱いてて、の意味だと思ったんだろう。
でもわたしはそのまま目についた小銭入れをポケットにねじ込んで、靴下も履かないまま玄関で靴を履いて黙ったまま家を出た。
タイミングが良かったのか悪かったのか、駅に向かう最終のバスが見えて、それにふらふらと乗った。田舎のバスだから、後ろから乗って前から降りる。降りるときに料金は払う。整理券を取って後ろの席へ沈むように座った。車内は妙に明るくて、古びた朱色の座席は使い込まれていてわたしよりずっと疲れているように見えた。
それで駅で降りたはいいけど、小銭だけでそこまで遠くへ行けるはずもない。次男だってまだちょこちょこと何度も授乳する必要がある。こっちだってうっかりすれば母乳が詰まる、乳腺炎になる。
ああ、もう。
コンビニの、タバコの自販機の前でしゃがみ込んでタバコに火をつけていて、いい年した女が子供も放っておいてなにをしてるんだろう。なにを、してるんだろう。
煙が目にしみる。
しみる、ことにして涙がにじんでくるのを自分で笑う。
夫の無神経な言葉に頑張ろうと思っていた心はぽっきり折れたのは確かだったけれど、それよりなんだか遥かに疲れてしまったことの方が大きかった。
子供を育てていれば疲れるのは当然で、自分の時間なんてないにも等しい。今の一番の夢はなにかと聞かれれば、自分の眠りたい時間に自分の眠りたいだけゆっくり寝ることだと即答する。二番目の夢が、自分の入りたいときにお風呂に入って自分のタイミングで出たい、というものだ。
ああ、もう。
なんだか。
「疲れちゃったなあ……」
にじんだ視界を腕で乱暴にこすった。
自分ばっかり、負担が大きい気がする。子供の面倒を、自分ばっかり見てる気がする。休みの日だって結局三度の食事を用意しなきゃならない。疲れたからといってごろんと横になっているわけにはいかない。普段は手が回らない掃除だのなんだのと、気になってしまうところはたくさんある。あれもこれもしておきたい。あれをやっておけば後が楽。ほこりで死んだ人間はいないなんて言われたって、ちっちゃい人がほこりをつまんで口に入れたら大変なのだ。そうでなくても汚して歩くちっちゃい人がいるのだ。目をつり上げて頑張って、目の前のことをどうにかこなして気が付いたら一日が終わっていて一週間が終わっていて一ヶ月が終わっていて、それで自分のために何かしたかとふと振り返るとなにもない。真っ白い道がなんだかどこまでも続いている。
疲れちゃった、と。
つぶやいてわたしはもう一度目をこする。
帰らないと。
息子が泣いてるといけないし。おっぱいあげなきゃなんないし。ご飯の片付けもしてないし。明日のお弁当用のご飯でお米も研いでおかなきゃならないし。
やることはいっぱい。
でも。
帰りたくない。
帰りたくない、というか、もうなんだか。
「消えてなくなりたい……」
疲れちゃったよう、と涙とため息の混じる声が漏れたのと、背中をバンッと叩かれたのはほとんど同時だった。
夜中にコンビニ前でたむろするヤンキー、と一瞬思ってものすごい勢いでわたしは立ち上がる。バクバクする心臓を抱えて一気に逃げ出そうとしたところで、おい、と声がかけられた。
「こんなとこにいて」
なにしてんだお前反抗期のガキんちょか、と笑われる。
振り返ると、ひょろりと細長い、電柱の影みたいな黒尽くめが立っていた。細い目をますますきゅんと細めて、ばあか、と薄い唇で笑っている。
お兄ちゃん、とわたしの口から、脱力し切った声がこぼれた。
「実家に連絡がきたんだよ、お前の旦那さん。子供置いて出てった! って、すんげえオロオロしててさ、面白かった。ってったら失礼だな、ははははは。お前もほら、それ寄越せ」
吸えもしないくせに、と笑いながら兄がわたしの手からタバコを取り上げた。吸おうか迷ったようだったけど、そのまま灰皿で潰すように消す。残り、と言われてわたしは素直にタバコのパッケージを手渡した。
「お、マルボロ。分かってんじゃん、ソフトケースで」
「なに?」
「ボックスじゃないのが俺、好き」
「ボックスって?」
「分かんないで買ったのかよ」
「適当に、赤いのが目に入ったから」
「お前らしいな」
でもいいチョイスだ、と褒められたので、わたしはまだぼやけたままの目を兄に向けた。
「お前、赤とかオレンジとか好きだもんな。って、お前なんか適当な格好してんなあ!」
適当、と言われても。適当だもんパジャマ代わりのパーカーワンピだもん。ぷっとむくれて言い返すと、頭も適当にしばってんなあ、と言われる。お風呂上がりに濡れたままの髪を後ろでくくって、お団子にしてあるだけの髪で。確かに櫛も入れてないから、適当この上ないかもしれない。あまり適当適当言われるので、自分の存在自体が適当になった気がする。
「暗い色の服ばっか着て、って俺に文句ばっか言ってたくせに」
くつくつと喉の奥で笑って、兄がわたしの頭を軽く叩いた。後頭部を、包み込むようにして、ぽんぽん、と。
そういえば今着ている服は灰色だ。最近ジーンズばかりだし、上に着る服も黒だとか灰色だとか紺だとか、汚れが目立たなければいいや、というようなものばかりになっている。子供を抱っこすると引っ張られて千切られるので、ネックレスなんかもつけていない。マニキュアも塗ってない。化粧もできない日がある。しても口紅を塗らない。それどころか、日々のお手入れもうっかり忘れる日がある。化粧水と乳液、たったそれだけを顔に塗るという暇すら見つけられないときがある。
「……わたし、なんか最近女じゃないかも」
「ちんこなけりゃ女ってわけじゃないしなあ」
「お兄ちゃん!」
「胸のない女もいるしなあ」
「あるもん」
あるなお前は、と兄が笑った。普段はどちらかといえばとっつきにくそうなイメージを持たれることが多い人だけれど、それは細くつり上がり気味の目のせいだったり薄い唇を歪めるようにして笑う癖のせいだろうと思う。中身は子供好きでどこか淋しがり屋の人なのだ。わたしには他に弟がふたりいるけれど、兄はわたし達の誰とも似ていない。ふたつ上の兄は、なんだかいつもわたしの心配ばかりしてくれている。本人は、なにも言わないけれど。
風はないけれど静かに冷える夜だった。
寒いからどっか入るか、と兄が言う。うん、とわたしは頷く。
「お酒飲みたい」
「酒え? お前妊婦だろうが、バカ」
「妊婦じゃないわよ、なにそれ嫌味? 産後太りのまんまなのの、嫌味?」
「あ、間違えた、えっとなんだっけ、ほら」
「なにが」
「妊婦じゃなくて経産婦じゃなくて、ほら、ビールの宣伝とかでも言ってんじゃん」
「なに? ああ、妊婦や授乳中の方は飲酒をお控えくださいって?」
そうそれ、と兄が手を叩く。それそれ、と言いながら、授乳してんだろ、と聞く。
「してる」
「ほら」
「なに」
「飲んじゃダメじゃん」
「だってもう、三年とか飲んでない」
「ただでさえタバコまで吸ったんだから、ダメです」
どうせ吹かしてただけだろうけど、と兄が言う。見たら、月と外灯の明かりの下でチェシャ猫みたいな顔をしていた。
「カンパリグレープフルーツ、スプモーニ、カンパリオレンジ!」
「カンパリばっか」
「カシスとかカルアとか甘くて」
「ビール飲め」
「苦い」
「カンパリだって、」
「あれは大丈夫な苦さ」
「なんだよそれ。お前山菜とかの苦いのも苦手だもんな」
春になると母は山菜の天ぷらをたくさん揚げた。山へ入るのが大好きな老夫婦が近所にいて、それはそれはたくさん家に分けてくれるからだった。たらの芽やこごみやこしあぶら。蕨やぜんまいなんかはおひたしで、わたしは春が来るのが憂鬱だった。草ばかりが並ぶ食卓になるからだ。いくら買えば高い、珍しいものだからそう食べられるものじゃない、と言われても、大好物ならいざ知らず。毎晩毎晩草の煮たのや天ぷらを並べられる子供の気持ちを考えて欲しい。
お兄ちゃんにあげる。
小学生の頃から嫌いなものはそう言って皿によけた。母に怒られて、父に困った顔をされ、弟達に不思議そうな顔をされても、それは高校生になるまで続いたわたしの癖だった。兄はただただ笑っていた。仕方ない妹だとおどけているばかりだった。
「授乳終わったらな」
「別に間三時間とか開ければ大丈夫だもん」
「いっくら大丈夫でもさ、酔っ払って赤ん坊落としたりしたら困んじゃん。な。授乳終わったら兄ちゃんが嫌ってほど付き合ってやるから」
「……スプモーニ飲みたい」
「付き合う付き合う」
「……本当?」
「本当本当、兄ちゃんがお前の味方じゃなかったこと、一度でもあるか?」
ない。
わたしが即答するから、兄は満足そうに頷いた。だろう、と自慢げな声で言う。
「もうちょっとの辛抱だから」
「……もうちょっと、って?」
「もう少し、ってことだ」
もうちょっと。
もう少し。
首が据わったら、お座りができるようになったら、離乳食がはじまったら、少しずつ楽になるよと言われて、でも楽になった部分とは別でまた大変なところは出てくる。心配ごとも不安なことも、ひとつをクリアするともうひとつが出てくる。キリがない。
「唸るなよ」
「唸ってないよ!」
「唸りそうな顔してるぞ」
「唸りたくもなるよ!」
兄は目を細めてわたしの頭に手を伸ばした。髪をばさばさに乱して撫でてくる。なによ、と尖った声は出たけど、本心ではなかった。甘えていると、自分でも分かっていた。
「……なによ」
「撫でてんの」
「そんなの、」
「はいはいはいはい」
肩に手を置かれたかと思うと、ひゅうっと引き寄せられる。あっという間に兄の胸に抱きしめられて、なにすんのよう、とわたしは今度こそ低く唸る。でも相手はわたしの扱いなんて充分に心得ていて、ごしごしと頭を撫でる。
「頑張ってる頑張ってる、お前は本っ当によく頑張ってる、ちっちゃいの二匹も抱えて飯だってちゃんと作ってさ、仕事だってしてるのにな。まだ続けてんだろ?」
わたしは兄の胸に頭を押し付けられながら頷く。結婚前から働いている、子供の手づくりおもちゃを扱う小さな会社で事務の仕事をしていた。妊娠を機に辞めると言ったら、六時で必ず帰してあげるし、産休を取ればいいから良かったら働き続けないかと言ってくれた。このご時世にありがたいお言葉で、そのまま甘えて働かせてもらっている。夫の給料だけでは、充分過ぎるということはないのだし。子供が具合の悪いときには、社長の奥さんが見ていてくれる。昔、保育園で働いていたので資格を持っているらしい。
恵まれている。
親だって遠くに離れているわけじゃない。
でも。
恵まれているからって。
「家事もちゃあんとしてさ、偉い偉い。本当に頑張ってる、俺、知ってるよ? お前が超頑張り屋さんなの、知ってる。寝不足なのに家で一番早くに起きて弁当作ってるもんな? たまにはテレビとか見ながら夜更かししたいなーって思いながらも、ちび達寝かさないといけないし、そんなの我儘だと思ってるから旦那にちび丸投げしないでちゃんとお前が寝かしつけてるもんな?」
兄ちゃんは知ってんだぞう、と歌うように言って、兄はわたしの頭をがしがしと撫で続けるから、うっかり泣けてきた。
夜の空気が冷たいせいか、兄の服はひどくひんやりとしているし、肉の薄い彼はもともとの体温もそう高くない。わたしは、でも兄の背中に手を回す。なにやってんの兄妹で、と突き放せないほど、自分が切羽詰っているのが分かる。
我儘だと。
思ってしまうから。
たとえば泣き止まない赤ん坊を捨ててしまいたいと一瞬でも思うことも、トイレトレーニングがちっとも進まない子供にいらいらすることも、なんだか自分ばかりが家事をやっているような気がするのも、そんなのは結婚して子供を育てている人はみんなこなしていることなんだから、こんなことで弱音を吐いたり悲鳴を上げたりするのは我儘なのだと、自分が未熟者だからだと思って頑張っていたけど。
「お兄ちゃん……、」
「うん?」
「……わたし、もう疲れた」
鼻の奥がつんと痛くなる。ううう、と喉の奥で声が詰まる。
お兄ちゃん。
かすれた声で呼ぶと、兄はわたしをぎゅうっと抱き締めた。
そうだ。
ずっと、誰かに頭を撫でてもらって抱き締めてもらって、泣かせてもらいたかったんだと気付く。最初からずっと甘えん坊なわたしが、小さな小さな生きものふたりをせっせと育てていて、いつの間にか甘やかされる側から甘やかす側に回っていた。甘えたいと思いながら人を甘やかさないといけないのは思っているより苦痛でつらい。夫は嫌いじゃないしちゃんと好きだし、でもお父さんとお母さんになってしまったから、お母さんのわたしがお父さんの夫に今更甘えるのは子供達の手前なんだかいけないことをするようで、そんなお母さんのわたしを甘やかす暇があるのなら、お父さんの夫は子供達を甘やかしたほうがいいのではないかと思ってしまっていて。
甘えん坊の小さなわたしが、泣きながら頭を撫でて欲しいと叫んでいるのに、ずっと気付かない振りをしてきた。
「疲れたか」
「……うん」
「でも、子供置いてきちゃったから心配もしてるんだろ」
五ヶ月の次男。おっぱいをあげながらでないと寝ないあの子。
休めるときは赤ちゃんと一緒に休みなさい、なんて育児書だって市の保育指導だって保健婦さんだって親だって夫だって言ってくれる、でも休めるときに休むといろいろが滞る。家事だって、なんだって。そんなのが少し滞ったくらいじゃ死なない、と言われたって、でも待ったなしの事柄だっていっぱいある。保育園の準備も、通園の時間も、仕事の開始時間も。赤ちゃんが寝ているうちにしておきたいことはいっぱいある、服にアイロンをかけておくのも、トイレの掃除も、明日のご飯用にお米を研いでおくことも。
「身体がまだ疲れてんだから」
そんなのは分かってる。
血を流しながら子供を産んだのはほんの五ヶ月前のことで、その前の十ヶ月だって内臓を押し分けながらお腹を日に日に大きくして子宮を膨らませて、中で子供を育てていた。
分かってる。
そんなことは。
「なんでも元通り全部やるって考えちゃうのが間違いなの。な? 分かる?」
でもさ、と兄は続ける。
お前はやさしいから、他の人に迷惑をかけちゃうのが心苦しいんだよな。
「……わたしが産んだでしょ?」
「作ったのは夫婦ふたりでだろ」
「でも、なんだかわたしだけの子供のような気がしちゃう。自分から出てきたものにしか思えないから、それが泣いたり汚したり人に迷惑をかけると、ものすごく苦しくなる」
「考え過ぎ」
「でも、」
「でもそうやって背負いこんじゃうよなー、よしよし、兄ちゃんが……どうする、歌でもうたってやるか?」
「なんでお兄ちゃんが歌うのよ、なにそれ。なんなの、もう、お兄ちゃん……、」
言いながらわたしは笑い出してしまって、そういえば自分のためにゲラゲラ笑うなんてしばらくなかったんじゃないかと思い出す。
くだらないことで心がひっくり返りそうな勢いで笑うとか。
小さなきっかけでいいからどうにか流した涙を、浄化のためにふくらませてどんどん泣くとか。
そういうことをしないと、人はどんどん疲れていってしまうものらしい。
身体が疲れていると心もどんよりしてくる。
心が疲れていると身体もすっきりしなくなる。
そんなのは分かってる。でも、片方の疲れを上手く取れないうちにどうしようもなくがんじがらめになって身動きが取れなくなって、ただただどこまでも深く沈んでいくしかない状態になることだってある。たくさん、ある。
よく効く温泉より睡眠薬より、マッサージチェアよりあたたかなカフェオレより、本当に本当に心の底から欲しいと思うのはやさしいひと言と頭を撫でてくれる手だけだったりする。それでいて、それが欲しいと口に出せないでいるせいで、周りのやさしい人達からそれはちょっと違うんだけど、というやさしさを受け取ることがある。温泉に誘われたりいい睡眠薬を教えてもらったり、マッサージチェアをプレゼントしてもらったりあたたかなカフェオレを飲ませてもらったり。ありがたいし嬉しいし、でもそれはわたしの欲しいものとほんの少しだけ違う、と言えないまま笑顔を返して、そのくせ小さなもやもやが心の中に溜まっていく。
結局誰もわたしのことなんか分かってくれないんだよね、と思ってしまう心と、みんながやさしくしてくれるんだから元気出さなきゃ、ありがたく思わなきゃ、という心と。
自分が欲しいものを口に出していないことなんて棚に上げて、人のせいにする。
察して欲しい気持ちばかりが膨れ上がる。
何様なんだろうとまた落ち込む。
その繰り返し。
何様なんだろう。
パチン、と音がしてびっくりして顔を上げた。
月をかぶった雲がにじんで光っている夜空があった。
兄が手を叩いたんだと知って、わたしは目をまるくしたまま、なに、と聞く。
またなんかいろいろ考えてたんだろ、と兄が言う。
「なんか、また?」
「いろいろ」
「わた、し?」
「俺は別に何にも考えてないもん。お前さ、時々は旦那に赤ん坊任して、ちゃんと寝な?」
夜の冷たさが服にしみ込んでくる。目に入った自動販売機で、わたしは缶コーヒーを買った。兄にもいるかと聞いてみたけど、いらない、と言われる。熱いくらいの缶を手の中でしばらく転がして、てのひらが慣れた頃に頬へ押し当ててみた。
ぴりぴりとした熱が、伝わる。
「でも、」
「お前はちっちゃい頃から、寝ないとダメな子じゃん。寝ないと機嫌悪くてさ、いっぱい寝るとすこーんっと元気になってんの。ケンカも宿題もなんもかんも忘れ果ててさ、復活しててさ」
「……宿題忘れちゃダメでしょう」
「宿題忘れてたことあったよな」
宿題。
そうだっけ、と首を傾げると、中二のとき、と兄が言った。
「夜中飛び起きるから、びっくりしたら」
「えー?」
「漢字の書き取り忘れてた、って」
「そうだっけ」
「そうだよ、みんな寝ててさ。あの頃は子供部屋に学習机三つ置いてあったから寝るとこなくて、畳の部屋で寝てたもんな」
畳の部屋とか、懐かしい。客間に子供達は布団を敷いて並んで寝ていた。父の帰りが遅いときは、母が酔っ払いに起こされるのを嫌がって子供達と一緒に寝ていた。言われているとなんとなく思い出してきて、そういえば中学の頃の担任は国語教師でひどく厳しかったことまで思い出される。他のクラスは最低一ページの漢字書き取りでよかったのに、うちのクラスだけは二ページやらないといけなかった。毎日朝のホームルームの時間に漢字のミニテストが行われて、六十点以下だと帰りに追試があった。
「ああ、なんか……ひとりが怖くてラジオつけたんだ、それでわたし、深夜のラジオがものすごく面白いことを発見したんだっけ」
「起きてらんないから、ほとんど寝ちゃってたけどな」
「そうそう、ラジオ聞きたくて起きてると次の日睡眠不足で」
「すっげえ機嫌悪いの」
「そうだった、そうだった」
「お前、たくさん寝ると分かりやすく元気になってたもんな」
「徹夜とか絶対できなかったもん」
「今だってできないだろ」
うん、と頷くと、兄がまた頭を撫でてくれた。
笑う。
兄は唇を横に広げて、にっこりと笑う。
手をつないでくれたから、わたしはその手をぶんぶんと大きく振った。つないでいない手に、缶コーヒーを持って。駅の近くだというのに、西口は半分が住宅地で半分が田んぼだ。もう稲刈りは終わっていて、刈り取られた羊の背中みたいな景色が広がっている。田んぼの脇には側溝があって、さらさらと水が流れていた。各家の明かりがぽつぽつと集まっていて、どこかで小さな子供の泣く声がしていた。
「……帰る」
「子供、心配になった?」
「なん、か」
子供を抱いていると、いつもリズムを取ってゆらゆらと揺れている。背中におぶっていても。気がつくと、自分が揺れている。それで、子供が腕の中にいないとなんだか忘れ物をした気分になる。
ずっと一緒だから。
いるとうっとおしかったり面倒くさかったりもするけど、いないと腕の中がすうすうする。
「ねえ、お兄ちゃん」
「はいよ」
「お兄ちゃんがここにいるってことは、まだなのね?」
「ん?」
「もうひとりくらい、わたし、赤ちゃん産むのかしら」
「産んだからって、俺とは限んないよ?」
「そうだけど」
「ずっと、一緒にいるよ」
「わたしが、一番心配な子だから?」
違うよ、と兄がやさしく言って、わたしが振っている腕の力をそっと抑えた。
「お前だけが、ずっと忘れないでいるから」
「会ったこともないのにね」
「そういや、そうだな」
「お兄ちゃん、」
「なんだよ」
「忘れて欲しい?」
「忘れたいのかよ」
忘れたくない。わたしはいつでもお兄ちゃんに助けてもらっていたから。助けてもらって、いるから。
小学校の頃、なにかのきっかけでいじめられるようになったときも、お兄ちゃんがひとりぼっちのわたしを心配して休み時間になるたびに教室を覗きにきてくれた。学校の行きも帰りも一緒に行ってくれた。ふたりで図書館から借りた本の感想を言い合って、昨日のテレビの話をして、今日の晩ご飯がなにかを当てっこした。
中学のとき、初めて好きな男の子ができたときも相談に乗ってもらった。体育の授業で、バスケットが苦手でどうしてもパスがまっすぐ飛ばない、という愚痴を延々と聞いてくれた。志望の高校に、小学校のときのいじめっ子も受験すると知って目の前が暗くなったときも、話を聞いてくれた。就職して慣れないヒールに泣いたときも、今の夫と付き合いはじめたときも、結婚を決めたときも。
「……お兄ちゃんって、わたしのお父さんだしお母さんだし、親友だし恋人だし、なんかもう、全部ひっくるめたような存在になってる」
「すげえな、俺、オールマイティだな」
「うん」
「真顔で頷くなよ、バカ」
オールマイティってことはさ、と兄が言う。
なんでもないってことだよ、誰にでもやさしいのは誰にもやさしくないのと同じで。
「なんにでもなれるってことは、なんにもなれないってことだ」
「そんなこと、」
「でもまあ、俺はお前の兄ちゃんってのだけは確かだな」
「うん」
「お前はもう一生、兄離れしないんだろうなあ」
「しないよ」
「断言すんなよ」
「しないもん」
「お守りみたいになってるもんなあ」
心の。お守り。
わたしが作り上げた、わたしのお兄ちゃん。わたし、だけの。
「ほら、行くぞ」
握ったままだった手を、兄がそっと引く。うん、と子供みたいな声が出る。うん、しか言ってないのは、甘えてるからだ。分かってる。わたしは、お兄ちゃんに甘えてる。
お兄ちゃんはどこまでもわたしを甘やかしてくれる。わたしが、それを望むから。
小さいときからずっと、兄はそういう存在だった。
ずっと、わたしの傍にいて、わたしを守って慰めて甘やかしてくれている。セイフティブランケット。ライナスの毛布。手にするだけで安心できる、やわらかな存在。
「お兄ちゃん、」
わたしは小さな声で聞く。
「いつまで、一緒にいてくれる?」
「好きなだけいてやるよ」
どうせ一生兄離れしないんだろって言ったばっかだろ、と兄が言う。わたしは、うん、と軽くてよく響く返事をする。
――本当はあんたの上にお兄ちゃんがいたんだよ。
小さい頃、わたしはひとりでよく遊ぶ子だったらしい。壁の方を向いてはごにょごにょとなにかを話し、にこにこと笑って。トイレを覚えるのも早かったという。女の子だからかしらね、と母達は言っていたようだけど、トイレに行きたくなるほんの少し前に小さな男の子が目の前に現れて、失敗する前に一緒に行こう、と手を引いてくれたからだった。廊下の電気がついていなくてもだから怖くなくて、この子は暗いところも平気だねえ、なんて言われていた。
お風呂にひとりで入れるようになったのも、早かった。
お母さんと入るときは耳の後ろも洗ってもらってるじゃん、頭の後ろまでちゃんとごしごしってするんだよ、シャワー使うときはぎゅって目をつぶってれば痛くなんないよ。お兄ちゃんはそう言ってお風呂でもいろいろ教えてくれた。
不思議なことに、バスタオルはわたしの分しか用意されていなかったし、お兄ちゃんは気がつけば一緒に入ったはずなのに頭も濡れていなくて、パジャマをしっかり着ていた。
でもわたしはちっとも不思議に思わなかった。
お兄ちゃんがいればなんでも教えてもらえる。ひとりでもなにも怖くない。
お母さんが弟を産むときに、入院しなきゃならなくてわたしはおじいちゃんとおばあちゃんのところに預けられたけれど、泣かないでいい子にしていた。おねしょもしなかった。帰りたいとも言わなかったし、お母さんが恋しくて騒いだりもしなかった。
お兄ちゃんが、いたから。
――お腹の中で肺が育たなかったらしくて、まあ病気だったんだよね。ひと声も泣かないままだったの、男の子だった。生きていればあんたのお兄ちゃんだったのよ。
母から聞いたのは、そう多い回数ではない。
親にとっても生まれてすぐに亡くなった子の話は辛いだけだったのだろう、物心ついた頃に二度ほど聞いただけだ。でもお兄ちゃんはその前からずっとわたしの傍にいてくれた。ずっと、知っていた。幽霊だとか、そういう存在というより、どちらかといえばわたしが成長するにつれて、兄の存在は都合のいい幻想になっていったように思う。いつからか、わたしがお兄ちゃんをこの世に産み直してあげたいと思うようになっていたけれど、それも思っているだけだった。わたしに対して、ずっと安心な毛布のままでいて欲しかった。
「あらやだもう、迎えに来てくれてるわよ!」
小銭入れの中身はコーヒーを買ってしまったせいで、足しても大きな数字にはならないくらいに減ってしまっていた。元からそう入っていた訳ではない。
兄の手をぶんぶんと振りながら、まだ駅から近い実家にぶらぶら歩いて帰ると、玄関のチャイムを鳴らす前に足音で聞き付けたのか母親が飛び出してきた。
駐車場にうちの車が停めてあったので、どうせ夫がきているのは分かっていた。わたしは横にいる兄を見上げる。兄がちらっと笑う。
「あんたはまったく、なに子供置いて、もう、もう、あんたって子は、」
「ふたりとも寝てる?」
「なにをあんたはのんきな声で、ああもう、母親が子供なんか置いて出て、」
父親が一緒だったんだからいいじゃん、と言いかけたところで夫が玄関に出てきた。なんだかあまり顔色が良くないのは、電灯の真下にいるせいだろうか。
「ごめん」
夫の第一声はそれで、わたしは、うん、とだけ言った。
「なに、夫婦喧嘩だったの?」
そういうんじゃないんですけど、いや、お、僕があんまり子供の面倒とか見なくてそれで、と夫がごにょごにょ口にした。お父さんは奥に引っ込んだまま出てこない。孫といるんだろう。
「そんな薄着で……あんたね、いくら若くないっていってもここら辺だって変な人出たりするんだからね」
「お母さん……さりげなくない感じで、若くないって言ったわね?」
「うちらみたいなおばちゃんだって、危ないんだから」
「お母さんはもうおばちゃんじゃなくておばあちゃんじゃないの」
「失礼な子だねえ、あんたも」
「お母さんに似たのよ」
「お母さんは子供置いて家を出たりなんかしたことないですよーだ」
「よーだ、って、お母さん……」
還暦のおばちゃんの言葉づかいかそれが、とわたしは笑うけれど、夫はどうしていいか分からないようで、なんだかもじもじとしていた。嫁の実家というのは、どんなに仲が悪くなくてもどこか居心地が悪いのかもしれない。ほんの少しだけ。一緒に暮らしてきた時間の差が、まだまだあるから。
「まあ、とりあえずお茶でも飲んでから帰りなさい」
「うん。お母さん、コーヒーあげる」
「なに、買ったの?」
「寒かったから」
「ほらみなさい、薄着してるから」
「でも別に平気だもん」
「なにが平気なのよ」
お兄ちゃんがいてくたから。わたしはそう、言わない。言ったらまた母を複雑な表情にさせてしまう。一応もう、大人なのだ。小さい頃はすぐ口にしてしまっていた。お兄ちゃんがいてくれるよ、お兄ちゃんが助けてくれたよ、お兄ちゃんがね、お兄ちゃんが。
わたしがお兄ちゃんというたびに、母は産まれてきたのに生きていくことができなかった兄を思い出して、切なくなっていたのではないかと今なら思う。子供を持って、はじめて分かることは実際に存在する。想像ではなく、実体験として。実感として。
お腹を痛めてなんてものじゃない、身体を引き千切るような痛みの中で産んだ子供を、そのぬくもりが消えていくのをどうしようもなく見ているしかできなかったという哀しさは、背負い切れなくても覆いかぶさってくるものなのだろう。
「おおおい、ちびが手におえなくなってきたぞお」
奥から父の声がして、わああああん、と次男の泣く声がした。
はあいはい、と返事をしたのは母で、わたしは夫をちらりと見てから笑った。ごめんね、となんでもないように言ったら、悪かったな、と向こうも返した。振り返らなかったけど、きっと後ろで兄も笑っていたと思う。
実家でいれてもらったコーヒーを飲んで、長男はうつらうつらしながらもじいちゃんと遊んでいたけど、チャイルドシートに載せた途端寝てしまった。次男もぐずっていたけど、車に乗せる前にたっぷり母乳を飲ませたおかげか、しばらくふにゃふにゃ言いながらも大泣きはしなかった。
「……悪かったな、」
ハンドルを握る夫が、前を向いたまま言う。信号は黄色から赤に変わるところで、結婚したばかりのときならアクセルを踏み込んで渡っていたであろう彼は、子供ができてからは黄色信号で車を停めるようになっていた。
「なにが?」
「いや、あれだろ、怒ってるだろ」
「なに?」
「家、飛び出してったし」
「怒ってるってより、なんか全部いろいろ、わーっと疲れちゃって」
子供の面倒全部お前に任せちゃってるもんな、と夫が言う。ウィンカーの、カチ、カチ、カチ、という音が夜に響く。ラジオがつけられていたけれど、ボリュームは絞られていてなにを話しているのかちっとも分からなかった。
「爆発してもいいから、子供とおれと、捨てないでいてくれ」
「なによ、それ」
「いや、男は仕事してればいいんだー、って同僚がそういえば離婚されてたの思い出したから」
「わたしが捨てるの? やだ、わたしそんな強い立場なの?」
くふふ、と笑ったら夫もつられたみたいに笑った。信号が青に変わる。ゆっくりと発進した車は左折する。
そういえばいつの間にか兄は姿を消していた。
あの兄は、わたしの幻想なんだろうか。それとも幽霊みたいな存在で、ずっといてくれるものなんだろうか。
十代の終わりと二十代の半分、わたしは兄の存在をいけないものかもしれないと思っていた。甘えた気持ちが空想の人を作り出して、なにかあるとわたしはそこに逃げ込んでいるだけなんじゃないかと。いくら抱いて眠れば安心するお気に入りの毛布でも、ぬいぐるみでも、手放さなければならない年頃はある。自分で作り上げた空想の兄を、いつまでも引きずっていてはいけないのではないかと思って。
でも兄は現れ続けた。
困ったときも哀しいときもどうしていいか分からないときも、わたしの頭を撫でるためにひょっこりと出てきた。わたしが望んでいたからかもしれないし、兄はまた別の次元で勝手に生きているものだからかもしれないし、それは分からない。
分からないけれど、出てきてしまうものならそれはそれで仕方ない。
いつの間にか手放すのをあきらめた。一生甘えた気質が治らないなら、それはもう自分の性格なのだと思うことにした。今日だって、だから助けてもらった。
舌の上に、慣れないタバコの苦味がまだ微かに残っている。
夫がいながら他の男に助けを求めるのは、安堵を感じるのは、浮気のひとつになるんだろうか。
「……まあ、身内だしね」
「うん? なに?」
「ううん、なんでもない。あーあ、明日も仕事なのに」
「なのに?」
「帰ったらもう寝る」
「うん。あ、あのさ」
なに、と聞いたら、夫が少しだけ照れたような声で、それでもどこか自慢げな色をつけて言った。
「風呂、掃除してあるから」
「……ありがと」
「うん、それくらい、なら、するし」
「……うん」
「飯は作れないから、あれだけど」
「……じゃあ、せめて美味しいときは美味しいって言って?」
「言わなかったっけ」
「言ってない、あっという間に食べておしまい」
「……ごめん」
「……なんか、ケンカでもしないといろいろ話さないのってダメだよね、もうちょっと話す時間持とうか」
「だな」
「ね」
シートベルトの位置を少し直すときに、ポケットの小銭入れに触れた。ガマ口の部分だろう、指先にかちりと硬い感触が残る。
次に会うときは、お酒を飲もう。約束してくれたから。お兄ちゃんと、缶ビールでも持って川原や公園に行ってちょっとだけ飲んで帰るのもいいかもしれない。傍から見たら、女ひとりがやたらにこにことビールを飲んでいるだけの、アル中なのかと疑われるような光景になるかもしれない。そうしたら、兄はまた笑うだろう。
わたしの中の、お兄ちゃん。
会ったことはなくても、大切な、大切な。わたしの都合で振り回しているだけの存在だとしても。
「セイフティ、ブランケット。か」
「なに?」
なんでもないよ、とわたしは首を横に振る。さらさらと広がった髪から、微かにタバコの匂いがしたような気がするけれど、気のせいかもしれない、気のせいでなかったとしても、それは兄との内緒の話だから、誰にも話さないでこっそり卵みたいにあたためておくのだ。そう思って、少しだけ笑った。わたしのお兄ちゃんがどこかに溶け込んでいる夜は紺色で、車の外には明るい月が浮かんでいた。