見失う
暗い部屋の中にカーテンは見えず、その部屋はぽっかりと抜け穴になったかに見えた。頭に何かの衝撃が走り、見間違えたかと左右の部屋を確認しても、見慣れた色ではなかった。エントランス前のレターボックスには部屋番号しかないけれども、何日か管理する人が居ない証拠のように、チラシが何枚も押し込まれていた。
引っ越した?まさか、僕に何も言わずに?何故、どこに。
闇雲にマンションのまわりの道を、ぐるぐるとMTBで走った。もしかしたら、ほんの近所に引っ越して、後で僕に話すつもりなのかも知れない。雨の日に桜の下で会ったのは、一週間も前のことじゃない。電話しても、出ない。その晩、僕は真昼さんに何通もメールを送った。
突然居なくなった真昼さんを探して、はじめて一人でハーフムーンに顔を出した。マスターは穏やかな顔で僕を迎えてくれ、僕一人では酒は出さないと言った。
「伊織君には何も言って行かなかったの?まーちゃんは新しいリゾートプロジェクトの手伝いに行ったよ。尊敬してる先生に、頼み込んだって」
「それ、どこ?いつ帰ってくるの?」
「詳しくは、知らない。イタリアだったかな。ずいぶん頼み込んで、どうにか潜り込んだって言ってた。仕事で考えることもあったみたいだし」
仕事のことなんて、何も知らない。イタリアなんて、何も聞いてない。
「いろいろと煮詰まってたみたいだよ。仕事も生活も」
屈託のない笑顔の真昼さんが、遠くで手を振っていた。
ルイを連れて夜の公園に散歩に行く。ジャングルジムにリードを結び付け、自分はてっぺんに座って月を見た。バランスを取って立ち上がってみようと思ったけれど、真昼さんみたいに上手には立てなかった。空に手を伸ばしても、月に手は届かない。真昼さんが何をしたかったんだか、僕にはわからない。空っぽの部屋を見上げて、ルイと一緒に帰る。
自転車で夜の街を走る。何度もハーフムーンの前まで行った。ドアを開ければ、真昼さんが当然のような顔で迎えてくれるのではないかと思い、実際に何度かドアを開けた。マスターは迷惑がらずに頷いてくれたけれど、真昼さんは居ない。
電話しようにも、どこにいるんだかわからないから、海外コードがわからない。メールは戻っては来ない。だけど、返信はない。
僕が子供だから、何も言わなかったんだろうか?思い出にされたくないっていうのは、覚えていて欲しくないって意味だったんだろうか。意味を問い質したくても、真昼さんは居ない。
居ない。
居ない。
真昼さん、どこ?
ゴールデンウィークを過ぎると、教室の中は俄かに大学受験の空気が漂い始める。御多分に漏れず僕も進学希望で、進路について特に希望はなかったのだが、目標を絞らねばならなかった。ルイを連れて散歩する道すがら、僕の目は真昼さんを探し続け、カーテンの変わった部屋を見上げてはルイに引きずられるように帰る。真昼さんがそこに居れば僕は。
真昼さんが居たら、何があるんだろう?
休みの日に上野まで出て、国立博物館に一人で行く。真昼さんは居ない。展示なんか見ないで、僕の隣を歩いていた筈の真昼さんを見る。あの建物は明治の建物よ、伊織。壁面のレリーフが美しいでしょう?あの時は、冬だった。今、葉陰は涼しいけれど、あの時真昼さんは長いコートを着ていたんだ。中庭の木の下で、膝を抱えて座る。
何故、何も言わないで居なくなったの?子供の僕は、置いて行かれたんだろうか。ずいぶん長いこと座っていて、腰が痛くなる。追いつくまで待っていて欲しかったのに、置いて行かれちゃったのか。尻を払って、もう一度真昼さんが美しいと言っていたレリーフを見に行く。あたしも、こうやって誰かの記憶に残るものを造る。
決まっていなかった進路を建築に定めたのは、追いかけたかったからかも知れない。知識を機械的に頭に入れることで、真昼さんのスペースを小さくしたかった。夜、ルイが散歩に行こうとしゃがれ声で吠える。サッチモ?ルイだってば。
「夜に散歩の習慣なんてつけた人が責任を取りなさい」
母にリードを渡されて、暗い道を歩くうちに真昼さんのマンションの前に立つ。居ないのに。
夏休みに入る頃、隣のクラスの女の子に交際を申し込まれた。彼女は充分可愛かったし、僕に断る理由はなかった。一緒に図書館に行って勉強することは新鮮で、たわいないお喋りの後にキスしちゃうのも簡単で、夏の終わり頃に誘った僕の部屋で、多少の失敗はあったものの、彼女と初めてのセックスをした。そして秋が来て受験シーズンが始まり、お互いに第一志望の大学に進路を決めたところで、彼女とは別れた。
大学のサークル活動で知り合った女の子は、長い髪が美しかった。ずいぶんとおとなしい子で、夜の九時になると、帰らなくてはならないとソワソワした。幼稚さとギリギリの育ちの良さが面白かったが、自己主張するために他人に依存しなくてはならない性格に、すぐに飽きた。僕ではない男ならば、その頼りなさを守ろうとしたのかも知れない。表面だけの優しさで離れた心を隠すことを、僕は覚えた。
真昼さんは本当に居た人だったのだろうか。輪郭はおぼろげだ。少し歳をとったルイと夜の公園を散歩する時に、 ジャングルジムのてっぺんに黒いジャージ姿が見えるような気がする。あの人は、僕が夢を見ただけだったのではないだろうか。携帯電話のメールアドレスを呼び出して、短いメールを送ってみる。
真昼さん、僕は大学に入って二度目の桜を見ました。
返信は、来ない。
僕は未練がましいのだろうか?真昼さんから最後に聞いた言葉は「連絡する。また、必ず」だったのだ。ハーフムーンには、月に一度程度顔を出し、カウンターに腰掛けて流れる曲を一曲分聴いて、席を立った。大学生になったとは言え、飲酒年齢に達していない僕に、マスターはショットグラスに一並び程度のバーボンを差し出し、金を受け取らなかった。
「それは、プライベート用の酒だからね。二十歳を超えたら、ちゃんとした量でお代ももらうから」
マスターの好意に甘え、時々グラス磨きをした。ハーフムーンに居れば、真昼さんは夢の人ではないのだと信じられる。
大学生活はそれなりに楽しいし、サークル活動もアルバイトも充実していないとは言えない。恋人はその後できなかったが、別に探そうとも思っていない。実際気持ちが離れてしまった後に、私を見てくれていないと詰め寄られるのは、結構な苦痛だった。友達と笑いながら麻雀なんか打って、コンビニエンスストアでアルバイトをして、時々連れ立って出かけるような当たり前な生活だ。
そして、時々泡のようにぷかりと浮かんでくる。
真昼さん、どこ?
ルイと散歩に行けば、癖になってしまったコースの中でジャングルジムを見上げる。駅でMTBのチェーンロックを外して頭を上げた瞬間に、懐かしい気配が横にあるような気がして、後ろを振り向く。
真昼さんと過ごした期間はほんの数ヶ月で、顔を見た時間なんて本当に少しなのに、真昼さんの分だけぽっかりと開いた穴が塞がらない。何がそれの埋め草になるのか、そもそも埋め草が必要な穴なのか、教えてくれる人もいない。
そんなこと自分で考えなさい、伊織。僕の中の真昼さんが、僕を笑い飛ばす。
梅雨が始まると、僕は二十歳になった。ハーフムーンのマスターは、お祝いだと僕にメーカーズ・マークを一杯奢ってくれた。
「次からは、グラス磨きしても出さないよ。自分の金で飲む酒ってのは、美味いもんだ」
感謝しながらそれを味わった。もう、むせることも無い。心の中で真昼さんに話しかける。僕はもう補導に怯えることもなくなって、堂々とハーフムーンに居ることができるようになったよ。
そうして、梅雨の終わりかけたある日の夜、僕の携帯が着信を知らせた。小さな液晶に表示された名前が信じられなくて、何度も見直しているうちにコールは切れた。