想う
一度だけ、昼間に真昼さんと外を歩いたことがある。どちらから言い出したのか忘れたけれど、上野の国立博物館に行った。目的のものがあったわけではなかったと思う。広い館内を歩き回ったけど、展示物も覚えていない。ただ、真昼さんが呟いた言葉は覚えている。
「あたしも、こうやって誰かの記憶に残るものを造る」
真昼さんの部屋に、日本の建物の写真はあったろうか?実は、それも覚えてはいない。
ルイを連れて、夜の公園に行く。真昼さんはもちろん居ない。電話しても、繋がらない。真昼さんの部屋は三階で、下からそこを見上げても、灯りはない。ルイと一緒に歩いて帰る。
アルバイトの帰り、駅でキョロキョロする。友達と遊んだ帰りに、ハーフムーンの前を通る。メールしてみる。時々、返信が来る。
――あたしに会いたければ、良い子で待ってて。
そして、翌日に持久走のタイム測定を控えた夜に電話が掛かったりする。勝手な呼び出しにブツブツ言いながらもいそいそと出て行き、ただ部屋まで送って帰ってくる。待っていることと、酒の飲み方を教えてもらうこと、酔った真昼さんを部屋まで送ること。この三つが冬から春までの間、僕が一番にしなくてはならないことだった。
部屋まで送ってお礼のキスの時、どうしても我慢ができなくて、真昼さんを抱きしめてしまった。真昼さんは抗うことをしない代わりに、応えてもくれなかった。手を離した僕を、とても優しい目で見つめてくれたけれど。
「ごめんね、伊織。でも、あたしは伊織とは寝ないの」
「何故?子供だから?」
真昼さんは微笑んでいたと思う。
「思い出にされたくないから」
真昼さんの言葉の意味は、わからなかった。いつか言った通り、僕は弟なのかも知れない。会いたいと思うのは僕一人で、真昼さんにとっては暇つぶしに構ってやる程度の人間だったのだと。
それでも、良いと思った。真昼さんの屈託のない笑いと、踊るような歩き方を見ていたいと思った。同じ場所で呼吸をして、子供扱いされながら、真昼さんに会いたかった。いつか、真昼さんが僕を弟ではなく「僕」として見てくれる日が、必ず訪れる。その日まで、僕は真昼さんの横に居たいと、そう願った。
真昼さんは大抵一人でハーフムーンにいると思っていたのは、真昼さんが一人の時にだけ僕を呼び出していたからだ。マスターと真昼さんが僕の知らない誰かの話をすることはなかったし、真昼さんの隣に他の誰かの痕跡を見たこともない。だから本当のところ、僕は真昼さん自体を知らないのだ。
考えてみれば、マスターは高校生の頃の真昼さんを知っているのだから、僕に言わないだけでいろいろなことを知っているのだと思う。真昼さんが学生の頃どんなだったのかとか、どういう友達がいるんだとか、家族はこうなんだとか。マスターは何も言わないし、真昼さんも言わない。肝心の僕は目の前の真昼さんに精一杯で、「僕と会っている真昼さん」以外のことは、何も見えなかった。
気まぐれに僕を呼び出して、僕とは寝ないと平気で言う。呼び出されるまでは、呼ばれても行くものかと思うのに、携帯電話が震えるたびに僕の心も震えた。呼び出しに応じなければ、真昼さんには二度と会えないような気がする。毎回母の苦い顔を背に、僕は夜の街に飛び出した。出来うる限りのスピードで自転車を漕ぎ、息を切らしてハーフムーンに着く。
「来たわね、伊織」
労いでも喜びでもない真昼さんの言葉で迎えられ、スツールから降りるのに肩を貸して、自転車で送る。それが僕に課せられた仕事であり、それの代償は腕を回すこともできないキス。 ミネラルウォーターを飲み込むときに動く喉を見る。ベッドからかすかに聞こえる寝息を聞き、そっとドアを閉めて階段を降りると、もう何年も会っていない気がした。
「伊織も早く大人になればいいのに。大人は楽しいよ」
「まーちゃん、無茶言わないの。焦って大人になっても楽しくないよ、伊織君」
真昼さんとマスターが交互に言う。ショットグラスに注いでもらったバーボンを舌先で舐めながら、僕はそれをぼんやりと聞く。真昼さんはとてもじゃないけど、道理を弁えた大人には見えない。カウンターの上で華奢な体を肘で支えて、目を閉じて音楽を聴いている姿は、確かに大人らしいと思えるんだけれど。
桜がほころびかけた三月の終わり、夜の公園でまた真昼さんに会った。部屋に居たのなら何故連絡をくれないのかと不満に思いながら近寄っていくと、一足早くルイがじゃれついた。
「今日はジャージじゃないのよっ!」
黒っぽいパンツとかかとのある靴は、確かに仕事の帰りなのだ。
「何してるの、公園でなんか」
「桜の蕾を見てたのよ。今年の桜は見ておかなくちゃならないから」
「桜なんて、毎年同じじゃん」
ちゃんと気に留めれば良かった。
「来週には満開ね。来週、ルイも一緒に夜桜しよう。来週の今日、夜の十時にね」
前もっての約束なんて、それまでしたことはなかったから、驚きながら僕は、浮き立っていた。
天候に文句を言っても仕方ない。一週間後の夜は見事に雨で、公園に行っても真昼さんがいないことは、わかりきっていた。出掛けて行ったのは、真昼さんがいないことを確認するためだろうか?約束を待ち侘びて、ただひたすらに過ごした春休みの、単なる暇つぶしだったろうか。ルイは連れて行かなかった。傘をさして公園を歩き、真昼さんの部屋を見上げた。灯りは点いておらず、電話にも出ない。
傘をさしたまま、公園に戻って桜の木を見上げた。あんなに勝手な人に振り回されて、僕は何をどうしたいんだろう。鮮やかな笑顔が僕を笑いとばす。そんなこともわからないなんて、子供ね、伊織。
「伊織?来てたの?」
仕事帰りとも思えないカーゴパンツ姿の真昼さんに声をかけられたのは、公園を出るところだった。
「だって、約束したもん」
「雨降ってるのに。あたしがいると思った?」
「思わなかった。でも、もしかしたらって」
真昼さんの手から、傘が離れた。傘をさした僕の首に腕が巻き付き、僕はなされるがままだった。
「雨降ってるのに、傘さして来たんだね」
真昼さんの唇が僕の唇をやわらかく包む。
「会いたかったの?」
「うん」
答えは、真昼さんが持っていた。そうだ、僕は会いたかっただけなんだ。
「伊織」
傘を拾いながら、真昼さんが僕の名を呼ぶ。
「もう大丈夫。何も約束しないけど、伊織が好きよ」
雨の落ちてくる空を見上げながら、桜が散ってしまうと心配する真昼さんから、お酒の匂いはしなかった。好きだと言葉をもらった幸福感に、僕はぼうっとしていた。
「春は思いの外に早く来るのね。雨が強くなってきたわ。またね、伊織」
傘をくるりと回し、真昼さんが背を向ける。部屋に入れてくれないのかと思ったけれども、酔っていない真昼さんの世話を焼くわけにもいかず、僕達はその場で別れた。
「今度はいつ会えるの?」
「連絡する。また、必ず」
また、必ず。
また、必ず。だけど、それはいつ?翌週に見上げたマンションの窓から、カーテンは外されていた。